燈火トモシビ









何故、とは問わなかった。どうしてここにいるのか、疑問であったし驚きもしたけれども、 それ以上に別の感情が込み上げて言葉が出なかった。嬉しい。そう感じてしまったことを、 ダンテは傍らの男に気付かれぬよう努めねばならなかった。

何をしに来たのか。問うたのは傍らの男だ。低い声音には怒気が混じっている。この男は初めから 青年を厭っていた(いっそ憎悪と言って良いかもしれない)きらいがある為、それは恫喝とも 取れる鋭い口調であった。
ダンテとよく似た容貌の青年は、男など眼中にないのかじっとダンテだけを見つめている。 薄い唇がつと、開く。

「ここは囲まれている。間もなく庭からこちらに火が回るだろう」

火、とはまた剣呑な。ダンテは目を眇めた。自らの目で火を確認したわけではないが、彼は この青年を疑ってかかるということをしなかった。嘘を吐くわけがないと、無意識に深く信用して いる。
手入れもなされず鬱蒼と草木の生い茂った庭は、よほど湿気の多い時期は別としてよく燃えるに 違いなかった。屋敷に火が移れば、あとはあっという間だろう。この部屋が火にまかれるまで、 どれ程の猶予があるのか――――あまり楽観は出来そうにない。
どうも先刻から落ち着かない筈だ。男がどこか一点を見つめていたのも、屋敷の周りを囲んでいる という人間たちを察知してのことだったのだろう。何も言わず、ただ神経をそちらにやっていた だけというのが、少々気になりはするけれども。

青年はダンテの反応を待っているようだった。しかしダンテには、どのような反応を返すべきかが 判らずにいる。屋敷に放火。普通の観念からすれば、すぐにもこの場から避難しなくてはならない ところだが、生憎ダンテは人間ですらないのだ。そして傍らの男もまた、人間ではない。
青年が、焦れたふうでもなく言った。

「逃げようと思わないのか?」

まるで、逃げるなとでも言うような口調だ。そもそもダンテを逃がす為にここへ来たのだったら、 こんな悠長な会話などせず、青年はダンテの腕を掴むなりして引きずってでも屋外へ連行している だろう。それをせず、まるで火事など起きてはいないかのように涼しげな表情であることの意味を、 ダンテは考えねばならなかった。
まず、逃げるか否か。

「どこに逃げろ、と?」

ダンテにはこの屋敷の他に棲処などない。逃げるという言葉は、いかにもぴんと来なかった。

「では、どうするつもりだ」

尋問口調であるのは癖、なのだろうか。ダンテはぼんやりと思い、次いで自嘲した。久しぶりの、 青年との会話は石のようであるダンテの心を揺さぶるに足るもののようだ。自ら突き放しておいて この体たらくとは、まったく嗤うよりない。無様だと、頭の片隅で誰かの声がする。

「どうもせぬ。そうだな?」

傍らの男が、不意にダンテの耳に囁いた。息を吹き込むようにするものだから、軽くぞくりとして しまう。どうもここ数日、躰が少しのことでも反応してならない。若い時分に戻ったかのようだと、 内心でため息を吐いたダンテは、その様子を見せつけられたかたちになった青年が、こちらを 忌々しげに睨んでいるとは気付かなかった。

「あぁ……仕様もないしな……」

そもそもダンテには、この屋敷を離れるということが選択肢として挙がって来ない。数十年もの間、 屋敷でしか生活をして来なかったダンテだ。いまさら、別の場所に移るという発想が沸くわけも ない。たとえ、屋敷が炎によって消えようとも。
青年はダンテの言葉に苛立ちを覚えたようだ。

「ならばここで、火が回るのを待つとでも?」

ダンテの横合いから、男が嘲るように鼻を鳴らした。

「ただのヒトである貴様こそ、ここにいては焼け死にかねぬぞ」

そうだ。ダンテははたとして青年を見やった。

「アンタは早く逃げろ。屋敷に火が回ってからじゃ遅い」

ダンテと男は人間ではなく、ただの火事程度ならば火傷を負うこともない筈だ。しかし、青年は にべもなく言った。断る、と。

「何故、」

素直な疑問だった。青年の表情はひどく落ち着いていて、慌てたふうがない。そういえば、火事に なる可能性を口にしたときですら、青年は平然としていた。だからこそ、ダンテは青年のほうが 明らかに危ういのだということに、まるで気付かなかったのだ。
何故そうも落ち着き払っていられるのか。

青年はゆるく口角を上げた。どこかで見たことのある表情だと、思った。

「俺は確かにお前とは違う。が、少なくともただの人間ではない」

ダンテが目を瞬かせた傍らで、本性は獣である男が低く唸る。青年を威嚇しているのか何なのか、 ダンテには判らない。
青年が、手に携えていた細長いものを掲げて見せる。がちゃりと音がした。巻かれていた布を、 青年が取り払う。現われたものは、どこかで見たことのあるものだった。

「それは、」

「ギルバという名を、知っているな? これはその男のものだ」

ダンテは息をすることを忘れて、青年の手の中のものを凝視した。珍しい片刃の剣。黒塗りの鞘。 反りを持たせた刀身の蒼さを、ダンテは確かに覚えている。
無論、ギルバという名も。
シーツに置いた手に、知らず力がこもる。白くなる程握り締めた拳が、何か暖かいもので覆われた。 それが男の手であると認識したのは、顎を掴まれ少し強引に顔をそちらに向けられた後だった。
男の真紅の隻眼が、怒りを湛えてダンテを見据えている。

「あれは最早、貴様には何の関係のないものだ。今更何を惑う必要がある」

耳に吹き込まれる言葉に、ダンテは頷きながらも腑に落ちぬものを感じていた。ギルバはもう 死んだのだろう。青年が何故あの男の剣を持っているのか、少しばかり考えれば答えは自ずと 出ようものだ。ギルバは当然この場にはいないし、あの日以来一度も会ったことすらない。 その点から見れば、確かに関係がないと言えよう。けれども、だ。

茫然とするダンテの耳に、ギルバのそれとよく似た声音が届く。(あの男の声など、もう忘れたと 思っていたのだけれども)

「ギルバがお前の何であったのか、俺には関係ない。俺は俺だ。今ここにいる、俺を見ろ、 ダンテ」



寝台に近付き、黒ずくめの男の手を払って彼の視線を奪う。男は舌打ちをしたが、それ以上の ことはせず言葉で何ごとか言うこともなかった。ある種の余裕を見せつけられて、バージルは 不快には思ったが放置する。今は彼と向き合うことのほうが大事だった。

「俺と来い、ダンテ。あの男はお前をともには連れて行かなかったが、俺は違う。お前を諦める など、出来ない」

過去に関係を持ったどの女に対してすら、これ程熱心な言葉を呉れてやったことはない。しかし 彼は、それらの女どもとは比べることすら出来ぬ程、バージルにとって大切な存在なのだ。 こうして掻き口説くことに、何の衒いもあろう筈がない。

彼はじつとバージルを見つめたまま言葉もない。無視をされているのではないということは、 僅かな揺らぎの見える双眸が教えてくれる。バージルは彼の頬に触れた。多少体温が低いきらいは あるが、暖かく弾力のある感触にバージルは目を細めた。するりと撫ぜた掌に伝わる滑らかな 感触が、バージルに堪らぬ程の衝動を起こさせてならない。
つまりは、彼を組み敷きその痩身を我がものにしたい、と。
やはりか、とバージルはため息の出る思いに耽る。自分は彼を、性的な意味で欲しているのだ。 彼を目の前にして認識してしまえば、もはや自身を騙す必要はないように思えてくるから不思議な ものだ。一人で悶々としていたときならば、全力を以て否定にかかっていたというのに。

「ダンテ、」

呼ばわる名の響きすら、違ったもののように聞こえる。
彼がぽそりと、こぼす。

「俺は……」

頭で考えて口を開いたのではないように、バージルには見えた。彼の髪に手を差し込み、柔らかな 感触を味わいながら続く言葉を待つ。急いてはならないと、自分を抑圧することが思いの外に 難しい。常日頃、感情が揺れ動くということの一切ないバージルであるが、彼に関してはそれが 通用しないようだ。ある意味で振り回されているような心境ではあるが、悪くはない。むしろ 甘美な感覚だと思っている自身を、バージルは苦笑するしかない。

彼は視線をバージルに据えたまま、その双眸には困惑がある。以前は、彼のこんな感情など バージルには読み取ることは出来なかった。急と言える変化は彼のものか、それともバージル 自身に起こったものか、判らないが嬉しいことに違いはない。
彼の総てを自分のものにしたいという慾望を満たす、これは一つの足掛かりだ。

「ダンテ」

名を呼ばすにはおれない。自分でもおかしいと思う程、彼が愛おしくてならないのだ。
バージルらしからぬことだが、ダンテに集中するあまり時と場合を忘れてしまっていた。 思い出したのは、男がにわかに動いたときだ。

「屋敷に火が移ったようだな」

独り言のような呟きに、バージルははっと目を見開いた。火事になる危険性を伝えたのは自分だと いうのに、当の本人がそれを忘れるとは間抜けも極まっている。
男が流し目を呉れるようにこちらを見た。妙に余裕のあるふうであるのが腹立たしい。

「外の人間が騒ぎ始めた。騒ぎになるは必定」

淡々とした口調で言い、男は彼の後頭部の髪を梳いた。いかにも慣れた手つきであることに、 バージルは憎しみすら覚えて眉根を寄せる。

「何にせよ、これ以上此処に居を構えてはいられまい」

労るような声音だ。彼は目を伏せる。瞼を縁取る銀色の睫毛の長さに気付いて、バージルはつい 見惚れてしまった。まったく、そんな場合ではないのだれども。

「……この土地自体に未練があるわけでもなし」

屋敷が焼ければ、躊躇なくどこかへ移るつもりなのだろう。全焼までには到らなくとも。しかし、 傍らで頷く男を余所に、彼は伏せていた瞼を持ち上げ再びバージルに視線を向けた。上目遣いの それに、バージルは魅入られたようになる。
男のため息が聞こえた気がしたが、確かめる時間すらも惜しい程、バージルは彼の硝子玉のような 色の薄い碧眼に釘付けになっていた。それでも、男が紡いだ言葉は耳に入った。

「これの目の前で八つ裂きにしてやりたいところだが……」

本気と冗談がないまぜになった声音だった。苦笑しているようにも聞こえて、さすがに不審を 感じる。今の男からは、自分に対する殺意や憎悪がなくなりこそせぬものの、薄まっているように 思えてならない。
バージルの内心を察したのか、男がくつりと笑った。

「俺は貴様が思う以上に永く生きているのでな。気に入らぬものに容赦はせぬが、少なくとも時と 場は選ぶ。後先考えずに動くのは、餓鬼の仕事だ」

「……なら、今は何をすべきだと?」

「決まっている」

判らないのかと言わんばかりの小馬鹿にしたような表情に、バージルはかっとなりかかるのを どうにか堪えた。彼の前で醜態をさらすのは耐えがたい。
男は嫌な笑みを貼り付けたまま、寝台から腰を上げた。

「此処で待っていろ」

と、目を細めて彼の頭を撫ぜるのは余計だと、バージルのこめかみが引きつる。どこへ行こうと いうのか、男はゆったりとした歩調で部屋を出て行った。その後ろ姿をダンテが軽く眉を顰めて 見送るのへ、バージルは面白くないものを感じたが口には出さなかった。ダンテは男が何の為に 部屋を出て行ったのか、知っているのかもしれない。言葉を交わさずとも相手の意図が 判る――――付き合いの長さを見せつけられて、バージルは奥歯を噛み締めた。





閑静な住宅街の一角が、一晩をかけて焼け落ちた。被害は幽霊屋敷と称されていた得体の知れぬ 洋館一棟に止どまり、他への延焼は一切見受けられなかった。火事発生から随分経ったのちに 駆け付けたレスキュー隊の面々は、口々にそれを奇跡と言い驚嘆した。
黒々とした焼け跡から、遺体らしきものは一つとして見つからなかった。やはり無人の屋敷だった のかと、周辺住民は納得し、同時に安堵したという。気味の悪い屋敷が丸ごとなくなったのだ。 もう薄ら寒い思いをする必要はないと、胸を撫で下ろすものもいた。





とあるマンションの一室に、青年は一人、暮らしている。親はない。父は生まれたときからおらず、 母は数年前に亡くなった。しかし青年は一人だからと寂漠を覚えることもなく、毎日を淡々と 過ごしていた。
その、いかにも単調な日々が、今はもう遠い昔のことのように感じるのだから、 不思議なものだ。

リビングのドアが開くのと同時に、青年は新聞の紙面から顔を上げた。

「起きたか」

青年の言葉に、姿を現わしたものがこくりと顎を引く。彼は青年よりも一回り程年嵩に見えるが、 容貌はきょうだいのようによく似通っている。まだ眠そうな彼に、青年は笑みを浮かべコーヒーで 良いかと問う。

「ん……」

鈍い反応はいつものこと。青年が新聞を脇へやってキッチンへ向かうと、彼も同じようについて 来る。カップを取り出しながら、青年はすり寄るように近寄ってきた彼の腰に腕を回した。細い。 別段貧相な体躯をしているわけでもなく、むしろ必要な筋肉はまんべんなくついている彼で あるが、こうして触れてみるとほっそりとしていることがよく判る。初めて彼を抱き締めたときも、 見目との違いに驚いたものだった。

「まだまだ細いな」

いくら食べさせても、彼はなかなか肥らない。せめてもう少し、とは思うのだけれども。

「俺はこれくらいで丁度良い」

ぼそりと呟く彼に、青年は肩を竦めてコーヒーを煎れる作業に戻る。豆の入った瓶の蓋を開け ながら、ちらと彼に視線をやった。くっきりと浮かんだ鎖骨の周辺には、ほんのりと紅い花びらの ようなものがいくつもちりばめられている。無論それは、虫刺されなどではない。蒼白くすらある 膚にその花弁たちはよく映えて、ひどく艶っぽい。
自身のことにはまったく無頓着な彼は、艶な我が身を自覚せずにすり寄ってくるものだから、 たちが悪かった。とはいえ、嫌悪の対象とはならない。むしろ逆なのだが、朝からこちらの情慾を 刺激するというのは感心出来たことではない。

「ダンテ、」

青年は彼の名を呼び、彼の後頭部に手を添えてその白い首筋に顔を埋めた。尖った犬歯を、やわい 皮膚へ押しつける。彼もまた、青年の首に唇を押し当て歯を剥いたのが感触で判る。青年は唇に 笑みを乗せ、彼の膚にぶつりと穴を開けた。喉を潤す彼の緋は、青年を何よりも昂らせる。

「んっ……」

彼の吐息が耳をくすぐるのも、佳い。この甘美にいつまでも寄っていたい――――立ったまま、 今すぐ彼の肉を蹂躙したい。そんな衝動が沸き起こるが、しかし。

「どうせなら、俺も交ぜろ」

低い声音に青年は思い切り眉をしためた。

「……断る。失せろ」

殺意すらこめられた言葉に、突然現われた男はくつくつと笑う。

「朝から盛っているからだ。あぁ、別に咎めているわけではない。若さとはそんなもの だろう」

青年は舌打ちし、今自分が噛んだそこにぞろりと舌を這わせた。短く吐息をもらす彼の腰へ、 男が不意に腕を絡ませる。自分と彼の間を分かつように割り込んだ腕の主を、青年は忌々しく 睨んだ。

「邪魔だと言っている」

「己は棚上げか。成程、若いな」

男は年長者の余裕を見せ、後ろから彼のうなじを長い舌で舐め上げた。

「ッ……」

彼のもらした声なき声に、青年はぴくりと眉を震わせる。気に食わない。判っていたことだが、 やはりこの男は気に食わない。

「どこの誰を喰らったか判らぬような手で、これに触れるな」

「誰しも食事は必要だ。それにこれは、別段厭がってなどおらぬようだがな」

青年がじとりと見やると、彼は目を瞬かせてひそと眉を寄せた。おそらく、青年と男との会話の 内容を、ほとんど理解していないのだろう。鈍い。あまりの鈍さに青年はため息を吐きたくなる が、やめた。これもいまさらのことだ。

「どうかしたか、バージル?」

のんびりした声音に、青年は頭痛すら覚えるがどうにか押し殺す。彼を責めるのは夜が更けてから で良い。そのときには、この男も“食事”に出掛けている筈だ。

「いや……何でもない」

ことりと子どものように首を傾げた彼を、愛しく思う。今はそれが総てであり、他の物ごとは みな、詰まらぬ些事でしかない。
彼がそばにいる。それだけで、この世は総て納まるのだから。





火事から数日後のこと。

街の警察署に連日、失踪届が提出された。それは五日間で十を下らず、夫婦共々消えたというものも あった。
この国における失踪者及び行方不明者の数は減ることを知らない。結局見つかず終いのものは 数知れなかった。治安の善し悪しに拘わらず、失踪届はどこの警察署にとっても珍しいものでは なく、それらの届出もまた、親身になって捜索が展開される気配はなかった。
例えば消えた十数人が、皆件の火事に関わっていたという事実を知るものがいたとすれば、或いは 事件として扱われていたかもしれない。しかし火事のあった晩、屋敷の周辺に住む人々は誰一人と して彼らの姿を見てはいなかったのだ。
妙な騒ぎがあったことは気付いていたし、奇妙に思いもしていた。だが人は誰しも、自身の保身を まず第一に考えるものだ。妙なことに巻き込まれては堪らぬと、窓にはカーテンを引き、何も 聞こえぬふりをして――――朝になって窓の外を見やってみれば、かの幽霊屋敷がただの焼け跡と 化していたというわけだ。

警察署へ提出された失踪届の該当者は、誰一人発見されることなく、ついには捜索を打ち切られる こととなる。





幽霊屋敷は一夜にして消え、後に残されたものはただ、静寂のみ。



















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『燈火』はこれにて終了です。
無理矢理オトした感ありありですが、私の中では無事完結、と思っております。
ともあれ、ここまでお付き合い下さりありがとうござました。
お疲れ様でございました。

[08/06/10]