朝霧
雨が降っている。
しとしと、しとしと、もう一時間ばかり降り続けているだろうか。
室内は暗い。時刻は午前十時だが、薄くはない雲が、覆うもののない窓から射し込むはずの光を、
九割方奪っている。
彼はベッドに横たわり、秀麗と言える顔立ちに憂鬱そうな表情をたたえて、じっと天井を
見上げている。年の頃は十代後半。肌は白く、開かれた双眸は澄んだ青。珍しい銀色の髪は
首に半ばかかる程度の短さだ。
うっすらと開かれた唇は動くことなく、それゆえに、この場に誰かが入ってきたとすれば、
出来のいいビスクドールが横たわっているような錯覚を起こすかもしれない。それほど、彼の
容姿は整っている。
雨はただ降り続ける。彼一人、世界から切り離されたかのように、雨より他の音はなく、
完全なる静寂が彼を包んでいる。
そうして、しばらく。
ことり、ささやかな音がした。人形のように微動だにしなかった彼の、青い瞳がちらと動いた。
そちらにあるのは、ドアが一枚。ぴたりと閉じられた板を凝視する。
音はもう、しない。しかし彼の目はドアに釘付けになったままだ。静寂に息をひそめ、何をか
待っているふうにも見える。しとしと、雨は降り続く。
やがて、
ひそりと、ドアが開いた。部屋と廊下とを繋ぐわずかな隙間。徐々に広がっていくその境界を
見つめる彼の、曇りのない碧眼が映したものは――黒い、影。
若い青年が寝台に横たわっている。仰向けになった躰からは一切の力が抜けており、彼が深く
眠っていることを教えてくれる。
それを見つめる氷のような双眸の持ち主は、男だ。歳は四十手前か前後だろうか。青みがかった
銀髪、その前髪は後ろに撫で付け、襟足が半ばほど見える程度に短く刈ってある。整った
顔立ちは精悍で、年齢がうまく渋みを加えているが、眉間に刻まれた深い皺と、威圧感の
ようなものが近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
纏う雰囲気や歳こそ違えど、眠る青年と男の顔立ちはよく似通っている。親子と言われれば
誰もが納得するだろう。彼らには、確かに血の繋がりがあるのだから、当たり前かもしれない
が。
眠る青年の頬を、男は指の背でなぞるように撫でた。張りのある肌はすべらかで、心地よい
感触を男に与える。男はその手を青年の胸元に滑らせた。浮き出た鎖骨を指先で軽くひっかけ、
左胸に掌をあてる。とく、とく、鼓動が作り出す振動が伝わってくる。彼が生きているという、
何よりの証だ。
この音が、鼓動が、止まる瞬間を男は知っている。腕の中で、このあたたかな躰が冷たくなり、
固くなっていくのを、男はよく憶えている。
そのとき男は、確かに絶望していた。それもまた、記憶に生々しく刻まれている。
失敗、したのだ。男は。それも、何度も。
今度こそは。男は絶望の中そう強く念じた。そうして、彼を捜し出すことに成功した。
私のものだ。
仰向けに眠る彼を見つめ、男は口の中で囁いた。誰にも渡しはない、と。実際、男は彼を
見つけだして以降、彼に一切外出を許しておらず、外部との接触もまたさせてはいなかった。
一歩でも外へ出せば彼は逃げてしまうかもしれない。誰かと――躰を繋げることもあり得る。
だからこうして、見張っておかねばならないのだ。
衝動的に、男は彼にかぶせていた毛布を掴み、引き剥がした。何も着けていない、透き通る
ように白い裸身があらわになる。歳のわりに引き締まった体躯は、男の完成されたそれと
比べれば当然ながら細く見えるが、未完成であるがゆえの美しさがある。
寒さなど感じない季節だからか、毛布を失ってなお彼は目覚めない。男も彼を起こそうとは
せず、ぐったりとしたままの彼の躰を抱き寄せた。意識のない人間というのは、ひどく重い
ものだ。しかし男は別段力をこめるふうもなく、あぐらをかいた自身の膝にひょいと座らせた。
力なく垂れる首、肩口にかじりつくようにもたれさせる。
ぐずるというわけでもない、彼の吐息が耳にかかる。男の頬には、あるかなしかという微かな
笑み。
痛みで、彼は目が覚めた。びくりと躰が揺れたことで、自分自身もまた驚いてしまったが、
それよりも目の前に男の顔があることに驚いた。
「な、なに」
とっさに問うが、男は妙な笑みをはくだけでものを言わない。口数の少なさはいつものこと
だけれども、何かがひっかかった。少しずつ、睡魔が離れ思考が明瞭になっていく。そして、
気付いた。
「なっ……なっ……!?」
大きく開かれた自分の脚。その間に挟むような格好で、服の上からでも逞しいとわかる男の
体躯が割り込み、そして。
内股を中心に、赤い花びらのような痣が散っている。しかしそれはあくまで一部であり、
大部分はぷつぷつと小さな穴が開いたように陥没し、血が滲んでいるのが見てとれた。
数え切れぬほど、いくつも穿たれたそれ。
とんでもない状況に思わず絶句した彼を見て、男はそこで初めて言葉を紡いだ。
「あぁ、――起きたか」
などと、白々しいことを口にするものだから、彼は文字どおり激昂した。
「起きたか、じゃねぇっ! 何やってんだよ!」
「見たままだ。お前を喰らっている」
しれっとのたまう男に、彼は頭痛を覚えた。
ある日突然現れたこの男は、ことあるごとにその言動でもって彼を振り回してくれる。兄だと
名乗ったそのときから、彼はずっと振り回され続けているのだ。
どうすればいいのだろう。
もうずっと、彼はこうして自問している。奇妙な男から逃げ出すすべを、彼はずっと自問し
続け、しかし答えはいつまでも見つからない。
外出は禁止。電話も禁止。世界から切り離されたこの広くはない家で、彼は男に軟禁されて
いる。剣を取り、銃を構えてかかれば突破口は開かれるかもしれないが、彼はそれをしない。
理由はわからない。いや、わかっているが、直視せぬだけなのだ。
男による“支配”が、彼にはとても心地いいと感じてしまっているから――。
「逃げようなどとは、思わぬことだ」
低い声が囁いて、彼は反射的にぎくりとした。見上げた先には、男の氷のような冷たい双眸。
「お前は私のものだ。――どこへも逃がしはせん」
すべてを見透かされているような気がして、彼は喉を上下させた。彼の知る兄も相当横暴かつ
冷たい人間だが、この男に比べれば優しいものだ。
男の放つ威圧感は、押しつぶされてもおかしくないほどに強い。
そんな男に目をつけられたのだから、彼はよほど不運である。
言うことはそれだけ、とばかりに、男は躰を丸めるようにして彼の下肢へ顔を埋めた。
萎縮している彼自身を、男の髪が撫でる。やめろ、と言う暇も与えられず、ぷつりと骨に
直接響く音とともに、痛みが走る。
「ッ……」
息を飲む彼を、男は顧みない。またしても、痛み。今度は肌を破られたのではなく、穴の開いた
そこをずっと吸われたのだ。
「あッ……ぅ……」
思わず声を上げてしまい、彼は手の甲で唇を覆った。男には、間違いなく聞こえているだろう。
彼の一挙手一投足、余すところなく征服しようという男なのだから。
しかし男は顔を上げることなく、何をか言葉を投げるわけでもなく、ただ彼の下腹に食らいつく
ばかり。彼はそれを、ただ見つめることしかできない。
時折もれてしまう吐息を、どうしても抑えることができずに。
びく、と彼の躰が震えた。
男は伸びた犬歯で彼の肌をなぞりながら、ぷつり、ぷつりと無秩序に穴を穿っていく。そうして
にじみ出た血を舐め、すすり、喉を潤すのだ。彼の血は、とても甘い。癖になる、とはこういう
ものに出合ったときに使うのだろう。
時折、彼が甘ったるい吐息をもらすのもまた、佳い。
気付けば彼の花芯は恥ずかしげにひくひくと震え、鎌首をもたげている。彼がそれを自覚して
いるか否か、彼の躰に食らいついたままの男にはわからない。
「ん……ぅ……」
手か何かで口を覆っているようだが、鼻にかかった吐息はかえって官能的に響いており、
逆効果だ。男は己が笑みをこぼしているとは自覚せず、彼の内腿ににじんだ血を舌でぬるりと
舐め取った。途端、彼の躰がたまりかねたように跳ねる。
「ッあ……!」
彼にとっても思わぬ反応であったのだろう。息を詰め、躰を強張らせているのがわかる。
「恥ずかしがることなどない」
男は自然と口を開いていた。彼の躰がぴくりとする。
「その反応もすべて、おまえなのだ。すべてをさらけ出せ。おまえのすべては私のものだ」
「そ……そんなこと、言われたって……」
困惑した、彼の声。彼が素直に自分を受け入れようとせぬ理由を、男は知っている。操を守る
つもりでか、どうか。彼は快楽に弱いという欠点を持ちながらも、芯の部分で男を拒むのだ。
それが、男には不愉快でならない。
わかっていないのだ、彼は。己が真に誰のものであるのか。わかっていない。
「……急ぐことはなかろう。じわじわと刻み込んでいけばいい……」
時間は、ある。おそらくは。焦れば前例と同じ失敗を繰り返すだけになる。それは避けねば
ならない。今度こそ、彼を手に入れなければ。
男は再び彼の下腹へ顔を埋め、先刻穿ったばかりの痕を唇で触れた。深く穿ったはずの傷痕は、
すでに塞がろうとしている。男は寸分の狂いもなく、同じところへ犬歯を突き立てた。彼が短い
悲鳴をあげる。
「ぅあッ……!」
痛いのだろう。しかし彼の躰――性の象徴は確かに反応し、先端からは辛抱たまらぬように
透明のものをにじませている。痛みすら快楽にすげ替えてしまう、躰。“相変わらず”、
好き者であるらしい。自覚がないことがいっそう、彼を淫猥に仕立て上げる。
だが、まだ。
男の下腹もずいぶん張り詰めて己を主張している。彼の血は麻薬だ。男を昂ぶらせ、慾望に
走らせる。しかし、まだ。
己の慾を抑えることができる程度には、男は歳を重ねている。
「もっとだ、ダンテ。すべてをさらけ出せ。すべて……」
ぴちゃりと彼の肌を舐める音とはべつの水音が耳に届いた。雨が降ってきたらしい。
黒い影は音もなくドアをくぐり、部屋へ入ってくる。彼が寝そべるベッドへ迷いなく近づき、
そして足を止めた。
何を考えているのかわからぬ、氷のような双眸が彼を映す。彼はそれを見上げ、しかし言葉を
発することはない。
しとしと、しとしと、
雨は止む気配もなく、細々と降り続く。この終わりの見えぬ生活を、すべてから隔絶された
世界を象徴するかのように。
狭く切り取られた空はただ、ただ、泣き濡れる。
歳の差、裏。というリクをいただいたのですが、きわどく裏にならず、無念。
そんなわけで、4D3Dでリベンジすることにしました。
[10/09/19]