燈火トモシビ









日がとっぷりと暮れ、闇が総てをその胎内に飲み込むように満ちてから、ダンテはベッドを 抜け出し部屋の外へ出た。気付かれるだろうと思っていたが、意外な程すんなりと抜け出せた ことに幾分拍子抜けしてしまう。
期待をしていたわけでは、ない。そう自分に対して言い訳していることを、彼は自覚して いない。

男は、あれからダンテを離さなかった。

自らを陽に焼こうとしたダンテを、男は二度と同じことはさせぬというようにきつく抱き締め、 暗闇が満ちた部屋へ連れ戻した。無駄な言葉はなく、ベッドに組み敷く間も惜しいとばかりに 立ったまま、火傷のような水脹れの残ったダンテの膚を愛撫し、肉に押し入った。
その合間に、男はダンテに餌を与えた。口腔に染み渡る血のみが、いつものように甘く ダンテの喉を潤した。

日付は変わっているのだろう。しんと張り詰めるような静けさが膚を撫ぜる。

男の寝姿など、見たことがなかった。いつもダンテのほうが寝落ちるか気を失うかして、次に 目覚めたときには男は既に消えているのだ。ともに目覚めたことがないわけではないが、少なく とも今のようにダンテだけが起き出すことは一度もなかった。
何がしたいのか、ダンテにも判らない。別の部屋に何か用事があるわけでもなく、かといって すぐさま自室に戻ることはせず。ぼんやりと、足が向くままに任せてみる。

ふと、廊下の半ば程まで来て足が止まった。左右にはドアがある。ダンテは迷いなく右のドアに 向かい合った。ドアノブを握り、軽く回すと簡単に扉が開いた。
屋敷はダンテの寝室を除く総てが空き部屋になっている。そもそもダンテは寝室以外の部屋を 使わないのだから、当然のことではあるが。この部屋も他に漏れず空き部屋であり、古いベッドと 脇机、それに椅子が一脚あるばかりだ。窓にはこれもまた古びた厚手のカーテンが掛かっている が、今は開け放たれている。北向きに面した窓だ、カーテンが必要になることはめったにないのは 確かだ。しかし他の部屋の窓は皆、古いなりにもきちんとカーテンで覆われている。例外はこの 部屋だけだった。
カーテンを開けるのは当然ダンテだ。いつもは部屋を出る際にカーテンも閉めておくのだが、 前回は忘れていたらしい。
そう、いつも、だ。

ダンテは時折、ふとしたときにこの客間へ足を踏み入れる。目的などない。窓から外を眺めたり、 ベッドに寝転んだり、床に座ってみたり――――小一時間程ぼんやりと過ごし、寝室へ戻る。 意味などあるわけがなかった。が、この部屋へ来ることをダンテがやめるわけでもなく、 気付けば一時間は軽く経っているのだった。

床には埃が溜まっているが、ダンテはいつも頓着せず腰を下ろしている。同じ場所に座る所為 だろう、そこだけには埃の積もり方が幾分少ないようだ。
己を含む総てのものに無頓着なダンテは、埃の舞う部屋を突っ切り、真直ぐに窓辺へ寄った。 黴臭さこそしないものの、埃っぽい臭いはあまり良いものではない。以前は、違ったにおいが していたのだが、いつからかそれもなくなって、ただ何もない部屋に成り果ててしまって いた。

鼻を無意識にひくつかせるのも、いつものことだ。そして埃以外の何のにおいもしないことに、 自覚もないため息がもれることも。

窓に嵌まった硝子は、一度も拭ったことがない為に随分と曇っている。ダンテはやはり頓着せず、 窓硝子へ顔を近付けた。こちらは屋敷の裏手になる。こんな夜更けに路地を歩いているものは 当然なく、眺めるといっても何があるわけでもない。いつもは、そうなのだ。が、今日は 違った。

はっと、ダンテは珍しくも息を飲んだ。僅かに瞠った双眸には、思いもかけぬひとの 姿が――――

「……、……」

声は掠れきっていて、言葉として紡がれることはなかった。それは、ある人物の名であった。 今ダンテがその双眸に映している青年の名では、ない。似ているのだ。ひどく。暗がりに佇む 青年は、ダンテを驚かせるに充分な程、あの男に似ている。

ダンテと同じ銀色の髪と蒼い双眸を持つ青年が、視線を上げた。かちりと目が合って、ダンテは 思わず後退りそうになったが、脚が強張ったように動かない。見つめ合うより他に、ダンテに 出来ることはなかった。
青年の双眸から放たれる視線は、強い。いっそ苛烈と言って差し支えなかった。怒りを含んでさえ いるようで、ダンテは息苦しさを覚えて眉を寄せた。憶えのある眼だと、思った。ずっと前に、 同じかよく似た双眸を見たことがあった。忘れてなどいない。あれは……

「……バージル、……」

心の中では、先刻の名を紡いでいた。







髪を柔らかく梳く感触に、沈んでいた意識が浮上するのを自覚した。しかし瞼は開けない。 じっと瞑ったまま、髪に触れる指先を感じている。
ダンテの髪を梳く人物は、彼が目を覚ましていることに気付いているのだろう。が、彼が目を 開けない限り、指が髪を繰るのをやめることはない。昨日もそうだった。そしてその前は、 ダンテが目を開けてしまったので指も同時に離れていった。
この男がダンテの髪に触れたのは、そのときが初めだった。

男は彼にとって唯一の捕食者である。ひとの血を糧とするダンテの血を、男は食らう。他に食事を しているところは見たことがなかった。といっても、ダンテは日中に寝室を出ることがなく、 その間男が何をしているのかなど知りようもない。ダンテの寝室に程近い一室を使っている らしいことは知っているが、それだけだった。

夜になれば、男は彼の寝室を訪れる。その際彼がまだ眠っていると、男はダンテを無理に起こす ことはせず、ゆったりとダンテの髪を撫ぜるのだ。
ダンテには自覚もないが、簡単な手入れすらしていないというのに彼の髪は絹のように手触りが 良く、艶やかだ。これが金髪ならば蜂蜜のようなと表現出来るところだが、彼の髪は白に近い 銀色である。珍らかな銀は男の興味をそそったか(男のそれも銀なのだが、こちらは青みがかって いる)、ダンテの髪を梳く手つきはいかにも優しく、男には似つかわしくないものだった。

男は彼の血を食らう。

ダンテとは違いほとんど人間と変わらぬと言うだけあって、男の犬歯は皮膚を食い破るには鈍く ありすぎる。膚を押し潰すように肉に食い込んでくるそれは、否応なくダンテに苦痛を与えた。 同時に血を啜られる感覚には言いようのない快楽が混じっており、奇妙な落差がダンテから男を 拒むということを奪っていた。

男が館を訪れて、まだ五日だ。ダンテには日にちの感覚などないも同然だから、正確ではないかも しれない。けれども、まだたった数日しか経っていないことは確かだった。

この短い時間で、ダンテは男がひどく横暴な性格であることを理解していた。

まずもって、ダンテの意思は無視される。話を全く聞かないということはないが、男がこうと 思えばダンテが何を言おうと覆すことをしない。己がこの世でもっとも正しいのだと、疑問も なく思っているのに違いなかった。だから、ダンテの意思など何程のこともないのである。
横暴で、言うなれば生まれついて王者然とした性格の持ち主。そんな男が、眠るダンテの髪を 梳くときだけはひどく優しくなるのだと、誰が想像出来るだろうか。
少なくとも、ダンテは初めて男が髪に触れたとき、ひどく戸惑った。飛び起きるように躰を 起こしたダンテが見たものは、男の憮然とした顔だった。何のつもりかと問おうとした口が 紡いだのは、おはよう、などという意味のない挨拶(何故知っていたのかも判らない)で、 男は挨拶代わりかのように彼を引き寄せ首筋に犬歯を突き立てた。

学んだ、と言えばそうなるかもしれない。次から、彼は男が自分の髪に触れているときは黙って 寝たふりをすることにした。起き抜けに血を啜られることを厭ったわけでは、ない。
男の指は、思いも掛けぬ程に心地好かった。

喰わせるな、と。釘を刺されたことは忘れてはいない。しかし実際には、彼はその言葉を無視して 男に身を預けている。やめろと言われてそう出来る程、男は彼の意思を慮る人間ではなかった。 善し悪しなど確かめることなく、ダンテを食らう。拒んだところで効果がないことは判りきって いた。
諦観、といえば聞こえは良いかもしれぬ。本当のところは、ダンテが抗うことをしないという 箇所にある。男が云々とは体のいい言い訳に過ぎなかった。

あの男の餌で居続ければ命を危うくする。そう言った男は、ダンテにいつもより多量の血を 与えた。そんなことをしては、今度は男自身を危うくするのではないかとダンテは困惑したが、 男は彼の躊躇を赦さなかった。喰え、と。有無を言わせずダンテの頭を自身の首筋に押しつけた。 飢えていたことを自覚したダンテが血の誘いに抗う術はなく、腹が存分に満たされるまで男の 首に齧り付いていた。
唯一、ダンテに糧を与えている男は、ダンテが充足し唇を離した後、意味があるとは思えない 戯れを仕掛けることがある。曰く、血と交換、だそうだ。何をするかと言えば、ダンテの膚に 噛み付くのである。それも、ひとつではない。獣のそれのように鋭い牙が、ダンテの膚を好きに 咬み、咬んだそこを舌でなぞるのだ。
単調で、意味のない戯れだとダンテは思う。生来性的なことに淡白に出来ているダンテは、それが 性交渉に伴う愛撫であることも、所有を現わす痕に酷似していることも知らなかった。男女の ことをまるで知らぬわけではないのだが、他者と比べれば無知と言っても良い程である。

その戯れの痕を、今ダンテの髪を撫ぜ続けている男が揶揄した。先日のことだ。

男はダンテが男色を知っている筈だと言い、彼の躰を拓かせた。ダンテにすれば判らぬことで しかなく、しかし違うと言っても男は聞く耳を持たなかった。戸惑う間に抗うことの出来ぬ快楽が ダンテの思考を塗り潰し、次いで激しい痛みが襲った。
男は紛れもなくダンテの初開の男になったのだが、本人はそのことを知らぬのだから仕様のない 話である。

ダンテは男に、文字通り征服されたのだ。

捕食者が征服者になることは容易い。獲物を食らい尽くせば良いだけのことだ。が、ダンテは 生きながらに征服され、しかもそのことを不快と思ってはいなかった。自覚がないのだ。だから、 快か不快かというところへ思考が及ばない。

髪を梳く指が、ふと止まった。飽いたのか、どうか。ダンテには判らない。
男はダンテの頬を指の背で撫で、それから、

(…………?)

ダンテは内心で首を傾げた。指ではないものが頬に触れた気がしたのだが、それが何だったのかが 判らない。ダンテの疑問を増長させるように、その何かがこめかみや額にも触れていく。何度も 触れては離れを繰り返すのだが、やはり判らなかった。ただ、男がひどく近くにいることだけは、 判る。

(何してるんだか……)

不思議ではあれ、居心地は悪くない。むしろ髪を梳かれるよりも心地好いとすら思えるから、 奇妙だ。

(……もっと……)

して欲しい。何をされているかも判っていないというのに、ダンテは強く思った。こんなにも 穏やかで快い時間が、すぐにも終わってしまうなど惜しいではないか。出来るならばずっと、 続いて欲しい。
しかし現実とは個人の思惑など考慮するものではなく、いっそ残酷ですらあるものだ。

ダンテの願いを打ち破り、奪い去ったのは、ダンテに餌を与え保護しているとも言える 男だった。



















前?
次?
戻。



そろそろオチへ向かおうかな…

[08/3/22]