朝霧アサギリ









月が紅い。欠けたところのない真円が眠らぬ街を見下ろし、まるで嗤っているような禍々しい 輝きを放っている。

繁華な通りから離れたスラム街では、棲処の明かりを落とせば紅い月が煌煌として、いっそ眩しい 程だ。
この日ばかりは明るいスラムの路地に、一人の男が何をするでもなく立ち尽くしている。
造作の良い尖った顎を上げ、空を――――月を見上げているのだろうか。歳の頃は、多く 見積もっても三十半ば。顔立ちは、秀麗さに歳が重なって程良い渋みが滲み、いかにも男盛りと いったふうだ。

月明りに照らし出された髪は色が浅く、白か銀か、褪せた金にも見える。長身を包むゆったりと した外套の裾が路地を抜ける風を孕んでははためいて、静物画のような風情に唯一の動きを もたらしていた。





夜更けの仕事は嫌いではない。が、それは悪魔絡みの仕事に限ったことで、今日のような マフィア間のいざこざに巻き込まれるという下らない仕事は面倒なだけだ。しかも眠い。 仕事のない日は、今時分にはもうすっかり夢の中だ。――――平穏に眠らせて貰えればの 話だが。
無論、仕事であれば数日は完徹でも支障など出ない。しかしそれも、乗り気がどうかが最大の 問題となる。

背中の大剣を振り回すのも面倒で、ダンテは右手に一挺、愛用の銃を抜いているだけだ。 ダンテから数メートル後方では、依頼主であるマフィアの幹部が護衛陣に四方を守らせた 状態で、シルバーボディのベンツに乗り込もうとしている。
会食とやらを、今夜この、夜空にそそり立つホテルの一室で行なっていたらしい。誰と、などと いうことはダンテには関係のないことで、訊きもしなかった。その会食を終えて部屋を後にした 時点から、依頼主を暗殺者の銃弾が狙ったのである。

狙われる予感は嫌という程あったのに違いない。依頼主が揃えた護衛の人数は片手では足り ないし、加えてダンテをも雇う周到ぶりだ。まぁ、ダンテの見るところ依頼主はいかにも 小心者で、護衛が多ければ多い程(質はともかく)安堵出来るたちなのだろう。
ダンテを雇うに到った理由は、相当腕の立つ便利屋という話を、同じく脛に傷を持つ人間から 聞いたからだそうだ。
報酬は前金と併せて五万ドル。命の値段としては安いものだ。こんな小者を狙うくらいなの だから、暗殺者らの腕も質もたかが知れている――――そう見当を付けていたダンテは、自身の 読みがきれいに当たってしまい、現在非常に機嫌が悪い。
今日は別行動の双子の兄が見れば、ダンテが拗ねているだけだということが判っただろうが、 一夜限りの付き合いであるものにそこまでの判別はつけられない。

あからさまに不機嫌と判る気配を纏わせたダンテを、依頼主やその周囲の護衛どもが不安げな 視線を呉れているが、ダンテにすれば彼らからの信用をなくそうとも、小さな痛手にもならない。 それに依頼主を含めた護衛陣が一人も死なずに生き残っているのは、間違いなくダンテの働きに よる成果なのだ。

「チッ……詰まらねぇ……」

口に出してしまえばいっそう面白くなくて、ダンテの眉間に刻まれた皺が深くなる。このまま、 兄のように皺が消えなくなったらどうしてくれるのかと、恨みをぶつける先は、ダンテにこの 依頼を押し付けた馴染みの情報屋だ。

依頼主が乗り込んだ車が、ホテルの地下駐車場から滑り出ていく。ダンテが乗るよう指示された のは、別の車だ。乗りたくもないが、仕方がない。依頼主を安全な場所(自宅の屋敷だそうだ) まで送り届けるのが、今夜のダンテの仕事だ。
夜の通りを疾走する車の中で、ダンテは何度目かも判らないため息を吐いき、愛用の銃で肩を 叩いた。



名前が売れることに文句はない。むしろ依頼が増えれば悪魔絡みの(エンツォ曰く、うさん臭い) 仕事も多くなる。名は、売れるに越したことはない。しかし同時に面倒もついて回るものだと、 ダンテはつくづく辟易していた。
兄は仕事に関して、ほぼ来るもの拒まずの姿勢を貫いている。ダンテとは違い、感情に全く 左右されない兄らしいやり方だ。

「はぁ……」

もう数えるのも馬鹿らしくなったため息は、アスファルトに吸い込まれる。時刻はもう、夜明けが 近い。結局あれから、車は散々迂回をし、尾行する車を振り切ってどうにか屋敷に辿り着いたのが 一時間前のことだった。ダンテの銃が幾度か火を噴いただけでけりのついた安い仕事のあと、 送らせると依頼主が言うのを無視して徒歩で帰路に着いたのだ。自宅からはかなり距離があった が、もうしばらく車は遠慮したい気分だった。
一時間もかけてぶらぶら歩いていると、気は晴れるどころか逆に塞ぎ込んでしまった。理由など 知らない。ただ、ひとりでいることがひどく寒いように思ったのだ。

兄は先に帰宅しているだろうか。

先の依頼主への恨みごとが絶えてしまえば、考えることは兄のことばかりだ。こんなことでは 駄目だと思うけれども、ダンテにとって兄の存在はあまりに大きすぎて、全く考えずにいるなど 出来そうもない。
支配されていると、思う。本来なら、誰よりも対等な存在であるべき双子だというのに。
今更、だ。ダンテは肩を竦め、後少しばかり残された帰路を急いだ。





男はあるものを捜している。路地に立ち尽くしている理由は、近くに己が求めるものの気配を 感じるからだ。
もうずっと、男はそれを捜し続けている。あてどもなく彷徨い、ここへ辿り着いてようやくそれに 近付いたという確信を、男は感じている。
見上げる月は、まるで祝福しているように男の目には映った。緋に近い紅を見て、脳裏に浮かぶ ものは男にとって唯一の存在である。

銀色の髪。硝子玉を嵌め込んだ瞳。透けるように蒼い白磁の膚。
己と酷似した容姿の、しかしまるで異なる雰囲気を纏った――――双子の、弟。





スラム街の路地はどこもかしこも暗い。昼間であっても、路地を陽が煌煌と照らすことはまず なかった。陽当たりの悪い土地には総じてたちの良くないものが住み着きやすく、その為少しでも 金のあるものがスラム街に好んで居を構えることはない。貧困に喘ぐもの、社会から弾き出された ものなど、スラムに流れ着く人間は多い。
そんな、陽の射さぬが故の暗さとは全く別の気味の悪さを感じたダンテは、眉を顰めて足を 止めた。何気なさを装って辺りを見回す。人影はなく、かといって悪魔の類でもないようだ。
しかしこの、膚を突き刺すような視線――――夜明け間近のこの時刻に、通り魔が出るというのも 奇特な話だが、そのわりには殺気がない。何かがいる。それは確かなことなのだが、何が、までは 判らぬというのだから不審は募る。

ダンテは腰に手を回して愛用のカスタム銃に触れた。しっくりと手に馴染む感触を確かめたとき、 不意に空気が揺らいだのをダンテははっきりと感じた。

――――来る。

人間としての勘か、それとも悪魔としてのものか、ダンテには判らない。頭で考えるより先に、 ダンテは前方へ銃口を向けていた。やはり人影は見えないのだが、気配は前方から路地を真直ぐに 近付いて来る。
トリガーの重みは、心地好い。つんざくような銃声が路地に響く。手応えは――――ない。

「……ッ……!?」

ダンテは目を見開いた。銃を構えたままの腕を、ぴくりとも動かせることが出来ない。それは 路地に張り付いた影から現われた。一瞬足らずで距離を詰めた“何か”の、氷のような双眸に ダンテの茫然とした表情が映されている。

男、だ。

通り魔でも、時折ダンテを狙う同業者でもない。殺気はやはりなくて、しかしそれは当然のように ダンテには思えた。

男は、蒼みがかった銀色の髪を後ろに撫で付けている。冷たい双眸、引き結ばれた薄い唇。背は、 ダンテよりも高い。
目の前の男を、ダンテは確かに知っている。が、奇妙であった。

「アンタは……」

名を紡ぐことを、ダンテは躊躇した。何をするでもなく、ダンテの目の前に佇んでいた男が、 不意にダンテへ腕を伸ばした。二の腕に痛みが走り、掴まれたのだと認識したときには、 ダンテは何故か男の腕の中に閉じ込められていた。

「なっ……」

わけが判らず瞠目し、絶句する。男の分厚い胸板と腕の力強さが、どうしてかひどく 心地好くて……銃も剣も持っていながら、ダンテは男を拒絶することが出来ない。
戸惑っていると、落ち着かせる為かのように、後頭部に手を添えられた。男の肩口に額を埋める ように抱き寄せられ、ダンテはいっそう困惑を覚える。

匂いが、

ダンテの手から、握り締めていた銃が滑り落ちる。空になった手は男の背に回すかどうか悩む ふうに、ふらふらと宙を彷徨った。
そんなダンテの耳に、低い声が――――

「ダンテ、」

ようやく見つけた。

そう吹き込まれた言葉の意味は、ダンテには判らない。ただ判ることは、男はあまりにもダンテの 兄に似過ぎていて――――同時に、父にも、ひどく似ているということだけ。

口数の極端に少ない男は、もう一つダンテの名を紡ぎ、ダンテを抱く腕に力をこめた。しかし 息苦しさは感じぬ優しげな仕種に、ダンテは安堵しそうになる自身を戒めるように唇を 噛んだ。
男が兄ではないということは明らかだ。何故ならば、男は確実にダンテよりも年嵩なのだから。 それに男は、ダンテをようやく見つけたと言った。兄ならば、ダンテを捜す必要などどこにも ない。この男は兄とはまるで別人に違いなく、しかし――――どうしてこんなにも似ているのかが 判らなくて、この腕はあまりにもダンテを落ち着かせてならない。

(誰、なんだ)

断続的に耳に囁かれる己の名が、ただただ心地好くて。

ダンテは瞼を閉じ、男の匂いを吸い込んだ。宙を漂っていた手は、いつの間にか男のコートを ぎゅっと掴んで離そうとしない。男の肩口に顔を押し付けるさまが、まるで飼い主に甘える猫の ようだとは、無論ダンテは自覚しておらず。
吸い込んだ男の匂いに、ほうっと艶のある吐息を無意識に漏らしていた。



















次?
戻。




[08/02/27]