陰極
少年には、十の誕生日を目前にして新しい癖ができた。それはふとしたとき、無意識に左胸を
押さえるというものだ。
理由は、判らない。
ただそこに触れると、不思議と気持ちが落ち着くように感じるのである。
少年は左胸を押さえ、そこに刻まれたものに触れる。そうすることで得られる安堵の意味など、
知らぬままに。
あれから、母は寝付くことが多くなった。病に臥せるという意味では、ない。母は変わらず旅籠で
下働きをしているし、夜はトニーの服を繕ったりもする。が、眠りに就く時刻は以前よりも格段に
早くなった。トニーより先に眠ってしまうこともある程で、しかしどうしてなのかはいくら問うて
も教えて貰えないのだ。
何でもないから、と母は言う。いつものきれいな微笑みを見てしまうと、もうトニーには何も
訊けなくなった。そして母は自分の身よりも、トニーの身を案じてこう言うのだ。
「もう二度と、森へ行ってはだめよ」
と。そう言うときの母の表情は何故だか泣いているように見えて、トニーはただ頷くより
ない。
実際、森にはあれ以来一度も近付いてすらいなかった。
森での出来事が夢ではなかったことは左胸の印が教えてくれたけれど、母はこれを見てから、
トニーを厳しく戒めるようになった。理由は、やはり教えてくれない。知らないほうが良いの
だと、母はトニーを宥めるのだ。
森には良くないものが棲んでいるのだと、もっと幼い頃にひとに教わったことがある。ひとりで
森に入れば、その悪いものに取り憑かれてしまうと身振り手振りを交えて教えられ、その日の晩は
恐ろしくて眠れなかったものだ。
町の子どもは皆、同じように森に恐れを抱いているのだが、トニーを森へやった子どもはそうでは
なかった。本当に悪いものに取り憑かれるのかどうか、確かめて来いとトニーは言われた
のだ。
言いつけを破って何度か森へ入ったのも、それでだった。知っているのはその子どもとトニーの
二人だけ。餓鬼大将のようなその子どもは、トニーを森へやるときは何故か取り巻きを追い払う
のだ。
トニーは初めこそ、恨みを抱いたものだった。運良く何かに取り憑かれることなく済んだものの、
二度三度と続けば次は無事で済むか判ったものではない。トニーはこわかった。もし取り憑かれて
しまったら、母にどう謝れば良いのか判らないから。
しかし今は、トニーはその子どもを恨みになど思ってはいなかった。憎んでもいない。
トニーは左胸をそっと押さえた。
森へ入ったのは、きっとこれを貰う為だったのだと、思う。たった一度、森で迷ったあの日。
あのとき。トニーがあの不思議な少年に出合ったのは、偶然ではなかったのに違いない。
出来るならば、もう一度会いたいと思う。けれど母に戒められているし、あの餓鬼大将もあれから
トニーを森へやろうとはしなくなった。こわくなったのかもしれないと、トニーは漠然と思って
いる。
あの日、町の人々は随分長いことトニーを捜し回っていたらしいことを、母が語ってくれた。
森の端、町の外れで倒れているトニーが発見されたときには、もう夜が明けようという頃だったと
いう。
そんなにも長い時間を、件の少年と過ごしていたとはトニーは思えなかった。母に、町の大人に
どうしてあんなところにいたのかと尋ねられたけれど、トニーにも判らないのだから答えようが
なかった。
トニーが行方不明になっていた間、最も気が気でなかったのはトニーを森へやった張本人である
ことは間違いない。散々、大人に問い詰められたのだろう。トニーをどこかへ連れて行く
餓鬼大将を、多くの子ども(追い払われた取り巻きも含めて)が見ていたのだ。
けれどそんなことは、トニーの預かり知らぬことでしかない。餓鬼大将がどう大人に責められ
ようと、トニーが森で過ごした時間は元には戻らないのだ。それにトニーは、少々つまらない
とも思っていた。餓鬼大将が何もして来ないものだから、トニーの森へ入る機会も失われて
しまった。
母は今晩も、トニーより先に眠りに就いた。この母を悲しませることは、トニーには出来ないし
したくないけれども、森へもう一度行ってみたいという思いは強くなるばかりだ。
蝋燭の消された暗い部屋の中で、トニーはごそごそとベッドから這い出し靴を手に持った。
粗末な靴は、床の上を歩くとこぽこぽと音がする。母を起こさないようにするには、外に出る
まで裸足で歩くよりなかった。
外は、こわいくらいに静まり返っている。半分程欠けた月が町を僅かながらに照らし、かろうじて
足許が見えるという程度だが、何もないよりははるかに有り難かった。小さな小さな町だ、
外灯は大通りまで行かねば一つもなく、月明かりのない夜はまさしく闇に包まれて、外出など
出来たものではない。
トニーはそろそろと靴を履き、なおも足音を潜めて家を離れた。衝動的に出て来てしまったが、
行くあてがあるわけでもない。月夜の散歩――――そう、そんなところだろうか。夜に外に出た
ことのないトニーは、胸をどきどきとさせながら人影のない夜道を歩いていく。
子どもの足では、さして遠くには行けない。ダンテは月の光を頼りに森を眺め、我知らずため息を
吐いた。
迎えに来る、と少年が言ったことを、トニーはちゃんと覚えている。しかし、十八歳、だ。
十八になれば迎えに行くと言われた。あと八年と少し。それは幼いトニーにとって、途方も
なく遠い年月である。
(十八まで、待たなくちゃだめなのかな……)
十八歳という数は、この町では男児が成人を迎える年齢である。その歳になれば否応なく
独り立ちをせねばならず、成人を迎えると同時に婚姻を結ぶものも少なくはない。まだ十の
トニーには、想像もつかぬような未来の話だ。少年は、それまで待てと、トニーに言う。それ
までは一度も、会うことはないという意味なのだろうか。
さみしい、とトニーは物憂げなため息をこぼした。森を見つめる双眸はひどく切なげで、まるで
恋焦がれる相手がそこにいるかのようだ。
立ち尽くしたまま物思いに耽るトニーに、やおら近付く影があった。無造作な歩みであるに
かかわらず、足音は密やかで気配がない。まるで気付かぬトニーに、しかしその影は別段危害を
加えようといったふうもなく、いっそのんびりと声を掛けた。
「坊やみたいな子が、こんな夜中に散歩とは感心しないな」
低い声音――――間近に来られるまで気付かなかったトニーは、驚きのあまり飛び上がった。
まさかそれ程驚くとは思っていなかったのか、影の主はがりがりと短い髪を掻き毟る。
「そんな驚かすつもりじゃなかったんだが……」
済まん、と謝られ、トニーはそろそろと顔を上げた。トニーをすっかり覆ってしまう大きな影の持
ち主は、トニーの三倍はありそうな屈強な体躯の男だった。町の人間にしては、どこか雰囲気が
違うように思えて、トニーは無意識に一歩後退る。
「だ、だれ……?」
少なくとも、トニーは知らぬ大人だ。旅籠で働く母なら知っているかもしれないが、確かめる
ことは出来ない。
背の高い男は、トニーが怯えているのを察して膝を折った。その場にしゃがみ込むと、ようよう
トニーと同じ背丈になる。
「怖がらせちまって、悪いな。べつに、お前さんを取って喰おうなんざ思っちゃいねぇから、
そう警戒してくれるなよ。な?」
にっと、あけすけな笑みを見せられて、トニーは少しだけ緊張を解いた。全く警戒せぬわけには、
さすがにゆかない。それが見て取れたのか、男が苦笑した。
「よく出来た子だ。親の躾が良いんだろうが……」
男は笑みを治め、じっとトニーの目を覗き込んできた。この暗さでは、男の双眸は真っ黒にしか
見えない。森の中では、あの少年の瞳の色をきちんと見分けられたというのに、どうしてだろう
か。
意図せず左胸を押さえたトニーの小さな手を、男はちょっと見下ろしたようだった。
「坊や、名前は何て言うんだ? あぁ、俺はグルーって名だ。狩りを生業にしてる」
狩り。トニーは耳慣れない言葉に目を瞬かせた。知らぬ言葉ではない。狩人と呼ばれる人々は、
定住をせずに狩りをしながら町から町へと渡り歩くのだと、母に教わった。この小さな町に旅籠が
あるのは、狩人などの旅をするものを迎える為なのだとも。
話に聞いたことはあっても、実物を見たことはなかった。狩人が町を訪れても、大人たちは
けっして良い顔をせず、子どもたちにいらぬ影響があってはならないからと遠ざけてしまう
のだ。ささやかながらも旅籠があるのは、旅人を押し込めておく為なのだと、母が苦い表情で
言っていたのを思い出した。
「狩り……じゃあ、ここにも狩りに来たの?」
トニーは自分の瞳が、きらきらと輝くのが判った。母に話を聞いてから、トニーは狩人に興味を
抱いていたのだ。実物が目の前にいるとなれば、気持ちが昂ぶらずにはおれない。
身を乗り出すトニーに男は軽く目を瞠ったが、それもすぐに消えて笑みを見せる。
「獲物がいれば、どこにでも行くさ。ここはまぁ、通り道だったって程度だがな」
「すぐ行っちゃうの? いつ? あした?」
矢継ぎ早に問うトニーの頭を、グルーは大きな手で撫でた。嫌ではないけれど、あの少年にして
貰ったときのような心地好さには届かない。
「少し気になることもあるからな。発つのは明後日ぐらいにするつもりだ」
どうせ身一つ、連れもないから気軽なものだ。と磊落に笑う男を、トニーはぼんやり見上げる。
良いな、と思った。煩わしいことから遠く離れたところにいるグルーが、幼いながらも羨ましく
感じる。将来は、このひとのようになれたら……
「じゃあ、……じゃあ、ね、あしたも、会える?」
大人に見つかるといけないから、誰にも秘密で会えないかと、トニーはグルーの手を握り締めて
言った。町を発ってしまう前に、出来る限り言葉を交わしていたい。
「……だめ?」
グルーが答えてくれないので、駄目だと言われると早とちりをしたトニーは、瞳に涙を溜めて
グルーの手に縋った。慌てたのはグルーだ。トニーの手を強く握り返し、早口に弁解する。
「待て待て、誰も駄目なんて言ってねぇだろ?」
宥めるようにトニーの頭を撫で、グルーは微苦笑を浮かべた。どこの町へ行っても、狩人は
歓迎されないどころか忌避されるのが常である。当地の子どもと触れ合うことはグルーにとっても
初めてのことで、しかもその子どものほうから「また会いたい」と言われて、どう反応を返せば
良いか判らなかったのだ。それに、誰にも見つからぬように、となれば夜更けにどこかで待ち
合わせるしかない。もちろんグルーとて、日中に会えるとは思っていなかった。誰かに見られ
れば、責められるのはこの子のほうだ。それは避けたい。が、まだ十にもならぬだろう子どもが、
こんな夜更けに外に出ることをよしとは言えず――――しかしながら、また会いたいと言われて
嫌な気分ではなく、むしろ嬉しくすらあるというから困ったもの――――などという葛藤が
グルーの中にあったことを、トニーは当然ながら知るよしもない。
「会ってくれるのっ?」
期待に煌めく瞳に、グルーが内心で白旗を掲げたことも、トニーは知らない。トニーにとっては、
グルーの「良いぞ」という肯定の返答がすべてだった。だから、
「まったく……坊やには敵わないな」
というグルーの呟きの意味も、トニーにはよく判らなかった。
明日の晩、今日と同じ時刻に、と約束を取り付けることに成功したトニーは、既に今から楽しみで
ならず、胸をどきどきと高鳴らせる。どうせなら、このままグルーの宿泊する旅籠について
行きたいくらいだが、それはさすがに出来ない。母に黙って出て来ているのだ、見つかれば
どんなにか叱られるだろうことは目に見えている。
「じゃあ、また明日な」
トニーを家の間近まで送り、グルーは去り際に言った。
「日のあるうちに、よく寝ておけよ」
くしゃりと頭を撫でてくれる大きな手に、トニーは猫のように目を細める。グルーの言う通り
寝溜めをしておかなくては、ろくに話をすることも出来ず眠ってしまいかねないと、ちゃんと
自覚しているトニーだ。だって今も、眠くて仕様がないのだから。
「うん……」
返事すら、眠そうだ。目を瞑ってしまえば、立ったままでも寝られそうなくらい、眠い。グルーが
頭を撫でる感触すら、今のトニーには眠気を手助けするものでしかなく。
「じゃあな、坊や。自分のベッドに行くまで、寝るんじゃねぇぞ?」
うん、とこっくり頷いたトニーに笑みを残し、グルーの手が離れていく。さみしい、と思うけれど
口には出さなかった。言えばきっと、グルーは困ってしまうだろうとトニーには判ったから。
「おやすみ、グルー」
広い背中に向かって舌足らずに言えば、おやすみ、と低い声がトニーの耳を撫ぜて。
トニーはグルーの影が見えなくなってから、のろのろと覚束ぬ足取りでベッドを目指した。
幸いなことに、母は気付かなかったようだ。どうにかベッドに潜り込むと、すぐに睡魔が
トニーに取り付き、夢の中へと誘った。抗う理由はどこにもない。
(あ……)
そういえば、グルーにこちらの名前を教えるのを忘れてしまった。思い出したけれど、今からでは
もう遅いことは明白だ。明日ちゃんと言おう、と思ったときには、トニーはすっかり夢の世界に
いて。
森で出合った少年と、手を繋いで木陰に座り。目が合うと、髪を撫でてくれて。頬や額にキスを
してくれるのがとてもとても嬉しくて、このまま目が覚めなければ良いのにと思ったけれど。
夢は醒め。
また、一日が始まる。
いきなりグルー登場です。良い位置にいてほしいという願望を込めて…
歳は若めですが、トニーから見ればおじちゃんになってしまいます。
[08/04/02]