朝霧
諦めろ。自分の中に棲みつく誰かが、そう囁く。
声はごく小さい。それでありながら、その声が聞こえなくなるということはなくて。
彼は困惑し、狼狽した。諦めるなどできることではない。どうあっても、現状を拒み続けなければ
ならぬのだ。しかし。
諦めろ。そう囁き続ける小さな声が、本当は誰のものであるか、彼には判っているから。
だから彼は足掻く。
それがたとえ、無駄なことかもしれなくとも。
電話が鳴っている。ジリリリ、と古めかしい声音で鳴くのは、事務所に据えた骨董品じみた
電話機に違いない。
久々に聞いた気すらするその音に奇妙な懐かしさを感じつつ、ダンテはひょいと
腰を上げた。いや、実際には上げようとしてできなかった。腰に絡み付いた逞しいものが、
ダンテの起立を許さなかったのだ。
「……なに、」
強制的に元の位置へ引き戻されたダンテは、恨みがましくそちらを睨んだ。ダンテと同じ
銀髪碧眼の、ダンテよりも年かさの男と目が合った。その、緑を含んだ氷色の瞳を真直ぐ
見つめることに、ダンテはいまだ気後れを感じている。すべてを見透かされるような気がして、
どうにも落ち着かないからだ。
つと目を逸らすと、内心を読まれたのか男はダンテの顎に指をやり、こちらを見ろと強いてきた。
男が命令口調であることは、もはや今さらのことだ。ダンテもこれには慣れており、疑問を抱く
ことはあっても口調を改めてほしいと思ったことはない。
ダンテは上目遣いに男を見やった。視線が、絡む。ダンテは我知らず喉を上下させた。息苦しさ
からそうしたのでは、残念ながらない。ある意味で息苦しさは常にダンテの傍らにあるのだが。
「どこへ行こうとした?」
静かな問い掛けに、ダンテは一度、意味もなく唇をぱくりと開閉させた。
「電話、鳴ってただろ」
誰にも受話器を上げてもらうことなく鳴きやんでしまった電話機を思いながら、ダンテが
恨めしげに言えば、男はなぜか訝しげに眉間の皺を深くした。
「放っておけば良い。どうせ下らぬ用件だろう」
決め付けて、男はダンテの腰を抱き寄せ座りの良いように位置を修正した。ダンテはちょっと
絶句し、しかし男の膝から逃れようという素振りをせずにいる自分を、何を考えているのかと
内心で罵る。
逃げてもどうせ捕まるだけだとか、そんな言い訳はきりのない自己嫌悪に繋がるだけだ。
「お前はここにいろ。どこへも行くな。お前のいるべき場所はここだけだ」
何か、呪文めいたものを朗々と読み上げるかのような声音に、ダンテは唇を噛んだ。この男、
平然と何を勝手なことを言っているのだろうか。自身の居場所など自身で決める。他者にこうと
決められるのは大嫌いであるし、反撥せずにはおれない。ダンテは人一倍矜持が高い。それを
侮られるような真似を好まぬのは当たり前のことだ。
だと、いうのに。
「……うん、」
そう呟き、ダンテを横抱きにする恰好でソファーに腰掛けた男の肩口へ、ぽすんと頭を埋める
ようにした理由が、彼には判らなかった。
電話が鳴っている。ジリリリ、と古めかしい声音で鳴くのは、事務所に据えられた骨董品じみた
見目の電話機に違いない。
バージルは片方の眉を器用に持ち上げ、ちらりと事務所のほうへ目をやった。ジリリと、電話機は
けたたましくも自らの存在を主張してやまない。肩を竦め、バージルはソファーから腰を上げた。
広げてあった新聞はテーブルの上へ。全く読み進んでいないことは、一面をぱらりとめくった
だけであることから判る。
急ぐでもなく事務所へ向かったが、電話は鳴りやむことなくバージルを迎えた。受話器を取り
上げるまでは、とばかりに鳴り続ける骨董品に少々辟易しつつ、バージルは受話器に手を
乗せた。
「Hello?」
という決まり文句を、バージルはあえて言わなかった。臍を曲げていたからではなく、言う間も
なく電話の向こう側の相手がまくし立てるように喋り出したからだ。
『もうちっと早く電話に出るってことが出来ねぇのかっ?』
この声は馴染みの仲介屋のものだろう。自称情報屋ということだが、バージルにはどちらでも
構わない。他者のことには徹底的に関心を抱くことのないバージルである。
「……用件を言え」
そのつもりもなく低められた声音に、あちらはぎくりとしたようだ。一瞬の間があり、それから
何かを思い出したように急き込んで話を切り出した。
『バージルか。そこに、ダンテ坊やはいるか?』
この仲介屋はダンテと知り合って長い。性格もあるだろうがダンテにひどく気安いところがあり、
坊や呼ばわりをすることもままあった。ダンテが嫌がるのを知っていて、ふざけて呼ばわることが
大半なのだが、どうも今日は違うらしいと、声音から察したバージルは眉を顰めた。
「あれに何の用だ」
声音が剣呑なものになっていることに、バージルは気付いていない。電話口の相手は怖じ気付いた
ようだ。しかし電話を切るつもりもないらしく、この辺りの図太さは感心に値する。もっとも、
バージルには人を評価するということすらしないのだが。
『いや、そのだな、ダンテがこないだ請けた依頼のことは覚えてるだろ?』
覚えているも何も、それきりダンテは戻って来ないのだから呪わしくすらある一件だ。バージルが
答えずにいると、仲介屋は咳払いを合いの手代わりに挟んで続けた。
『その依頼主がだな、やけにダンテを気に入ったらしいんだよ。で、俺に連絡を取り付けた
理由ってのがだな……』
「依頼か」
『いんや、ダンテは無事に家に帰ったか、だとよ。家まで送ろうとしたがダンテは断った。
あいつのことだ、変に臍でも曲げたんだろ。バスもメトロもねぇ時間だったそうでな、その後の
ことが気にかかって仕方なかったとか、どうとか……』
俺に訊かれても困ると、この仲介屋は思ったらしいが、何せ相手は金のなる木だ。邪険にしたい
ところをぐっと堪えたのだと言うが、それが本心か方便かはバージルには判らないしどちらで
あっても関わりのないことだ。
それで、と続ける仲介屋に、バージルは目を眇めた。
『ダンテのやつはいるか? 代わってくれとは言わねぇが』
「……今はいない」
まったくの嘘ではない。むしろ真実を有り体に伝えたと言えるだろう。ダンテは今はいない。
いずれ、近いうちにここへ――バージルの腕の中へ戻って来る。いや、連れ戻す、という言葉の
ほうが適切かもしれない。
仲介屋はバージルの言葉をどう解釈したか。おそらく“今は”外出しており屋内にはいないの
だろうと聞いたに違いない。
『そうか。なら良いんだ』
安堵の色濃い声音に、バージルは我知らず口角をわずかに吊り上げた。何も知らぬ者にありの
ままを語って聞かせるほど、バージルは暇ではないし、話すつもりも元よりない。
「用はそれだけか」
『あ、あぁ、手間取らせて悪かったな』
また次の仕事もよろしく頼む。そう言い、仲介屋は回線を切った。バージルもほぼ同時に受話器を
置いている。チン、と軽やかな鈴のような音を響かせ鎮まった電話機を、バージルはしばし
見下ろした。
静まり返った事務所。もの言わぬ黒檀の机と椅子。整理整頓という言葉の存在を知らぬ机に、
あたかも主のように鎮座する電話機へ。バージルは再び、手を伸ばした。
何か、確信めいたものがあるというわけではなかった。ただ漠然と、茫洋と。何ごとに対しても
理でもって臨むバージルにはまったく不釣り合いだが、“何となく”、受話器を取り上げ
ダイヤルを押した。
電話が鳴っている。これで二度目だ。
「なぁ、」
自分を恥ずかしげもなく膝に抱く男へ、ダンテは期待せず声を掛けた。ジリリと孤独に鳴き続ける
機械が、少々不憫に思えるのだから精神的に支障を来していないとは言いがたい。事実、ダンテは
すっかり弱り果てているし、この異常な状況下において正常心でいられるわけはなかった。
「駄目だ」
にべもない応えに、ダンテは判っていたこととはいえ落胆を隠せなかった。そう。呟き、俯く。
拗ねた子どもじみた自分の仕種をひどく嫌悪するが、男はそうは思わなかったらしい。つむじを、
強すぎぬ程度にぽんぽんとやる、その掌に苛立ちや不快は感じられない。
ずるい。ダンテは唇を尖らせた。男の掌の感触に神経を集中させていることを、彼はまったく
自覚していない。
「そんなに気になるか?」
何が、と問おうとして、やめた。電話のことだとすぐに思い至ったからだ。いまだ鳴りやまぬ
電話の声を耳に納めながら、ダンテは少しためらうようにして首を縦にした。
自分に掛かってくる電話、その用件などたかが知れている。仕事か、それともここしばらくは数が
減っていた間違い電話か。前者であってもさほど重要とは思わぬダンテであるが、もし、それ
以外の電話だったなら無視することはいけない。そう、もしもこの電話が。
(バージル、だったら)
この数日、まったく音沙汰のない双子の兄からの連絡であったなら、ダンテはそれを無視すること
など出来ないし、してはならなかった。兄は正しく、ダンテのすべてであるのだから。
しきりに電話を気にするダンテに、男は何かしら不穏なものを感じたのだろうか。
「お前は、」
男の、年かさであるためかバージルよりも低い声音が、ダンテの耳朶を舐ぶるように撫ぜる。
ダンテは我知らず背筋を粟立たせた。実際には、男は別段、ダンテの耳許に唇を近寄せている
わけでもないのだけれども。
「お前は何をも気にする必要はない。判っているな、ダンテ?」
私のそばにいろ。暴君の優しい声に、なぜ、またしてもこくんと首肯してしまったのか。
ダンテが無意識に頷いたことに、男は充足したのか珍しくもふっと微笑を浮かべ。その、微笑が。
兄が時折見せるそれとまったく同じものだったからか、どうか。
男がダンテの頬にキスをして、軽く舌を這わせてきて初めて、彼は自分が涙を流していることに
気付かされたのだった。
その涙の意味までは、ダンテには判らなかったけれども。
おちる。落ちる。墜ちる。
そこは苦痛に満ちた奈落の底か、あるいは幸福に彩られた楽園か。
落ち、墜ちゆく者に己の行き着く先など知りようもなく。ただ、ただ、おちる。
そこにあるのは救いか、痛みか。
奇妙な方向へ話が進んで…いるのは初めからですか。うーん。
[08/11/26]