朝霧アサギリ









人間は、そこがどんな環境であれ臨機応変に順応することのできるいきものである。その順応を、 自分はそうなるものかと拒絶する者もいるだろう。が、そうして己に暗示をかけねばならぬ時点で、 その者はすでに半ば己を取り巻く環境に順応しているといえる。それは何か一つの事象を、 考えぬよう考えぬよう暗示をかけ、逆にその事象のことばかり考えてしまっているのとよく似て いる。

人間は何ごとにも、何ものにも順応できる――してしまえるいきものだ。





ここにも一人、自分の置かれた状況への順応を拒み続けている人間がいる。いや、厳密には彼は 生粋の人間ではない。人間以外の血が彼の躰には流れており、そういう意味では混血とも 言えた。
詳しくは省く。ともかく今現在、彼は現環境への順応を拒んでいる。順応してはならないと自身を 律してもいた。そうしなければならぬ何かを、彼はひどくおそれている。

現在の状況に置かれてどれほどが経過したか。おそらくは三日程度であろう。二度、夜を見送った 覚えがある。その間ずっと、ひたすらにずっと、彼は軟禁状態にあった。
軟禁、とはいかにも穏やかでない言葉だ。実際、彼はこの三日間一度も外へ出ておらず、また 行動の自由も制限されているのだから、軟禁とはよく言ったものである。監禁という言葉を 用いないのは、手足を戒める鎖もなく、また彼をこのような状況に置いた人物にそのつもりが (おそらくは)ないからだ。

彼――ダンテから半ば自由を奪ったのは、バージルという名の男だ。

バージルとはダンテの双子の兄の名と同じである。男はダンテの兄よりも随分年かさで、端正な 顔立ちには男の色気とでも言うべきか、兄にはない雰囲気をまとっている。
銀髪碧眼、そしてバージルという名。偶然には有り得ぬ共通点を持ち合わせた二人は、実は同一の 人物である。――男は彼に言った。自分は未来から来た人間なのだ、と。
土台、信じられる話ではない。当然だ。未来から来た、など冗談にもならぬし笑えもしない。 しかも真面目な顔をして言ってのけるのだから、こちらは大いに引く。失笑すら出ず、 そんなわけがないと思った。しかし。

「何を呆けている?」

頬に触れる、やや冷たさを感じる掌に、ダンテはびくりとこそしなかったものの、悪戯を咎め られた子どものようにそろりと男へ視線をやった。こんなときにすら低い男の体温に、ダンテは むすっとしてしまう。反対にダンテの体温はいつもより高めである。

「呆けてなんか、ねぇ」

尖らせた唇を男が指先で摘む。下唇をやわく揉むようにされて、ダンテは我知らずぞくりと腰を 震わせた。男は性的な意図があってダンテに触れているのではないかもしれないが、それと これとは別の問題だ。ダンテは“バージル”に触れられることにひどく弱い。

「っ、ん」

知らずもれた吐息に、男が目を細めたことにダンテは気付かなかった。男が彼を、まるで猫の ようだと思っていることなど知るよしもない。

靄がかったように曇った視界――これは特別な何かがあるわけではなく、たんに彼らがいる場所に 理由がある。バスルームだ。たっぷりと湯の張られた浴槽に、なぜか男と二人で詰め込まれて いる。当然ながら、狭い。しかし男は、風呂に入るときですらダンテを一人にはさせてくれぬ のだ。
ダンテが男から離れるときといえば、トイレで用を足している僅かな間しかない。これはまさしく 異常であった。
どんなにか仲睦まじい間柄でも、これはおよそやりすぎだ。しかも男のほうは、これを当然と 思っているのだから救いがない。

内心でダンテが誰かに(対象となるのは一人しかいないけれども)助けを求めるのは、当たり前と 言えるだろう。だが男はそうは思わない。ダンテが自分から逃れることを願っていると判れば、 ダンテを逃がさぬために何をするか。想像をして、ぶるりと躰が震えた。実際に震えてしまった らしく、男が不審そうにダンテの額に手をあてる。

「寒いのか?」

湯は少しばかりぬるくなっているようだが、胸の半ばまではきちんと浸かっているのだから、 寒さを感じるわけはない。
男はしかし、ダンテの脇に手を差し込み、赤ん坊でも相手にしているかのようにダンテの躰の 向きをひょいと変えてしまう。横向きから、男の胸に背中を預けるかたちに。つまり互いの顔は 見えなくなる。そして肩までとっぷりと湯に沈められた。先ほども大概ではあったが、男の脚の 間に座り、背を預けるこの体勢はよりいっそう密着度が増す。満足したらしい男は両腕でダンテの 腰を抱き寄せ、腹の辺りで手を組み合わせた。それも下腹の、下生えに触れるかどうかという 際どい場所だ。

「っ……」

尻をもぞりとさせると、湯の膜にすら遮られていない腿をすり寄せたふうになってしまい、要らぬ 狼狽をせねばならず。赤くなった顔を見られずに済むことは良かったなどと思いながら、顎を湯に 浸して唇を湿らせた。その、少しうつむいた頭のてっぺん、つむじに何かが触れる感触があった。 男が何かしたことは間違いない。が、手は変わらずダンテの腰にあるし、あと何で触れることが あるかといえば。

「よく暖まれ。躰は冷やすべきではない」

命令口調でいながら優しげな声は、やけに、近い。息が髪を撫ぜるのを感じて、ダンテはすぐに 答えを導き出した。キス、されたのだ。つむじに。ふわりとした、キスを。

頬がいっそう赤くなる。こちら向きにされて本当に良かった。ダンテはそうしみじみと思った けれど、耳からうなじから、湯に浸かっているというだけでは説明がつかぬほど真っ赤にして いては、互いの顔が見えないというただそれだけことなど救いにもならない。男は現在、ダンテの 髪に唇を寄せているとはいえども。
ぷくぷくっと、水面下で息を吐く。まったく子どもじみたことをしていると、自覚はある。が、 男の前ではダンテは本当に子どものようになって――されて――しまうのだ。これは自分にばかり 非があるものではないと、ダンテは思っている。

髪に触れるものは、いっこうに離れる気配を見せない。この体勢が気に入ったのか、それとも別の 理由があってのことか、ダンテには判るわけもなく。まだ雫を滴らせている髪の、何が良いと いうのか。
髪はおろか爪先から耳の裏に至るまで、どの部分すらも自分では洗わせてもらえなかったダンテは 拗ねたように唇を噛む。何が傷を作るといけないから、だ。爪で引っ掻く程度の傷、十秒も かからず消えてしまうというのに。
ぷくりと、息が泡となって水面に浮かぶ。つむじには男の唇。兄もそうだが、この男もやはり ダンテの髪が気に入りであるらしい。なぜ、髪なのか。ダンテには判らない。判らないからこそ、 拗ねる。

(なんだよ……)

どいつもこいつも。内心で二人を罵り、ふと、我に返った。おかしい。兄に対しての罵りは判る。 拗ねるのも、よくあることだ。だが。だが、男に対しても同じように思うなどどうかしている。 何かの間違い――そう、気の迷いだ。そうでなければ、どう説明をつけるというのだ。

「ダンテ、」

静かな声が、髪から脳髄へ伝わるような。びりりとしたものが全身に走り、ダンテはぎくりと肩を 跳ね上げた。ダンテ。また一つ、名を呼ばれる。いちいち反応を示すダンテで遊ぶかのように、 何度も。

「ぁ……は……」

躰が痺れる。男の手は変わらずダンテの腰の前で組み合わされており、不埒な動きなどまるでして いない。唇はつむじに触れるだけ。密着した男の腰、脚の間のものは猛っているようには 感じられない。
ダンテだけが、あたかも犯されているかのように息を喘がせ、びくりびくりと躰を震わせている。 それはいかにも滑稽で、そして異様な光景である。

「どうした、ダンテ。のぼせたか?」

「っ……ぁ……や、め」

ダンテは背中を男の胸から離そうと、躰を前のめりにさせた。いや、させようとした。男は機敏に 感づき、ダンテの胸へ手を引き上げることでそれを阻止してしまう。ダンテは喘ぎ、手足を 藻がかせた。耳に、静かな声。

「逃げるな、ダンテ。お前はここにいれば良い。私のそばに、」

嫌だ。離せ。やめろ。そう喚くはずの口は何を勘違いしてか、ただ男の名を紡ぐだけのそれに 変わっていた。





ダンテの部屋で朝を迎えたバージルは、皺の寄ったシーツもそのままに部屋を出た。いつもならば、 バージルが抜け出した後の寝台にはダンテがおり、気に入りの毛布にくるまっているのだけれども、 今はただ、シーツが冷たくなっていくばかり。ダンテはやはり、帰っていない。

廊下には早朝らしく冷えた空気が流れていて、バージルの頬をひたりと撫ぜる。それに眉を動かす こともなく、自室に寄り寝着を着替えた。そうして、階下へ向かう。
玄関先へ新聞を取りに行き、リビングへ戻ってそれをソファーに放る。ダンテの好みにはなり そうもない濃いエスプレッソを淹れて、マグカップ片手に新聞を読み耽る。といっても、目を 惹く記事などめったにありはしないが。

いつもどおりの行動を、いつものように、取る。しかしいつもとは違うのは、いつもの時間に なってもダンテが姿を現わさないということ。ただそれだけの違いが大きな影響を及ぼしている のだと、自覚していながらも気付かぬふりを続けようとしている。

この、葛藤ともつかぬ焦燥を持て余すのは、もう何度目のことかも判らない。ぐるぐると 同じことを考え続けるなど(しかもどうあっても答えの出ないことを)、バージルの好みに 合うどころか嫌悪の対象ですらあるのだ。それを、判っていても引き下げることのできない 自分自身への苛立ちはいかほどのものか。バージルはそちらのほうをこそ考えることを やめている。
下らないと、思う。現状のすべてを下らないと、バージルは繰り返し思う。
その下らぬ状況から抜け出す手立てを、探しあぐねているのだからいっそう下らない。

何が悪いのか。決まっている。ダンテだ。あれがここに、自分の手許にいないことが悪い。 ではなぜ、ダンテはここにいないのか。先日の仕事から帰っておらず、また音沙汰もないからだ。 消息そのものが、知れない。ではなぜ、ダンテは連絡一つ寄越さないのか。それは、

(連絡を取れぬ理由、が)

ある筈なのだ。でなければ、ダンテは今ここにいる。バージルの傍らに、彼は常にいなければ ならないのだから。
ならば、連絡を取れぬ理由とは――

(あの、匂い)

昨夜ダンテの部屋へ入ったとき、鼻をかすめた見知らぬ匂いが甦る。ダンテは香水の類は用い ない。バージルもだ。だからあのような、いかにも人工的な匂いは絶対にしない。とはいえ、 嫌な匂いだとは思わなかったことがバージルは気になっている。しかも何か、記憶の奥底を くすぐられるような、奇妙な感覚があるのだ。だからこそ、嫌な予感がしたわけだ。
バージルには、自身の直感を疑うという習慣がない。

「ダンテ、」

呼ばわったところで返答はない。判っていても、唇が勝手に弟の名を紡ぐのだからバージルには どうしようもないこと――無論、屁理屈だが。

バージルはソファーに。その右斜め下にはダンテのつむじがあって、手を伸ばして髪に触れ、 指に銀糸を巻き付ける。それが日常だ。バージルは今まさに、非日常のただ中にいる。だから、 落ち着かないし苛立ちもする。
そして、あの匂いだ。

(だが……あれは、どこかで……)

嗅いだことのある匂いのような気がしてならない。しかしどこでであったか、それが思い出せ ないのだ。ダンテに関わりのある匂いだっただろうか。だとすれば、すぐにも思い出せる 筈なのだが。

「ダンテ、……」

名を呼ばわれば答えが出るか。そんなことは無論ないのだけれども、気付けばバージルの唇は 弟の名を囁いており。そうしていくらかの安堵を得ようとしている己を、バージルは嫌悪せずには おれない。そんな安堵は、すぐにも消えてなくなると判りきっている。いるのだ、けれど。

「ダンテ」

なぜか傍らにいない弟を、これほどそばへと望んだことはないかもしれない。人はそれが己にとって 何より大事なものであるということを、失くして初めて知るということは少なくない。そうは ならぬと思ってはいても、周囲がそうはさせぬと動いたなら。バージルとダンテは、まさに その渦中にいるのだ。
逃れ(立ち向かい?)、ふたり寄り添うには何をすべきか。何をせねばならぬのか。

(あの、匂い)

それがすべての鍵であるように、バージルには思えてならなかった。
ため息を、吐く。

なぜ――どうして、この腕の中はからっぽなのだろう。

目を瞑り、ふと、前にも同じ感覚を味わったことがあるような気がして眉を顰めた。いつのこと だったか。あれは確か、ずっと以前、彼ら双子がまだ幼い時分の――?

「何だ、これは」

こめかみに手をあて、呻く。“見た”ことのない記憶を探り当ててしまったことへの、当然の 困惑であった。



















前?
次?
戻。



話が遅々として進みません。申し訳ない…
が、ダンテをおろおろさせるのは、悦。Sですみません。

[08/10/04]