燈火トモシビ









夜更けに件の屋敷を見上げることが、日課になりつつある。

日中は自宅で古い書物を読み耽り、陽がとっぷりと暮れると自然、脚がかの屋敷へと向くので ある。
幽霊屋敷とあだ名された館は、その名の通り異様なまでの静寂を湛えてうっそりと佇んでいる。 が、そこに棲むものを知っているバージルにとってみれば、その静けさに何の薄気味悪さも感じる ことはない。むしろ物音一つせぬのが当たり前だとすら思えるのだ。
彼は、騒々しい事柄とは無縁である。陽のあるうちは眠って過ごし、陽が沈めば目を覚ます ものの、およそ行動的とは言えぬ彼のこと、天蓋付きの寝台から抜け出すことすらめったに しないのだから。

生きているものの気配が感じられない、幽霊屋敷――――彼は確かに、生きてはいないのかも しれなかった。狭義の意味では、であるが。

嗅ぎ回るなと、あの黒を纏った男は言った。忠告、だったのだろうが、バージルは意にも留めず 彼のことを調べ続けている。そして夜更けには彼の屋敷を訪れ、見上げるのだ。窓のない、二階の 角部屋を。
何か目的があってのことではない。彼の屋敷を見上げるという行動に関しては、まるで無意味と 言うしかなかった。バージルの何より厭う言葉だ。

不思議なものだと思う。

無意味を一番に嫌っている筈の自分が、こうして夜毎無意味な行動を繰り返している。 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、やはり夜になれば脚が屋敷へ向かってしまうのだ。

自然、睡眠時間は減った。しかし気にする程のことではない。お蔭で昨夜は、収穫があった。

二階の、そこにだけカーテンが引かれていない窓。彼の部屋からいくらも離れていないその 部屋の、こちらとあちらで、彼と視線が絡んだ。
彼はひどく驚いた顔をしていた。そんな表情を、自分の目で見るのは初めてだった。

例の夢を、バージルはまだ見続けている。相変わらず奇妙な夢だが、ただ奇妙だとばかり思わなく なっていた。実際にあったことを回想のように視ているのではないかと、バージルは思っている。 確信はない。しかしただの思い込みではないという確信は、昨夜持った。
あの部屋は、夢の中で自分が使っていた部屋なのだ。彼が眠っている昼の間に、自分もあの部屋で 眠っていた。寝台は使わず、窓際の床に座って。夜になると喉の渇きで目が覚める。同時に軽い 飢えを感じ、時を同じくして目覚めているだろう彼の元へ行く。そして彼の首筋に唇を押し 当て――――

まるで現実のことであるかのように、彼の血を啜ることはいかにも甘美だった。甘く濃い血の 味が、目覚めてもまだ喉に残っているようなのだ。現実と混同せずにいるには、その感覚は あまりにも生々しくありすぎた。
夢の中で、実際に(という表現も正確とは言えぬが)彼の膚に犬歯を突き立てていた男は、 当然だがバージルではない。顔も名も知らぬ男の記憶であろうものを、何故自分が視ているのか。 男と自分と、何かしら関係があるのだろうか。
繰り返される自問は、しかし答えを導くきっかけもない。判っていることは、彼に触れては幾度も 血を啜る男に、ひどくどす黒い感情を抱いているということ。何故自分はこの男のように彼に 触れることが出来ないのかと、思う。

やはり自分は、彼を抱きたいのだろうか。白い肢体を組み敷き、我がものにしたいと願っている のだろうか。
そうではないと思おうとしていたのは、そう以前のことではない。が、バージルは今、確かに 彼の最奥を己のもので貫きたいと思っている。しなやかな彼の躰を、思うさま揺さぶり貪りたいと ――――はっきりとした自覚が、ある。

心境の変化は、毎日夢を見続けている所為だとバージルは判っている。たかが夢に振り回される など滑稽も良いところだが、バージルは夢の中の男に並々ならぬ劣等感を覚えるのだ。男に血を 啜られているときの彼は、バージルが見たこともない表情をし、聞いたこともない吐息を漏らす。 彼をそうさせているのは自分ではない。夢を視るたびに、当てつけられているように感じて ならないのだ。

自分なら、もっと……

そう考えるようになるまでに、さして時間はかからなかった。
寝ても覚めても、バージルの頭の中は彼のことで埋め尽くされている。彼に近付くにはどうすれば 良いか。まずは、そこからだ。

バージルが自宅に戻るのは、夜明けも近い刻限になってからのこと。一晩中、彼の屋敷を見上げて いるのだから、我ながら神経を疑わねばならない。が、自嘲をするだけで、やめるつもりは さらさらなかった。

自宅に戻ると、まず風呂に入る。冷えた躰を適当に暖めて、寝台に横たわり二時間程度、眠る。 目覚時計がなくとも、長くても三時間も経過すれば自然と目が開くのだ。そして濃いめの コーヒーを淹れ、机に向かう。机の上には広げたままの書物が重なり合い、山を作っている。 ものを散らかすことのないバージルの部屋において、それはひどく珍しい光景である。
大学は、しばらく行っていない。元より意義を感じることのなかった場所だ。いちおう卒業だけは する気でいるし、図書館も使いたいので退学をしようとまでは思っていないが。

シャワーの栓を捻ると、熱い湯が降り注いでくる。頭から湯をかぶり、濡れた髪を後ろへ撫で 付ける。バージルが前髪を垂らしたままにすることはまずなく、ぱらぱらとほつれて数本程度が 額にかかることすら厭っている程だ。それに対して、彼の髪はいつ見ても整髪されたふうが なかった。
伸ばしっ放しなのだろう髪は、しかし傷んでいる様子はなかったというのだから奇跡に近い。 何故だったのか考えて、バージルは顔をしかめた。
黒を纏った男が、彼の髪を梳いてやっている光景を想像してしまったのだ。

夢の中の男も、あの黒い男も、忌々しいことこの上ない。彼に触れて良いのは自分だけだ。
バージルは鼻を鳴らし、馬鹿な想像を掻き消した。

シャワーを止め、おざなりに雫を拭って開襟シャツと黒のパンツを身に纏う。髪はやはり、 後ろに撫で付ける。
寝室に入って寝台に腰を下ろすと、いつもより眠気が強いことに今更のように気付く。きちんと シーツに横たわることすらもどかしく、バージルは座った恰好のまま横になり、数秒足らずで 寝入ってしまった。



また夢を視るのだろう。

果たして予想は裏切られることはなく――――







暗い森を、駈ける。鬱蒼と茂った下生えを踏み抜き、迫り出した枝を折りつつ、立ち止まること なく森を駈ける。
どこを目指しているのかは、判らない。ただ駈け続ける男は、判っているのだろうか。それとも 闇雲に駈けているのか、判然としない。

樹々の合間からは、弱々しい光が射している。夜ではないことだけは確かだった。
森はどこまでも続いているような錯覚に陥る程、深い。青々とした緑は途切れるふうもなく、 やはりどこまでも続いているように見える。

しばらく駈けると、不意に男は脚を止めた。唐突、という表現が相応しいだろう。ぴたりと脚を 止めたそこは、別段何か目印があるわけでもなく、今までと変わらぬ景色の一部でしかない。
男は後ろを振り向き、何かを待っているようだった。何かが追って来るのか、それとも意味のない 行動なのか。
間もなく、答えは前者であると明らかになる。

初めに聞こえたのは、獣の咆哮だった。しかし尋常の獣ではないことは、姿を見るまでもなく 判った。狼や野犬の類の出す鳴き声では、間違ってもない。
それは、高い樹々をもゆうに凌ぐ異様な巨躯を誇っていた。

黒に灰が混じった斑な色目を持った躰。太い四肢には猛禽を思わせる鉤爪が生え揃い、大猿に 似た顔に嵌まった両眼は血のような毒々しい赤だ。容貌はひどく醜い。醜悪と言って良いだろう。 開いた口から覗くぎざぎざの歯や吐き出される息までも、その醜さに輪をかけているように 思われた。
異形は足元の樹を踏み付けて追って来たのだろうか。そのわりに、樹々が薙ぎ倒される音を 聞かなかったように思う。まぁ、それは大した問題ではないのだが。

男は異形を見上げる。異形は男を見下ろし、睨み合う。二つの視線には憎悪と殺意しかなく、 穏やかな雰囲気などとは縁もなかった。

「もっと早く殺しておくべきだったものを……」

忌々しげに吐く異形の声は、吹き荒れる嵐のように嗄れている。

「俺が貴様に殺されてやるとでも?」

無表情に返した男の言葉には、暗に貴様に自分は殺せないと含まれている。異形は歯を剥き出しに して吼えた。

「ほざけ。その口、二度と利けぬよう八つ裂きにしてくれる」

異形が太い幹のような腕を振り下ろした。男は左手に携えていた細身の剣を鞘のまま掲げるように して、異形の拳を受け止めた。衝撃で、地を踏み締めた踵が数寸、後ろへ下がる。肉体的にほぼ 人間と変わりのない男が、涼しい顔をして異形の一撃を止めるなど、およそ有り得ることでは ない。無論、それにはたねがあった。

「貴様、やはり」

異形が口許を歪める。口振りからして、予測はしていたのに違いなかった。が、今更確信を得た ところで、もう遅い。

「温いな。俺が何の為にあれを捜していたのか、気付かぬとは」

異形が憎々しげに舌打ちをした。

「放置したことは俺の手抜かり……が、如何に貴様が力を得ていようとも、此処で死ぬことに 変わりはない」

紅い双眸が、燃えるように揺らめくのを男は見た。憎悪と殺意。そして小さくはない嫉妬が 宿っていることを、男は正確に読み取った。

異形の腕が、男を掴むべく伸ばされる。黙って捕まってやるような男では、無論ない。後ろに 素早く飛びすさり、地面を踏むと同時に空を掴んだ異形の腕を飛び越えるように、跳躍する。 剣を腰だめに構え、抜く。蒼白い一閃が異形の眼前に迫り、しかしその醜悪な顔を斬り裂くことは なかった。もう一方の腕が防いだのだ。
どれ程強靱な肉体をしているのか、手応えはあったというのに、異形の腕からは血も流れて いない。異形が嗤い、手首をひょいと振って見せた。

「軽いな」

地に降り立った男は、くっと目を眇めた。

「その余裕、いつまで保っていられるか……」

言いざま、男は腰を落として剣の柄に手を乗せた。男の使う剣術は基本、刀身を鞘に納めたままに 保ち、斬り付ける瞬間のみ抜刀するというものだ。鞘から剣を抜き易くする為、刀身に緩い曲線を 持たせてあるのが特徴である。
異形が何かを感じ取ったように素早く身を後ろへ引いた。刹那、中空に幾筋も蒼白い裂け目が 走り、空を斬り裂く。ただの抜刀では繰り出すことの出来ぬ、異様な技だ。男が人外の力を手に 入れたことを示す、明らかな証であった。

「愚かな……ひとであることを自ら棄てたか」

吐き捨てる異形へ、男は薄く笑んでみせる。

「下らぬな」

こちらも吐き捨て、男は剣を目の高さへ掲げた。

「この世は力こそが総てだ。力なき人間ものに未練などない」

男には断固たる意志がある。それを貫く為に払う犠牲も代価も、男にとっては皆安いもので しかないのだ。
実の弟の命すらも、己が為に踏み付けて然るべき――――そう、思っていたのだけれども。

嗄れた声が、低く頭上から降り注ぐ。

「力の為に、あれを喰い殺すか」

「……これ以上、貴様と詰まらぬ問答をする気はない」

これは殺し合いなのだ。言葉は元より不要に違いなく、どちらかが死なぬ限り退くことは 出来ない。
男は剣の柄を握る。巨躯の異形は目を細め、鼻を鳴らした。

「小賢しい真似をする……あれとは似ても似つかぬな」

異形が空に向かって呻きのような咆哮を上げた。瞬間、異形の背から純白の翼が一対生え揃った。 醜い容貌にはおよそ似つかわしくない、美しい翼だ。男は眉を顰めた。
翼がぴんと空を突くように真直ぐに張る。かと思うと、翼から拳大の白い塊が幾つも放たれ、 こちらを目掛けて降り注いでくる。その一つ一つが一枚の羽根であることに、男は弾丸のような それを躱しながら気が付いた。

疾い。

舌打ちをしながら、一枚を剣の鞘で弾く。羽根の雨が途切れると、異形が拳を振り下ろしてきた。 鈍重に見える姿からは想像も出来ぬ俊敏な攻撃である。
男はそれらの総てを紙一重で躱し、反撃の機を窺った。数で対抗するつもりはない。一撃。 相手の命を奪う為の一撃だけを、男は狙い澄ましている。異形は一つの動作こそ俊敏だが、 巨躯の為に振りが大きく、それに比例して隙も生まれ易い。体躯に数倍もの差があるのだから、 動きを見定め、急所を突くしかない。
疲れを知らぬのか、異形の繰り出す打撃は緩むふうもない。対してこちらは最小限の動きで避け 続けてはいるが、やはり限度というものはある。人外の力を得たとはいえ、使い慣れぬ力には 違いない。

(そろそろか……)

内心で呟き、柄にかけた手に力を込める。抜くか――――左の親指で鍔を弾こうとしたとき、

「やめろッ!!」

ここにあるべきではない声に、男と異形は同時に目を見開いた。闘いに集中しすぎていたの だろうか。近付いてくる気配などまるで感じなかった。

「貴様、何故……!」

異形の気が、反れた。男も驚愕したことは確かだが、その隙を見逃してやる程お人好しでは ない。
跳躍し、異形の肩を蹴って剣を抜く。狙うは、一点。

異形の雄叫びが谺した。左目を押さえた指の間から、鮮やかな血が噴き出している。

「ベオウルフ!」

彼が異形の名を叫んだ。まるで自分が傷を負ったかのような悲鳴だ。こんな異形の為に、何故 そんな声を上げるのか、男の腹の中に黒いものが渦巻くが、それを自覚する猶予はなかった。

「くッ……おのれ……っ!」

異形が腕を振り回し、鉤爪が男の眼前に迫った。咄嗟に剣で防ぎ、鉤爪の軌道を逸らすが、 男もまた無事では済まされなかった。

「ぐぅ……ッ!」

顔が焼き鏝を押し当てられたかのように熱い。鉤爪に引き裂かれたのだと認識するよりも、彼の 絶叫が谺するのが先だった。

「ッ……ギルバぁあっ!!」

そう、その声だと、男――――ギルバは思った。彼の声音が呼ばわる己の名は、他の誰が呼ばわる どれとも違った響きがある。
血にまみれた口許を笑みの形に歪めながら、ギルバは身を翻して再び森の中へ飛び込んだ。 彼がしきりに名を叫んでいるのが聞こえるが、振り返ることはしない。

斬り裂かれた額や頬よりも、もう二度と彼の――――双子の弟の声を聞くことはないだろうと いう確信に、胸のどこかが、軋むような痛みを訴えてならなかった。



















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戻。



戦闘の描写は軽くスルーでお願いします。

[08/4/12]