朝霧
いつか見た、赤く、紅い――――
夕陽が射し込む路地の一角。青を纏った男は何をするでもなく立ち尽くしている。茫然と、では
なく。悄然としているわけでもなく。ただ、そこに立っているだけだ。
行き交うものはない。男は正しく孤独だった。もっとも、周囲に大勢人がいたとしても、男が
孤独であることに違いはない。男にとって他人など、地面に転がっている小石程の価値もない
のだ。
男にとり、大事とはこの世にただ一つあるのみだ。それは男の文字通りの半身であり、男の肉で
あり血である唯一の存在――――
しかしその唯一も今、男の傍らにはいない。
男はただ、立ち尽くしている。
寒いと、思った。それは感じたことのない、悪寒といっても良いかもしれぬ感覚だ。
何故そんな寒さを感じるのか、原因など判るわけもなく。
ただ、傍らに誰もいないことがいっそ奇妙だった。
「おい、……って、ちょ……」
耳許で声がする。戸惑ったような声音だ。瞼を持ち上げ、男は内心で「あぁ、」と思った。
昨晩――――だったのどうか、あまり記憶は正確ではないが――――、暗い路地で見つけた
ものを、腕に抱き込んで眠っていたらしい。いっこうに起きないので、見兼ねて声を掛けたの
だろう。
「今は何時だ?」
寝起きとは思えぬはっきりとした声で問えば、深々としたため息が返ってくる。
「……もう三時だよ」
拗ねたような物言いにひどく幼さを感じて、男は彼の背中を撫ぜてやった。触れたそこかしから
伝わる暖かさが、不思議な程に心地好い。眠っている間、一度も彼を手放さなかったのも頷ける。
少々の寒さなどものともしない男にすれば、奇妙なことではあるけれども。
腕の中で、彼が身動いだ。
「起きたんなら、離せよ……」
口調が弱いように思うのは気の所為ではないだろう。強くは出られないのだ。彼に遭ったのは
昨晩のことだが、男はよく知っている。
「離せばどこかへ行くのだろう?」
彼が一瞬、口を噤んだ。男から目を逸らし、ぽそりと、呟く。
「……トイレ」
目覚めてからずっと我慢しているのだと、彼は言う。だから、離せと。
男は片方の眉を器用に上げ、彼を抱いたまま躰を起こした。わっ、と彼が声を上げたが、気には
しない。彼が転げ落ちることなど、男がさせるわけがないのだ。
「もうしばらく、辛抱していろ」
咄嗟に、だろう。首にしがみついてきた彼の耳に吹き込めば、彼はきょとんとする。子どもの
ような表情に、男は笑みを浮かべた。
最悪だ。ダンテは誰にともなく悪態を吐いた。
バスルームに立て籠もること一分。外からコツコツとドアを叩かれ、早くしろと急かされて、
ダンテは仕方なしにバスルームから出た。そうしなければ、廊下にいる男はドアを寸刻みに
しかねないと思ったからだ。
ダンテが姿を見せると、男は無表情にダンテの腕を掴んで自分のほうへ引き寄せた。そして
ダンテを、逞しい腕に抱き上げるのだ。男が同じ男に横抱きにされて嬉しいわけもなく、
ダンテはむっつりと眉に皺を刻んだ。が、男がまるで意に介さないのだとは、既に知っている
ことだった。
ダンテが目覚めたのは、いつもの通り昼頃のこと。二度寝をするかどうかぼんやりと考え、
起きようと思い直して躰を起こそうとしたのだけれど、出来なかった。何かに腰をがっちりと
押さえられているのだと気付き、次いで男の存在を思い出したというわけだ。
ダンテの記憶の中には少ない、男の寝顔。無論この男のものではないが、よく似た人物の寝顔を
ダンテは幾度かしか見たことがない。だから、物珍しかった。
身動きもままならぬ程抱き締められているというのは頂けないことだったが、ダンテは珍しさ
から、起こすことも忘れて男に見入っていた。それも三十分もせぬうちに飽いてしまったが。
男を起こしたのは、ダンテがうとうとと二時間ばかりも眠ってしまった後だった。暇で仕方が
なくて、しかも男の体温が思いの外心地好くて――――気付いたときには既に午後三時になろうと
していたのだ。
男は数度声を掛けると目を覚ました。そして何故かバスルームまでついて来て……というより、
バスルームまで運ばれた、が正しいのだけれども。
恥。という言葉がぴったりだとダンテは思う。何が楽しくて、男はダンテをこんなふうに扱うのか
全く判らない。物憂げなため息をもらすと、間近から声を掛けられた。
「キッチンはこっちで良いのか?」
意味が判らず、ダンテは目を瞬かせた。
「……は? そ、だけど……?」
そこのドアを開ければすぐだ、と。男の意図は読めないがとりあえず教えてやる。
男はダンテの反応なぞに興味がないらしく、示されたドアをひょいと開けた。ダンテを抱えた
ままで、苦にしたふうもなく。
ダンテが睨んでいることにも気付かず(無視しているだけかもしれない)、男はキッチンに
入った。そこでようやく、ダンテは男の腕から下ろされることになった。
やけにあっさりダンテを下ろした男は、やはりダンテの視線など気に掛けたふうもなく冷蔵庫に
向かっている。冷蔵庫に何が入っているのか、ダンテは知らない。男はミネラルウォーターの
ペットボトルを手に冷蔵庫を閉め、今度はキッチンの棚を物色し始めた。ダンテには、男を
見守るよりすることがない。
渡されたペットボトルを手に、無言で男を睨むこと、一分強。ダンテは立ち尽くしていることに
飽きて、リビングへ退散してようと踵を返した。が、
「動くな」
低い声音に、びくっとして足だけでなく全身が凍り付いたようになる。男が戸棚を閉めて
ダンテへ腕を伸ばした。
「そこから動くな。私の手が届く範囲にいろ」
横暴だと、思う。歳は随分違うようだけれど、やはりこの男は自分の兄なのだ。横暴で、身勝手で、
酷くて――――それなのに。
「……うん、」
なんて、子どもみたいに頷いてしまったのは、頬をかすめて髪に触れた指と掌が、心地好いと
思ってしまったから――――けれどもそれは、秘密にしておこう。
猫ならば、ごろごろと喉を鳴らしているに違いない。目を細める彼の様子はまさにそんな表現が
似合う。頬を撫でてやれば、無意識にだろうがもっと撫でて欲しいとばかりに頭をすり寄せて
きた。可愛いものだと、思う。
時折彼に触れながら、キッチンを物色した男はめぼしいものを見繕って調理台に並べた。鍋には
水を溜めて、既にコンロにかけてある。
彼は棒立ちのまま、こちらを眺めているだけだ。思った通り、料理の類いはまるで出来ない
らしい。小さな猫でも、自ら鼠を狩るというのに。
「ダンテ、」
沸いた鍋にパスタを放り込み、男は彼を呼ばわった。何を驚いたのか、彼ははっとしたように
目を瞠った。そんな彼へ手を伸ばしこちらへ引き寄せて、髪をするすると撫ぜる。手によく
馴染む感触だ。彼が目を細めるのも、良いものだと男は思う。
男が拵えたのは、何の工夫があるわけでもないトマトソースのスパゲティだ。昼を悠々過ぎた
時刻に食べるには少々重いが、一人前を二人で食べれば軽食程度になる。飲み物は先刻の
ミネラルウォーターだ。冷蔵庫には酒もあったが、そちらは夜に飲めば良い。
彼をソファーに座らせ、自分も隣りに腰掛けフォークを手渡す。腹が減っていたらしく、彼は
すぐにスパゲティをフォークにくるくると巻き付け口に運んだ。
「どうだ?」
味見などしていなかった。が、悪くはないようで、彼は口をもぐもぐさせながらこちらを見やり、
しきりに頷いた。口の中のものをきれいに飲み込んでから、いける、と笑みを見せた。
「旨いよ」
頬をちょっと赤くして言う彼の頬を、男は指の背で撫ぜた。
「そうか」
そう呟いただけだというのに、彼が目を丸くしたのは何故なのか。男が訝ると、彼は
ミネラルウォーターを一口飲んで唇を湿らせた。
「……あんた、さ」
躊躇うように、言う。
「バージル、なんだよな?」
「それ以外の何者かにでも見えるのか?」
「そうじゃねぇけど。でも……だってさ、歳、俺より上だろ?」
「それが何だ。問題あるまい」
「問題のあるなしじゃなくって、あぁ、何て言や良いんだ?」
苛立ったように彼が髪を掻き毟る。男は見咎め、彼の手首を掴んでくしゃくしゃになった銀糸を
梳きほぐした。
「……あんたは俺の兄貴じゃねぇんだろ? なんでここにいる? どっから……どうやって
ここに?」
「質問攻めだな」
「だって、」
彼は唇を尖らせ、拗ねたように視線を落とした。中身もまだまだ子ども――――男から見れば、
確かに彼は子どもの部類に入ってしまう。
「お前は私の弟だ。お前の言う“現在”の観念から見れば違うが……」
「つまり、どういうことだよ?」
「未来から来たのだと言えば、理解出来るのか?」
案の定、と言おうか、彼が唖然とした表情のまま固まった。
「信じる信じないはお前の自由だ。が、私はお前には嘘は吐かぬ。それはお前もよく知っている
筈だ」
子どもの頃から、言い聞かせるように耳に吹き込んでいたのだ。彼には、嘘は言わない。他の
人間など知ったことではないけれども、彼にだけは嘘を吐いたことはなかった。
彼は口をもごもごさせている。
「信じるも何も……」
彼にとり、兄という存在を疑うことは有り得ないのだろう。そう育てたのは紛れもない自分なの
だと、男は自覚している。もう二十歳に近い筈だが、彼のふっくりとした頬を味わうように
撫ぜていく。
「頭で考えようとするな」
ただでさえ足りぬ頭なのだから、とは言わないでおく。暗に感じ取った彼がじとっとこちらを
睨めつけているのだ。わざわざ言ってやることはないだろう。
彼がぷいと顔を背け、何か面白くないというように唇を尖らせた。
「……あんたがここにいるのは確かだし、真剣に考えても無駄なような気もするし……」
ぶつぶつと言って、彼はぬるくなってしまったに違いないスパゲティを混ぜつつ口へと運んだ。
もう旨くもないだろうと思って眺めていると、彼が咀嚼しながらぶっきらぼうに言った。
「旨いよ。……あんたが作ったやつだから」
何とも、可愛いことを言ってくれるものだ。男は内心で苦笑し、彼の口端についたトマトソースを
指の腹で拭った。鮮やかな赤に染まった指を舌で舐める。
「口にものを詰めたまま喋るな」
まだ躾が足りないのかと言ってやれば、彼は大袈裟な程ぎくりとして。どこかの良家の子の
ように、黙々とフォークを動かすことに専念し始めた。男は満足げに笑み、しかし自身は
ほとんどスパゲティに手を付けずにいる。彼がちらと視線を向け、訝しげに眉を顰めた。
「喰わねぇの?」
「お前を見ているだけで腹が膨れる」
「……それ、どういう意味だよ」
うさん臭そうに眉間に皺を寄せる彼に、男は軽く肩を竦めて気にするなとだけ返した。彼は
不服そうに、しかし食い気には勝てぬとばかりにフォークを握り直す。
「喰わねぇなら、俺が貰っても良いよな?」
そうっとした申し出に、男はちょっと笑って皿を彼の前にスライドさせた。ほとんど減って
いないパスタに、彼が首を傾げている。が、重ねて問うて来ないのは、何を訊いても駄目だと
学習したからなのか、どうか。
またしても黙々と食べることに集中し始めた彼の横顔は、まるで幼い子どものようだと男は
思った。
続かせてみました…
[08/04/05]