燈火
気が付けば、男の緋色の目が片方、なくなっていた。何故なのか、自分は知らないと思っていた
のだけれども、そうではなかった。
この目で確かに見ていたことを何故、今まで忘れていたのか、それはまだ、思い出すことが
出来ない。
どこからともなく聴こえてくる声に、ダンテは反射的に頭を押さえた。声、といっても何を言って
いるのかは聞き取れず、誰かがぶつぶつと何ごとか囁いているようなそれだ。これが聴こえてくる
ときは、同時に激しい頭痛を伴う。これがとにかく、いたい。ずくずくと内側を直接殴られた
ような鈍い痛みが、ダンテを容赦なく襲うのだ。
「っ、く、はぁ……」
何も考えずにしばらくじっとしていれば、痛みは自然と小さくなりやがて消えていく。ダンテは
深いため息をこぼし、手入れをせずとも縺れることのない銀糸を掻き上げた。この痛みは、
どうにも苦手だ。どうしようもなく、苦しくていけない。
窓のない室内にあっても、森の静けさは伝わってくる。いかにダンテが苦痛に呻いていようと、
森はいつもと同じくただ静かにそこに在るだけだ。
もう一度ため息を吐くと、分厚い扉が開く音がしてダンテはそちらに視線をやった。確かめず
とも、誰か入って来たかなど判っている。ベオウルフ――――人間を喰わぬダンテに餌を与え
続ける奇特な異形だ。
まるで横暴な養い親と孤児のような関係が、小さくはない変化を見せたのはつい先日のことで
ある。
「また、呻いていたようだな」
聞こえていたのだろう。ダンテは頭を掻き、まぁな、と素っ気なく応じた。目を合わせず、
視線を床に泳がせたのは、ある種の羞恥がさせた無意識の仕種である。
男は手に携えていた硝子杯を小卓に置き、ダンテが所在無げに座っている寝台に、自らも
腰を下ろした。自然な仕種で、彼の前髪を掻き上げ額に手をあてる。
「……熱なんかねぇ、と、思うけど」
ぼそぼそと呟けば、実際に熱はなかったのだろう、男は何も言わずダンテの額から手を外し、
小卓の上の硝子杯を引き寄せた。
「飲んでおけ」
手渡された硝子杯を、ダンテは覗き込んだ。中身は水、なのだろう。昨夜も、その前も、定期的に
飲まされたので味は覚えている。何の変哲もない、ただ水だ。
ダンテは硝子杯にちょっと唇をつけ、水で湿らせた。途端、よほど乾いたいたらしい喉が水分を
求めて急激な飢えに似た感覚をダンテに伝えてくる。喉を鳴らして、ダンテは杯を一気に空けた。
そのさまを、男はじっと観察している。このところ、いつもこうだ。
「はぁ、」
喉が充分に潤い、ため息をもらしたダンテの手から、男が空になった杯をさり気なく取り上げた。
これも、ここ数日ずっとだ。急に自分が小さな子どもになったような気になって、少々むず痒い
ものがある。が、居心地の悪さは感じないというのだから、奇妙といえば奇妙だった。
この男と、こんな穏やかに時間をともにすることがあろうとは、ダンテは夢にも思って
いなかった。
何となく言葉を紡ぐことが出来ず、ダンテは俯いて唇の内側をむにむにと噛んだ。男が
いなければ、こんな妙な気持ちを持て余すことはないのだろうが、ひとりになるのはもっと
嫌だと思っていることも確かなのだ。
(どうか、してる)
まったく、そうとしか思えない。件の痛みの所為で頭がおかしくなってしまったのだろうか。
それは有り得ないことではなかった。男が傍らに在るときは、あの痛みも襲って来ないのだ。
だから苦しんでいるさまを、男に見られたこともない。それは不幸中の幸いと言えぬこともなく、
逆に、男がそばにいれば痛みに苦しまずに済むのだという結論に到るのに、さして時間は
掛からなかった。
おかしいと、我ながら気味悪く思う。
ダンテは見慣れた室内の景色を瞼を閉じることで遮断した。そっと視界に蓋をしたことを、男は
何故かいつも機敏に感じ取り、ダンテの肩を少し強めに抱き寄せて自身に寄り掛からせる。
だから、今日は。
「……明日は、槍でも降るか」
などと揶揄し、くつりと笑った意地の悪い男の、厚みのある肩にダンテは額を押しつけた。
腰に回される腕が何をか思い出させようとしたが、記憶を手繰るよりも、襲ってきた睡魔に身を
明け渡すほうが早かった。
あれから、もう何十年という月日が流れた。
懐古の念に駆られる程、長い長い月日であるとはダンテは思わない。異形の寿命は長く、
ダンテなどはまだ若輩と呼ばれてもおかしくないのだから。
昔を懐かしむことは、しない。ただ思い出しただけだ。思い出すまいとしていた記憶を、総て。
ただ、それだけのこと。
あの日――――風の強い日以来、自分と同じ容貌をした男は二度と屋敷を訪れることはなかった。
酷い怪我を顔面に負って、その後どうしたのかダンテが知る由はない。生き延びたのかどうか
すら、判らなかった。いや、今はもう、生きてはいないだろう。それは間違いない。何故なら
あの男は人間だったのだから。
ため息を吐くと、ほぼ同時に部屋の扉が開いた。ダンテは帳を下ろした寝台に横になっている
ので、音でそのことを認識しただけだが。
間を置かず、帳が外側から持ち上げられた。顔を覗かせたのは、ダンテが唯一糧の源としている
男だ。もっともこれは、ダンテから進んで、というわけではけしてないが。
黒を纏った男は無言で帳を寝台の柱に結び付けておいて、白いシーツに腰を下ろした。ダンテが
目覚めているかどうかの確認など、いちいちしない。呼吸だけで判るのだと、当たり前のことの
ように言っていたのはいつのことだったか。
この数日、男はダンテのそばから離れない。今し方のように、時折部屋から出て行くことは
あっても、長時間いなくなることは皆無だった。何故かなど、知らない。目を離せば、ダンテが
無用の行動を取るとでも思っているのかもしれなかった。
あの男がかつて使っていた部屋の、窓のあちらとこちらで、ダンテが自ら突き放した青年と視線を
交わしたように、“気に入らない”行動を。
下らないと、思う。ダンテの行動範囲などたかが知れているし、何より男には関係がないことだ。
しかしそれを男に言う気にはなれないことも、確かなのだ。
ダンテはもそりと躰を起こし、言葉もなくじっとこちらを見つめている男にじりじりと近寄った。
と、男の逞しい腕が無造作に伸び、彼の肩を抱き寄せる。力強い、腕だ。あの日もそう
だった。
男が初めてダンテを抱いた、あの日。
ひどく曖昧だった記憶を、今は鮮明に思い出すことが出来る。食らい尽くされるように、
犯された。激しい衝撃とともにきつい鉄錆の臭気を思い出すのは、無理に押し入られた箇所が
裂けて流血したからでもあるが、最もたる理由は男の右目だった。
潰れた眼球は異形の治癒力をもってしても快復されることなく、血は半日程も止まらぬまま
だった。その状態で、犯されたのだ。長い行為が終わった後、寝台の敷布は一面、赤錆色に
染まっていた。
それからだ。男が顔を見せるたびに、ダンテの肉を求めるようになったのは。
やはり言葉のないまま強い腕に抱かれ、ダンテは男の分厚い肩に額を押しつけた。ほとんど記憶に
残っていない父の広い肩が、こうしていると思い起こされる。気付いたときにはそばにいなかった
父は、何を考えてダンテをこの世に生み出したのか――――少しは、愛してくれていた
のか――――意味もなく、考える。
生まれてきた意味などあったのか。息をすることに何程の意味があるのか。――――死は、
どのくらい自分の近くに来ただろうか。
不毛なことばかり、考えてしまう。最近、とみにそうだ。ダンテは眉根を寄せて、男の肩に額を
擦りつけた。この男ならば、何かしらの答えを持っているかもしれない。
或いは、あの青年ならば――――
「無意味なことを、愚図愚図と考えるのは止せ」
思考を読んだかのように、男が低く言った。肩に回されていた手が、頭に移動し髪をくしゃりと
掻いた。まるで子ども扱いをされているようで、ダンテは思わず苦笑する。いや、この男は
いつも、何年経ってもダンテを子どもだと思っている節がある。ダンテの機嫌を逆撫でして
遊ぶのが趣味のようであるくせに、こうして、むずがる子どもを宥めるようにダンテの髪に
触れる。まったく、わけが判らない。
最も判らないのは、そうされて嫌な気分ではない自分自身だが。
「あんたは……おかしな奴だな」
判りきっていることを、わざわざ口にしてしまう自身が、よほどおかしい。男はダンテの内心を
読んだのか、くつりと笑ってダンテのうなじを指先で辿った。
「お互い様、という奴だろう」
違いない、とダンテは力なく笑った。我ながら、乾いた笑いだ。笑うことなど久しくして
いなかっただけに、頬の筋肉が引きつっているのだろうか。そうに違いない。
そういえば、あの男とともにいた短い期間にも、自分はほとんど笑ったことがなかったように
思う。今とは比べものにならぬ程感情豊かだったにもかかわらず、だ。男との関係は、今思えば
危うい綱渡りのようなものだったとはいえ。
あの時に戻りたいと、思うことも、ある。
頭の隅が、ずきりと痛んだ。
「下らぬことを考えるなと、今言ったばかりだと思うが、な」
顎を掴まれ、上向かされる。痛いくらいに力が強くて、しかしダンテは僅かに眉をしかめた
程度だった。少々の痛みなど、どうということはない。
男の隻眼をじつと見据えていると、不意に唇を男のそれで塞がれた。首がのけ反るが、顎を
掴まれている為逃れるところまではいかぬ。深く舌を差し込まれ、吸われ、ダンテは反射的に
背中を震わせた。
歳を食っても、快楽に弱いところだけは変わらない。男が唇を合わせたまま、口端を吊り上げた。
嘲るようなその笑みは、もう見慣れている。
「……っ、ふ……、……」
角度を変える瞬間、唇が僅かに離れる合間に吐息がこぼれ出る。自分でも嫌になるくらい、
甘い吐息だ。
躰がぐらりと傾いて、気付けば男が上から覆いかぶさっていた。また抱かれるのかと、霞がかった
頭でぼんやりと思う。抵抗する理由など、ない。流されるまま、脚を開くだけだ。
(詰まらない)
ダンテの世界は狭く、それ故か否かは判らぬが、総てが詰まらないものとしか思えない。昔の
記憶を取り戻したからといって、彼にはどうすることも出来ないし、また、何をかするつもりも
ない。その必要も、ないのだ。
ベオウルフの牙が膚の上を滑る。痕を刻むのが趣味なのは、相変わらずだ。何が愉しいのか、
ダンテにはさっぱり理解出来ないのも、相変わらずのこと。
(……あぁ、)
先日、ダンテが自らを陽に差し出し爛れた箇所を、男は執拗に辿っているのだと気付いて、
けれども。
ダンテの唇はもはや、吐息すら紡ぎ出すことはなかった。
頭が痛いと、他人事のように、思う。
頭の中で声がする。繰り返し、繰り返し、声が響く。しかし同時に襲う酷い頭痛の所為で、
何を言っているのかは判然としない。
かつて日に何度も襲っていたその痛みは、ある日を境に消えた筈だった。呪詛のような声も、
聞こえなくなっていたというのに。
何故またこの身に舞い戻って来たのか、理由など判るわけもなく。
寝台の上での生活は慣れたもので、一日に敷布から離れている時間のほうが短いという彼だ。
が、それは独りでのことであり、こんなにも毎日、自分以外の体温が同じ寝台にあるという
ことには慣れていなかった。
初めてのことでは、ない。彼は仰向けになり、先に目覚めていたらしく、躰を起こしどこか一点を
見つめている異形の横顔を見上げた。くっきりとした精悍な顎の線を目で辿っていると、不意に
腹に手が乗せられた。起きたか、と息で問う声に、無言を返す。返事がないことに、男が気分を
害したふうはなく、血のように紅い隻眼はじっとどこかに据えられたままだ。
何が、そこにあるのか。
男の横顔には、怒りに似た別の何かが浮かんでいるように思えたが、それが何であるのか彼には
判らない。
腹に置かれた手が(これだけでもそこそこに重い)、するすりとそこを撫ぜる。無意識にしている
のか、どうか。撫でる仕種に性的な意図は感じられないから、無意識なのに違いない。男が自分に
触れてくるときは決まってその先に性的な行為が控えており、こうして犬か猫の毛並みでも
撫ぜるようにされると、かえって落ち着かないものだ。
(だが、……悪くはない)
こんなことも、たまにはあって良いかもしれない。ダンテは馬鹿なことをぽつりと思って、
軽く瞼を閉じた。男とは躰の付き合いばかりが長く、穏やかな時間を共有したことなど一度も
なかったのだ。もっとも、この性格の悪い異形と穏やかに共同生活を送るなど、想像も出来ない
が。
それならば、あの青年とのほうがずっと穏やかに過ごせるだろうと、思う。深い理由はこれと
いってなく、青年をもう一度この部屋へ入れることもないだろうから、試す機会などないの
だけれども。自ら突き離しておいて、こうして折に触れては思い出すなど、矛盾している。
きっとあれがいけなかったのに違いない。
件の空き部屋――――窓のあちらとこちらで、視線が絡んだ、あの。
(……バージル……)
内心で呟く声は嫌になる程切なげで。ダンテは意識を、腹を撫ぜる手の重みに集中させた。
こんな誤魔化しに使われたと知れば、男は怒るだろうか。詮無いことを、ふと考えて自己嫌悪に
陥った。
男は変わらず、ただ一点を睨み続けている。
あの紅い隻眼には何が映っているのか。醜く潰れた右目には、いったい何を映していたのか。
どんなにか歳を重ねても、この奇妙な異形の内心を窺うことは、出来そうもない。
とはいえ、
そう永く生きるつもりは、別段していないのだけれども。
頭が、痛い。
痛みの合間に響く声は、隻眼の異形のそれと似ていると、漠然と思った。
そろそろシメにかかりたいなぁ、と。
[08/5/20]