燈火
父の名は知らない。
父の顔も知らない。
知る必要も、ない。
聞いたことのある名だと、思った。知人の類ではない。随分と以前に、一度だけ耳にしたことの
ある名だ。そんなものを何故覚えていたかといえば、その名を紡いだのが生前の母だったから
である。
そのとき、バージルはまだ幼く母も元気にしていた。どういう経緯でその名が出たのか、詳細を
はっきりとは覚えていないが、母のひどく寂しげな表情だけはよく覚えている。それ以来、母が
その名を口にしたことはなかった。
印象的だったわりに、今の今まで忘れていた理由としては、おそらく母の哀しみに暮れる表情が
あったからだろう。バージルが忘れてしまえば、母もいつものように笑ってくれると、子ども心に
思ったのかもしれない。
何にせよ、母はもうこの世にはいないのだ。彼女に気を遣う必要はもはやなくなった。
夢で聞いた名を、母が口にしていたというのは不思議なことだ。同名、というのが最も妥当な
線だろう。あの夢がいつの頃のことかはバージルには判らないが、最近のことではないに
違いないという確信はあった。バージルが視たものはごく限られた光景でしかなかったが、
服装や雰囲気から察せられることはある。
別人であろうと、思う。母の唇が紡いだ名の人物と、夢の中の人物とは。そうに違いない
のだが、脳裏のどこかで引っ掛かりを覚えるのも確かなことだった。
躰を起こすと、不自然な恰好で眠り込んでしまった所為か腰や肩が痛んだ。軽く首を回せば、
凝った肩がこきりと鳴る。バージルは短いため息を吐き、枕許の置き時計を見やった。午前六時。
少し眠りすぎたようだ。
首の根元を押さえながら、バージルは今日も一日が始まったことに小さく憂える。この日々は
何とも詰まらない。元より愉しいと思ったことなどないが、今程ではなかったように思う
バージルだ。
理由ははっきりしているし、自覚もある。
彼に、じかに逢えぬからだ。
人間は、これだけは絶対に譲れぬという何かを持っているべきだ。そうすれば、たとえ他の
何もかもを失っても、それだけを支えに生きていける筈なのだから。
母の支えは、何だったのだろう。そんなことをふと、考える。
自分が生まれる以前のことを、母はほとんど語ったことがない。親戚筋とも縁の薄かった母は、
いったいどうして生きていたのか。こんなにも気になったのは、今が初めてではないだろうか。
母の遺品は、クロゼットに一纏めに押し込んだきり、いちいち確認したこともなかった。遺品を
手に思い出に耽るなどバージルはしたくなかったし、しようと思ったこともない。空き部屋の
片隅に置いたままのクロゼットに手を伸ばすのは、本当に初めてのことだった。
古いが、造作の良さが気に入りなのだと、母がいつか言っていたクロゼット。女性が使うには
どことなく武骨な印象のあるそれを、バージルは無造作に開けた。観音開きの扉は、程よく重い。
黒塗りの重厚な作りからして、やはり女性には似合わぬように思えてならなかった。
クロゼットの内部は、子どもが三人入れそうな程度に広い。
ハンガーにかかった瀟洒な紅いドレスが目に鮮やかに飛び込んでくる。母が一番大事にしていた
ものだ。着ているところを見たことがないというのが、少々惜しまれる。きっと似合ったこと
だろう。子のバージルが言うのも何であるが、母は誰よりも美しかった。ともすれば色に負けて
しまいそうなこのドレスも、母が身に着ければ彼女の美しさをいっそう引き立てたに
違いない。
紅とは、主人を選ぶ色だとバージルは思う。彼に紅が似合うのも、選ばれたからに違い
なかった。
いくつも掛かった服の足許に、母が使っていた小物が納められた箱がある。バージルはそれを
引っ張り出し、埃が舞うのを覚悟で開けた。古いものの臭いが鼻腔をくすぐる。写真立てを
拾いあげ、そこに母とまだ赤ん坊の自分とを見つけて複雑な心持ちになる。幼い頃の写真は、
あまり見たくないものだ。
箱を早々と閉めて、バージルはクロゼットの引き出しに取り付いた。バージルが無精をした
お蔭で、そこも母がかつて使っていたまま、衣類などが詰め込まれている。ただし雑然とした
様子はなく、きれいに整頓されているあたり、母の性格をよく遺しているとバージルは
思った。
このままにしておいても構わないが、折角だ。この機に処分出来るものはしてしまおう。
バージルはそう決めて、もう手許に置いておく意味のなくなった衣服を、引き出しから引っ張り
出した。
女性というものは、どうしてこんなにも大量に衣類が必要なのか。バージルは不思議でならない。
と言っても、母の衣服はこのクロゼットに納まりきる程度の量なのだから、世間一般と照らし
合わせればむしろ標準以下だろう。が、この場にはバージル以外に誰もおらず、また女性と
付き合ったことのないバージルには判るわけもないことだった。
ごみ袋が要る。バージルは肩を竦めて立ち上がろうとしたが、ふと思い直して尻を床に戻した。
引き出しの底に、何かがある。下着類すら何の躊躇も臆面もなくクロゼットの外へ放り出した
バージルだ。それが何であっても、躊躇いを覚えることはある筈もない。
白い布をぐるりと巻き付けられたそれは、細長い棒のようにバージルには見えた。触れた感触は、
硬い。母は何を引き出しに隠して(そのつもりがなかったにしろ、隠してあるようにしか
見えない)いたのか。眉を顰め、バージルはおもむろにそれを取り出した。重い。
がちゃ、と金属の擦れるような音がその棒状のものから響いた。この重みといい、どこかで聞いた
音だと思いながらも、思い出せぬまま白い布の覆いを外す。間もなく現われたものに、バージルは
いつか誰かに美しいと誉め讃えられた碧眼を瞠った。
「これは、」
剣、だ。母が持つには全く不釣り合いの、兇器。黒塗りの鞘に納まった刀身を抜くと、それは
まるで錆付きもしておらず、妖艶と言える程の美しさを湛えていた。しなやかな反りを持った
刃に、バージルはしばし魅入った。見たことのある剣。夢の中で“自分”が振るっていたそれと
同じものが、ここにある。それはいかにも奇妙なことだ。
似た造りの剣など、いくらでもあるだろう。刀剣商に問い合わせれば、この独特の造作をした剣も
扱っているに違いない。しかしそれを、母が所持していたということが不審でありすぎるのだ。
銃を所持しているものは多い。所持していないもののほうが少ないという程度には、この国の
治安は悪いと言える。ここにしまわれていたものが銃ならば、バージルは気にも留めなかった。
隣人すら信用のならないこの時世だ。
が、母のクロゼットにあったものはひと振りの剣。これを不審に思わずにどうしろという
のか。
バージルは刀身を鞘に戻し、柄を観察した。鞘は黒いばかりで何の装飾もないことは、一目で判る。
鍔も似たようなもので、残るは柄のみだ。その柄にしても、対した飾りがあるわけではない。
実用性のみを追究したような、派手さとは一切縁のない造作だ。しかし、バージルの好みには
合う。
柄の先端に触れた指が、止まる。ざらついた感触。自然のものによる感触ではないと、バージルは
直感した。視線をそこに注ぐ。何やら文字らしきものが刻み込まれている。バージルは目を凝らし、
判読しようと試みた。
(……i、lv……あぁ、頭はGか。名前……?)
薄くなった刻印を、バージルはもう一度指の腹でなぞった。――――Gilver。
「ギルバ、」
いつか母の口から聞いた名だ。そして夢の中で、彼が叫んだ名でもある。
バージルは、今度ばかりは驚かなかった。やはり、という思いがバージルに驚くことをさせ
なかったのだろう。
ギルバ。かの男が母の何であったのか、それは愚問のように思えた。
バージルは剣を握り締め、母がこの世に亡いことを、おそらく初めて悔やんだのだった。
父の名は知らない。
父の顔も知らない。
知る必要など、ない。
知ったところで、父と自分とは全くの別人なのだから、無関係も甚だしいではないか。
夜を待って(本当はすぐにでも出かけたかったが)、バージルは歩き慣れた道を件の屋敷へと
向かっていた。いつもは何も持たない手には、母のクロゼットから見つけた剣を提げている。
無論、布に巻いて、だ。いかに夜であっても、人通りが皆無とは限らず、下手に好奇を集めるのは
好ましくない。
彼は今日も、闇に占められた部屋で何をするでもなくぼんやりと過ごしているのだろうか。今も、
ギルバという名の男のことを想っているのだろうか。
あの黒ずくめの男の言葉から想像するに、ダンテはギルバへ、小さくはない感情を抱いているに
違いなかった。バージルは唇を噛み締める。自分はそんなにも、ギルバに似ているのか。
幽霊屋敷の住人が、唯一バージルのみに接触を許したのは、バージルが想いを寄せる男に似て
いたからなのか。
(身代わりか、俺は)
口内に鉄錆の味が広がった。噛み締めた唇から血が出たらしいと判り、いっそう苛立ちが募る。
早くダンテに逢って、問いただしたい。二度と来るなと言った、あの言葉の真意を。違うと、
そうではないのだと、彼の口から聞きたかった。
屋敷に近付くにつれ、バージルは屋敷の周囲がいつもと違うことに気付いて歩調を緩めた。人が、
屋敷の正面に居並んでいる。数は二十に足らぬか。バージルが眉を顰めたのは、それらの人影が
放つ異様な雰囲気の所為だった。殺気。憎悪。およそ穏便とは言えぬものが、屋敷を取り囲んで
いる。
何ごとがあったのか、通りすがりを装って近付いていく。最善は、踵を返して見ぬふりをする
ことだ。これが彼の屋敷でなければ、そうしただろう。バージルの足は屋敷から離れることを
選ばなかった。
屋敷を見上げる人々は、皆一般人にしか見えない。間違っても、警察や軍関連の人間ではない
だろう。年齢も性別もばらばらだ。唯一の共通点は、屋敷へと向けられた悪意であるというの
だから、剣呑なことだ。
何をするつもりなのか。皆が皆、悪意を募らせた表情を屋敷に向けていながらも、無言なのだ。
不気味であるには違いなく、何より不審だった。
バージルが近付くと、人々がこちらに視線を向けてくる。止めるな、という声が聞こえた気が
して、バージルは眉を寄せた。そのとき、
「バージル、」
女の声に名を呼ばれ、バージルはそちらを見やった。不安げな表情の少女は、以前もこの同じ
場所で言葉を交わした少女であった。
「止めに来たの?」
出し抜けに、少女が言う。バージルには当然ながら、意味が判らなかった。
「……何をだ」
ただの通りすがりと思ったのか、少女の強張った表情が明らかに緩んだ。笑みを浮かべてさえ
いる。ただし、明るい笑顔とは言えないが。
「あれからね、また人がこの屋敷に入って……それきり帰って来なかったの。ジムから数えれば、
もう五人になる。それで皆で……」
「屋敷に押し入るか、それとも火でも付けるつもりか」
バージルの静かな声音に、少女はぎくりとした。すると少女の背後から、年配の男が割り込んで
バージルに詰め寄った。
「我々にはそうする権利がある! 息子がこの屋敷に行ったきり戻って来ないんだぞ!」
成程、とバージルは内心で独りごちた。屋敷を仰ぐ人々は、息子ないし恋人が行方知れずと
なったものたちらしい。そして行方の知れない全員が、姿を消す直前に彼の屋敷に忍び込んで
いた、と。
「確証はあるのか」
「……屋敷に入っていったところを、この子が見ている」
髪に白いものの混じった男は、少女の肩に手を乗せて言った。少女はバージルをきっと見据え、
頷く。この少女はどうも、消えた五人ともと繋がりがあるようだ。彼女が屋敷の話をしたが故に、
行方不明のものは興味本位で屋敷に忍び込んだのではあるまいか。バージルは判らぬ程度に肩を
竦めた。
「確証があると思うならば、警察にでも訴えれば良いだろう」
しかしそれをせぬというのだから、確かな証拠はないに違いない。案の定、男はバージルから目を
逸らした。
「警察なんかあてにならないわ。自分たちでどうにかしなきゃいけないの。ねぇ、バージルも
一緒に……」
「断る。貴様らに手を貸す理由も義理もない。馬鹿馬鹿しい真似はやめろ」
「やっぱり、あんたはここに何がいるか知ってるのね?」
少女の鋭い目が、バージルを憎しみをもって睨みつけた。傍らの男が、本当か、という顔で
バージルを見る。
「教えなさいよ、何がいるのか」
詰め寄る少女に、バージルは嫌悪すら覚えた。結局、彼女は自分のことしか頭にないのだろう。
妄執に囚われているようにしか、バージルには見えなかった。
「下らぬ……」
吐き捨てるように呟いたとき、屋敷の南東のほうから奇妙な声が上がった。悲鳴に近い。それに
混じって、いたく昂奮した声もある。
「あっ……!」
少女が声を上げた。バージルはその前に、嫌な臭いを嗅ぎ取っていた。痺れを切らしたか、
精神的に追い詰められたか、一人が屋敷の庭へ火を放り込んだのだ。屋敷に火が回れば、住人は
外へ逃げ出すしかない。
「馬鹿が」
バージルは表情を険しくして、茫然としている少女と男を余所に屋敷の門扉に手をかけた。少女が
気付いたときには、バージルの躰は門の内にあり、玄関扉へと向かっていた。
「バージル!」
少女は門扉をがしゃがしゃと揺らすばかり。意志などあるわけのない鉄の柵は、バージル以外の
人間が門のこちらに入ることを固く拒んだようだ。
バージルは背後など振り向かず惑いなく玄関扉を開け放ち、闇を孕んだ胎内へ飛び込んだ。
敷居を跨ぐと同時に扉は締まり、ノッカーががちりと独りでに鳴いた。
次くらい、オチれば良いなと思ってます。
[08/05/27]