朝霧
これでもかというくらい構い倒されて、居心地が良いと思える人間がいるなら会ってみたい。
そしてこう訊くのだ。
――どうしたら平気でいられるようになる?
って。
どうすればこいつを引き離せるかと訊かないのは、訊くだけ無駄だと諦めているからだ。だって、
絶対に離れてくれないっていう自信があるんだから。(そんな自信、持ちたくもないっていう
のに。)
夜。闇がスラム街を包み込み、あとは寝るだけというときになっても、バージルは帰って
来なかった。どこに行ったのか、何故帰って来ないのか、ダンテは全く知らない。
ダンテとともに便利屋稼業を営んでいる兄とは、稀に別々に依頼を請けることがある。先日の
別行動がそれだ。しかしあちらは数日を要する仕事などではなかったし、帰宅せずに次の仕事へ
移るとも聞いていない。どうして帰って来ないのか、ダンテは見当がつけられずにいる。
兄は、帰って来るのだろうか。そんな疑問が不安となって押し寄せてくるのを、ダンテは頭を
左右に振ることで振り払った。もちろんそれだけで打ち払えるものではないが、払えたものと
思い込むのとずるずると引きずるのとでは、気持ちの違いは明らかだ。ダンテは己を守る為に
前者を選ぶ。それは無意識下に働く自己防衛である。
ダンテ、と。低い声音が名を呼ばわるので、ダンテは内心ため息を吐きながらそちらへ意識を
戻した。目下、この男への対応に忙しくしていさえいれば、兄のことは少しばかり思考の外へ
やることが出来る。
「……なに」
ぶっきらぼうに応じると、男は飽きもせずダンテの髪を撫でながら、しかし何故か不機嫌そうに
眉間に皺を寄せている。眉間の皺は兄がそうであるように、この男も標準装備のようなものなの
だが、先刻まではその皺が随分薄かったことを知っているだけに、嫌でも男の機嫌の下降を
察せねばならない。ダンテは自覚せず身構えた。
「だから、なに」
ソファーに隣り合わせに座った恰好、ならば良かったのだけれども、ダンテは生憎(と表現すれば
良いのか、どうか)男の膝の上に座らされている。何故この体勢なのか、男に問うたところ
さらりとこう言われたのだ。このほうが髪を梳きやすい、と。
どこの馬鹿なカップルかと、ダンテは叫びたかったがどうにか堪えた。男は明らかに、冗談を言って
いる顔ではなかったからだ。いや、本気だからこそ始末に負えないのだが、なおさらのこと、
ダンテが何を言ったところでやめてくれるとは思えなかった。こういう対処に関しては、ダンテは
本意ではないが慣れている。なるべく、したいようにさせておくほうが後々まで引きずらずに
済む。
男はダンテの二度に渡る催促にも拘らず、押し黙ったままこちらを睨むように見据えるばかりだ。
ひどく居心地が悪くて、ダンテは男の膝の上で僅かに身動ぎした。それが悪かったのだろうか。
男の眉間の皺が、さらに濃く刻み込まれてしまった。
背中を通り腰に回された腕に、尻を掴むようにして力が込められてダンテは身動ぐことも
出来なくなる。合わされたままの視線は、明らかにダンテを責めていた。しかし、何をかは
判らない。居心地の悪さだけがいや増していく。負け惜しみのように、ダンテも男を
睨みつけた。
そうして意味も判らず睨み合うこと数分。男が不意に、ダンテの左耳を包むように掌で覆った。
男の顔の間近にある右耳に、低い声が吹き込まれる。
「要らぬことを考えるな」
それを、先刻からずっと言いたかったのだろうか。しかし何のことか意味が判らず、ダンテは
きょとんとするよりも訝しげに眉を顰めた。その反応に、男は苛立ちを覚えたのかダンテの耳を
今度は軽くつねってきた。
「判らぬならそれでも良いが、」
言いつつ、男はダンテの耳朶を摘んで引っ張った。やはり、痛みはない。じゃれるような、
ほんのささやかな戯れだ。ただし、男の表情は穏便とは言いがたい。
「私のことだけを考えていろ。他は要らぬ」
言葉は甘く、しかしその声音は金属を思わせる硬質なそれで。ダンテは我知らずぞくりとした。
相変わらず、男の手はダンテの耳を戯れに弄んでいる。その行為に何の意味が込められているのか、
ダンテに判るわけもなく。
「判ったな、ダンテ?」
同意を求める声からは、今し方のような硬質さは消えていた。しかし、だからこそ得体の知れない
何かが潜んでいるように思えて、ダンテは唇を噛んで顎を引いた。
彼がぼんやりとしていることに、バージルは気付きながらしばらくそのまま放っておいた。何を
考えているのか、それとも何も考えていないのか、判らないがどこか一点をぼうっと見つめる
彼の横顔が、猫のそれのようで愛らしかった。しかしそれも長続きはせず。彼の横顔に何か
言い表しがたい色が浮かんでいることに気付いて、バージルは眉を顰めた。
それはどこか切々とした色を帯びて、自分にとってはあまり馴染みのないものに違いなかったが、
しかし全く知らぬ類のものではなく。長々とその表情を見ていたいとはおもわぬものだった。
だから、名を呼ばわり彼の意識をこちらへ惹いた。思惑どおり彼の意識はこちらを向いたが、
それでもまだ自分の気が治まっていないことが、バージル自身不可解だった。
眉間の皺が深くなるのを自覚したが、どうにか出来るならそうしている。どうにもならぬ理由は、
はっきり判っているのだ。
「ダンテ、」
今度は何だと、彼が半ば疲れたような表情でこちらを見る。顔は先刻からこちらを向いていたの
だが、視線はバージルの首かその下辺りに落とされていた。上目遣いに視線を向けたダンテの、
耳を掴んで(といっても痛みはない筈だ)顔を引き寄せる。少し目を瞠ったダンテの目尻に、
口付けを一つ、施した。
「な、に」
不意のことで動揺したのか、ダンテの頬がゆるく紅潮する。蒼褪めたようですらある白い頬が
淡い朱に染まるさまは、まるで桃のようだとバージルは思った。その頬へも一つ、口付けを
落とす。
「ん……」
彼が、嫌がるふうはなく僅かに眉をしかめた。それによって醜悪な印象が生まれるわけではない。
バージルにとっては彼のどんな表情も好ましく思える。ただし先刻のような、意識が明らかに
自分ではない何かに奪われている表情は除くが。
「ダンテ、」
それしか言葉を知らぬかのように、彼の名ばかりを唇に乗せる。彼は困惑しながら、しかし
やめろとは言わない。言えぬのだろうと、バージルは察した。彼には兄を拒むことは出来ない。
“こちら”の自分も、必ずそのように弟を育てている筈だ。これには確信が持てる。
頬に、鼻の頭に、眉間に、額に、瞼に。雨のようにいくつもいくつも口付けを落としていく。
同時に髪を掻くように梳き、撫ぜる。唇への口付けは、あえて避けた。吸ってやりたい気持ちは
充分にあるが、下唇をちろりと舐めるだけに止どめておく。彼がねだるようならそうしてやっても
良いと、身勝手なことを思いながら。
「ん……、ぅ、ふ……」
唇を合わせていると錯覚してしまうような、かすれた吐息が彼の唇からもれる。それはいかにも
甘く、男を煽るには充分すぎるものであるのだが、彼にその自覚はないのであろうことは容易に
想像し得た。彼は鈍い。頭の出来こそ悪くはないだろうが、この鈍さはいかんともしがたい。
「ふん……」
鼻を鳴らせば、彼がびくりと肩を揺らす。不機嫌なそれに聞こえたのだろうか。まぁ、全くの
見当外れではないが。
彼の膝裏に右腕を差し込み、左脇に左手を添えてバージルはソファーから立ち上がった。横抱きに
抱え上げられた彼は、突然のことに目を見開いて驚いている。困惑しきった様子で、喚く。
「なにするんだよ、おいっ」
バージルが応じないでいると、痺れを切らせたらしく胸をどんどん叩いてきた。痛みは感じない。
人に抱き上げられることが嫌いな猫が、手足をじたじたさせているような、その程度の実に
かわいらしい抵抗だ。
「暴れるな。爪を剥ぎ取られたいのか?」
暴れた所為でか、赤く染まった耳に囁いてやれば、彼の顔がぎくっと強張る。次いで振り回して
いた腕を止め、いかにも渋々といったふうにおとなしくなった。不本意そうに躰丸めて身を委ねる
さまは、やはり猫のようだとバージルは思った。
「良い子だ」
尖った唇に、触れるだけの口付けを一つ。
ちゅ、と。恥ずかしい音をさせて男がキスをしてきた。唇に明確なキスをされたことに、ダンテは
思わず内心でどきりとしてしまった。何故かなど、知らないし知りたくもない。ただ男の奇妙な
気まぐれに振り回されているという自覚があれば、それだけで良いとダンテは思う。
もっとも、振り回されたくて諾々と付き合っているわけではないのだと、そこは声を大にして
主張しておきたいところだ。その主張を誰も聞く人間がいないというのが、虚しくも哀しくも
あるのだけれども。
この男がそんな自分の訴えを聞くとは、端から考えても期待してもいないダンテだ。
男はダンテを横抱きにしたまま(途中で下ろしてもらえるという期待はしない)、リビングを出、
廊下を渡り、階段を登っていく。階段に向かっていると気付いた時点で、男の目的が判った。
眠る為に部屋へ行こうとしているのだ。そういえば、リビングの電気をダンテを抱えたままで
消していたことを思い出す。横抱きにされたことへの羞恥を隠す為に、男の胸をどすどす叩く
ことに熱中していたので(全く堪えた様子がなかったことが忌々しいが)、そのときは意識して
いなかった。
廊下の電気も、階段を登りきれば階段の電気も、ことごとく消して部屋に入る。廊下を挟んで
向かい合わせになった二つの部屋の、ダンテが自室として使っているほうのドアを開ける。二階の
廊下の電気はもちろん、消されたあとだ。
ダンテの部屋は、いつもと変わらず散らかっている。これは男という奇妙な存在が現われたからと
いって変わることはない。いや、男がこの場にいてダンテをその腕に抱き上げていること以外、
何ら変わったことなどないのだ。
(でも、)
とダンテは思う。確かに他の何もかも、変わったようには見られない。けれども、腑に落ちない
ものが、ある。
バージルはどこへ行ったのか、最大の疑問はやはりそれだ。しかしぐるぐると考えることは
ダンテはしなかった。あまり思考を余所へ飛ばしていると、また男の機嫌が悪くなる。それは
ダンテにとってよろしくない事態を招きかねないと、よく知っているだけに注意せねばならぬ。
この男は兄と同じ人間なのだから、おそらく中身もそう変わらないに違いなかった。
実際、似ている。仕種や話し方など、やはりこれはバージルなのだと思うことは多々ある。
まだ一両日にも満たない程度しか一緒に過ごしていないとはいえ、判ることはあるもので。
しかもその間、赤ん坊も眉を顰めそうなくらい男は常にダンテをそばに置いておこうとするのだ、
嫌でも、気付くことは多くなる。
男は部屋を大股に突っ切り(ダンテのことを重いとは感じないのだろう)、床に散らばった服を
無造作に踏み付け真っ直ぐにベッドへ近付き、そこへ腰を下ろした。まず自分をベッドに下ろして
くれれば良いのにと、ダンテは思ったが口にはしない。よけいなことを言えば、この暴君は
ひどく気分を害するのだということは判っている。一時間程前、風呂に入っているときが
そうだった。
「ダンテ、」
何度も、男はダンテの名を呼ばわる。ダンテが伏し目がちにしていた目を上げると、上機嫌らしく
口端を上げた男と視線が絡んだ。碧い双眸に何か言い知れぬものを感じ、目を逸らしたいと
思ったが出来なかった。頬を固定されたとしても、眼球は動く。しかし何故か、眼球を動かす
ことすらダンテは出来ずにいる。息が詰まるような感覚に、は、と短く小さく喉を震わせた。
男はやはりダンテを抱いたままベッドへ脚を上げ、尻をずらしてベッドの中央へ移動した。
自身の位置を決めると、名残を惜しむかのごとくダンテを抱き締め、そうしてダンテの躰を
左にずらしてシーツに横たわらせた。ようよう横抱きの恰好から解放されはしたが、しかし
男がダンテを手放したわけではない。
身を横たえた男に、ぴたりと、本当に隙間もない程に抱き寄せられ、眉間に額にこめかみに、
しつこいくらいにキスが降り注いでくる。何なのだと言いたくなる程、男はダンテを構う。
こんなことを延々続けられて、居心地が悪くならない人間が果たしているのだろうか。
少なくともダンテは、だめだ。心地が好くないわけではなくて、けれどもそれが、だめなのだ。
(バージル、はやく)
帰ってきてほしい。そうすればこの状況は全く違うものになる筈だから。
「ゆっくり眠れ、ダンテ」
ダンテが眠るまでそうしているつもりなのか、背中をぽんぽんとあやす掌はあたたかくて、
時折触れてくる唇は、ひどく優しい。ぐずぐずに甘やかして、それでどうするつもりでいるのか、
不審は募るがそれ以上に男の体温が心地好くて。低い声音が、キスが、気持ち良くて。
自分の中の何かが、はしからぼろぼろと崩れ、溶けていく。
(おぼれ、る)
意識が黒く塗り込められるその直前に、ダンテは縋る思いで兄の名を呼ばわった。
たすけて。
いっそ溺死すれば良い。とか。
[08/07/30]