朝霧アサギリ









何か、聞こえた気がしてバージルは顔を上げた。声である。しかしここには自分以外の誰もいない ことは知っているので、率直に考えて幻聴ないし勘違いであることは間違い。だがバージルは、 それを幻聴の類であるとは思わなかった。あまりにも知った声であったからだ。

バージルは自室の寝台にいる。一人だ。いつもならば双子の弟が同衾しているのだが、今日は その姿がない。弟は、単独での仕事に出掛けてから帰っていなかった。もう三日近くになるが、 連絡は一切入っていない。
彼らは携帯電話を持つという感覚がなく、二人して必要性を感じたこともない。そのため連絡 手段は公衆電話しかないのだが、それも使ったことはほとんどないという状態だった。基本的に、 別行動になっても事務所兼自宅に戻れば合流出来るからだ。それにバージルは、ダンテがどこに いようと見失ったことがない。かくれんぼの鬼役は、昔から得意なのだ。

バージルは心配などしていない。捜す捜さぬにかかわらず、ダンテは必ず自分のもとへ帰って 来るという自信があるからだ。双子の弟はバージルの支配下にある。その確信があるからこそ、 バージルは焦りなど感じずにおれる。
しかし奇妙なことに、ダンテはいまだ帰らない。ダンテが引き受けた依頼はある人物の護衛で、 それも一両日間のみの内容だった。ならば遅くとも昨日には帰着している筈で、こうも長引く 理由は何であるのか、バージルは考え続けているが判らぬままだった。
判らない、というのはどうにも不安を駆り立てられる。バージルは焦りというものをあまり 感じることのない人間だが、そこにダンテが関われば事情は異なる。バージルは今、確かに焦りを 覚えていた。

ダンテが仕事を失敗したとは思わない。あれの力はバージルが最もよく判っている。 よほど強大な悪魔でもなければ、ダンテの命をどうこうすることは出来ないし、それはバージルが させぬ。
ダンテの命は自分のものであることを、バージルは疑わない。そもそも、それ程強い悪魔が この世に現われたならば、バージルに判らない筈はないし世界は混乱の渦に突き落とされている。 ゆえにその仮説は却下された。あまりに非現実的だ。

ダンテは何故戻らぬのか。今し方、耳の奥に響いた声は確かにダンテのものだった。バージルの名を 呼んでいたのだ。何か、縋るような声音にバージルは引っ掛かりを覚えずにはおれなかった。

(ダンテ、)

呼ばわる先に弟の姿はない。バージルは眉を顰めた。傍らにいるべき者がいないということが、 ひどくバージルを落ち着かなくしている。こんなことは、初めてかもしれなかった。

慣れぬ感情を持て余しながら、バージルは冴えてしまった目を一度瞑り、躰を起こして寝台から 脚を下ろした。枕許の時計は深夜二時を指している。バージルが寝台に入ってから、まだ一時間 程しか経っていない。眠ったのは実質、三十分程でしかないようだ。
バージルは睡眠という人間には必要不可欠なものを、さして重要視していない。四時間程も眠れば 充分であるバージルは、ダンテが眠った後に就寝し、ダンテが目覚めるはるか前に寝台を出る。 夜明け近くまで交合に耽ったときなどは、一時間も眠れば良いほうである。それでも日中に 睡魔が襲ってくることはない。
今も、バージルは眠気を一切感じることなく部屋の明かりを点けようとしている。足取りにも ふらつきを感じさせるものはない。

ぱちりと電灯のスイッチをオンにする。煌煌とした明かりに一瞬目が眩むが、すぐに慣れた。 電灯を点けずとも、バージルはあまり困ることはないのだけれども。何故か、明かりを必要と 感じたのだ。それによって何かが照らし出されるとでも思ったのか――よく判らない。 そんなことは珍しくありすぎて、バージルは軽く頭を左右にした。

ダンテが傍らにいないという、ただそれだけのことでこうも落ち着かぬものなのか。ダンテと 離れていたあの一年を、どのように過ごしていたのかバージルは思い出すことが出来なかった。 たかが三日だ。それを、何故堪えられないのかがバージルには判らない。焦りが大きくなって いく。
それはまったく、不快としか言いようがなかった。







目が覚めれば、それまで見ていた夢はきれいに消え去るものだ。ダンテはそれを期待していた。 大いに、だ。しかし。

「目が覚めたか」

期待とは、得てして裏切られるものであるということを、今程実感したことはない。
軽い絶望を味わい、もうこのまま目を閉じてしまおうかと考えたダンテであるが、そうした ところでこの状況が変わるわけではなく、仕方なしにこちらを見下ろしてくる男を見返した。 ダンテと視線が合ったことに、男は充足したのか薄く笑みを浮かべている。

「相変わらず、よく眠るな」

そんな言葉にダンテは反感を覚えたが、唇を少し尖らせるだけで無言を貫く。どうせ、男は ダンテの返事など待ってはいないのだ。このダンテよりも一回り以上は年かさだろう男とは、 まだ出合って間もないけれども判ることはある。
男は、少し妙なところはある(そこが問題だと言えばそうだ)が、根本はダンテの双子の兄と よく似ている。同一人物であるというにわかには信じがたい言葉も、そうかと頷ける程度には ダンテは納得出来る部分がある。それが、性格だ。
横暴、横柄を地でいく暴君ぶりは確かに兄のものに違いなく、双子の弟であるダンテが一番よく 知っているところだ。しかしそれでも、男は明確には兄ではない。別人だ。そう思い込まねば 何かが壊れてしまいそうだと、ダンテは無意識に恐れを抱いている。こわいのだ。純粋に。 恐怖とは違う類のおそれを、男はそのつもりはなくダンテに抱かせている。

だから、兄がいればと思わずにはおれない。

「ダンテ、」

兄のそれよりもいくらか低い声音に、ダンテははっとした。思考を別なところへ飛ばしていると、 男の機嫌は見事に下降する。機嫌を取るような真似は、人よりも高く設定されている矜持が 許さない。が、男が機嫌を損ねた先に待っているものはけっして歓迎したくないものなのだ。 故にダンテは一種の緊張感をもって男へ意識を戻すことになった。
男は、ダンテが危惧した程機嫌を損ねてはいないようだ。

「もう昼だが、飯はどうする」

昼。ダンテは一瞬ぽかんとした。これは兄とは別人だと判っているが、驚きを隠せない。兄は、 放っておけばいつまででも眠っているダンテが、自主的に目覚めるまで同じシーツに包まれて 待つなどしたことがなかったからだ。一度も、とは言わない。しかしこの男のように、当然の ような顔をしてダンテの目覚めを迎えたことは一度もなかった。
呆気にとられるダンテを、男は訝ったらしい。

「どうした」

口調は、兄のそれ。しかし。

「べ、つに……」

口ごもりながら、この奇妙な違いの出所を、ダンテは考えあぐねた。あまりにうそ寒く、居心地が 悪くて堪らない。
ついと、思わず視線を逸らしたダンテの顎を、男は指先で摘むようにした。こちらを見ろ、と 静かに言う。命令口調であるのは兄と同じ。これは直りようがないのに違いないと、ダンテは どこか他人ごとのように思った。
目を逸らすと怒るのも、兄と同じ。視界から消えると怒る(というよりも不快になるらしい)のも、 そう。しかしこの男は兄と違い、本当に片時も、ダンテを傍らから離そうとしないのだ。別の 部屋へ移動する際は、ダンテをその逞しい腕に抱き上げてでなければ納得いかぬらしい。異常と 言うほかない。まさしく、異常だ。その異常な男から、ダンテは逃げだしたいのにそう出来ずに ぐずぐずとしている。

さっさと逃げずにいる理由は、男の根底は兄と同じであることを認識してしまったからかも しれない。ダンテは兄から逃げることは出来ない。兄を疑うことも、否定することも、ダンテには 不可能なのだ。

だから、ただ恐々と男のなすことを受け入れるよりない。情けないには違いないが、自分では どうすることも出来ないのだから。

「ダンテ、」

再び、男が呼ばわる。この声がいけないと、思う。支配者の声音に逆らう術を、ダンテは 持ってはいない。

「なに」

ちろりと視線を合わせる。男は眉の間の皺を僅かばかり緩め、飯は昼と兼用で良いかと問うて きた。ダンテは嫌だとは言わず(実際、そう言う理由がない)、こくりと頷いて見せる。男の、 あくまで自然なキスが額に降ってきた。続けて瞼に、こめかみに、いくつも降り注ぐそれを、 拒めるだけの何をもダンテは持ち合わせてはいない。知りも、しない。

ぐずぐずと、溶けていく。
だめだと思えば思う程、こわいと思えば思う程に、抜け出せなくなっていくようだった。







ひそりと静まり返った家に、一人いることは別段苦ではない。ダンテがいれば何やかやと 騒がしく、煩わしさが嫌でも増す。あの弟は何かにつけ手が焼ける。こちらが世話をして やらねば自分では何も出来ぬのだから、まったく仕様のない子どもであった。
ダンテがいないとなれば、当然ながらバージルの手間は格段に減る。静寂はバージルにとって 快いものだ。が、しかし。

バージルは落ち着かなげに机を指先で叩いた。全くの無意識だ。トントンという不自然な音に、 自分が机を叩いていることに気付いて妙に気まずく思う。らしくないことだ。まったく、 似つかわしくないことをしている。
指を掌の内へ収め、バージルはまた別のことに気が付いた。本を広げ、じっと読んでいたという のに、いつの間にかページが前へ戻っている。落とした視線の先にある文章は、既に読んだものに 違いなかった。
軽く絶句し、バージルは苦々しく目を細めて本を閉じた。栞を挟むのを忘れたが、構うものか。

いったい何だというのだろう。全く調子が出ない。

調子、とは何だろうかと、思う。自分の調子。体調のことではないことは確かだ。バージルは 風邪もめったには引かないし、体調管理はいつもきちんとしている。何気なく使った“調子” とは、精神面が絡んだそれに他ならない。
精神。そこでまた、引っ掛かりを覚える。

バージルの精神は、そもそも弱いという言葉を一切寄せ付けぬ。鉄で打ち付けられたかのごとく、 強固であり頑強である。そのことを自負するつもりは全くないが、自覚はしている。ダンテから 見れば、堅物だとか意固地だとか、そういうものになるようだが。

ダンテ。そうだ。先刻から持て余している何か。その中心にはダンテがいる。どこへ行ったか、 いまだ戻らないダンテのことを、バージルはずっと考え続けていた。
このまま戻らぬということは。考えかけて、やめた。無理矢理思考を止めたと言って良いだろう。 ダンテに限っては、それは有り得ぬことである。その、筈だ。
ダンテは帰ってくる。この家へ。バージルのもと、この腕の中へ。それは当然のことなのだから、 疑問を抱くなど馬鹿馬鹿しく愚かなことだ。そう、ダンテは必ずここへ戻ってくる。
であるなら、この言い知れぬ不安は何なのだろう。

ダンテ。一人きりの弟。文字どおりの半身。

彼のいない生活を、バージルは今や想像することすら出来なくなっている。それを自覚するには、 バージルはあまりにも自我が強くありすぎ、そして同時に――いかにも幼稚であった。バージルの 求めてやまぬ半身は、無論そんなことには気付いてはいない。彼はバージルと同様自我が強いが、 それ以上に兄に関して盲目でありすぎる。

彼らは確かに、二人で一人というべき存在であった。その半身が傍らにいないことで、バージルは 今まで感じたことのない感覚に襲われている。まだ夜明けには遠い時間であるが、眠気は全く 感じられなかった。バージルが最もよく眠れるのは、弟を腕に抱き締めて眠るときなのだ。

何故、ダンテはいないのか。バージルの疑問はそこに行き当たった。それ以上の疑問には 膨らませてはならない。無意識のうちに己を制御していることには気付かず、バージルは自室から 出た。廊下は暗い。しかし明かりは点けず、蹴躓くこともなく向かいの部屋――弟の部屋のドアを 開けた。

「……ダンテ、……?」

ここにはいない者の名を呼ばわりながら、バージルは覚えのない匂いを嗅ぎ取って眉を顰めた。 何か、嫌な感じがする。



















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得体の知れない感じにしたくてこうなりました。漂う挫折感…

[08/08/26]