燈火
ひとの姿をしていながら、ひととは違う血が流れている我が身を、幸いだと思ったことなど一度も
なかった。呪わしい己の血を恨み、憎み、何度死を望んだか知れない。だが、死ねなかった。
ほとんど他のひとと変わりない肉体を持ちながら、異形の血が死を遠いものにしているのだ。
我が身を厭わずにおれる理由など、なかった。
望む望まぬに関わらず、異形と契り、子を成すものは時折現われる。男もそうして生まれた
子どもだった。母は人間、父が異形という異種間に生まれた子は忌み嫌われる。有り難みなど
あろう筈もない慣習を、男は嫌という程味わわされた。
母もまた、異形なぞと交わったことで周囲からひどく非難されていた。優しく美しかった母は、
しかし人々に責められても涙の一つも流さぬ強い女だった。彼女は男の父――――異形を愛して
いたのだ。だから契りを結び、子を産んだ。
母は男を真綿で包むように大事に育ててくれた。それだけを思い返せば、男は確かに仕合わせで
あったのだろう。異形の父とは言葉を交わしたことはおろか、顔を見たことすらなかったけれど、
母の愛情は確かなものだったのだから。
しかし。
いかに母に愛されていようと、子が優しく育つとは限らない。
奇妙に歪んでしまった心を、真直ぐに正す方法などなかった。
喉の渇きを覚えて、男は目を覚ました。夢を見ていたのか、頭が重い。どうせ、幼い頃の夢でも
繰り返していたのだろう。内容などいちいち覚えていないが、そんな夢を見たあとは決まって
痺れのような頭痛が尾を引いている。
男は腰を上げ、首を回した。こきりと小気味良い音がする。椅子に腰掛け腕組みをした恰好で
眠っていたのだから、肩や首が凝るのは当然のことだろう。
昨晩――――いや、二日前くらいから、どうにも喉の渇きが治まらない。寝て覚めれば消えて
いるだろうと踏んだのだが、そうはいかなかったようだ。空腹はさほど感じないというのに、
何故喉ばかりが渇くのか。
慾というものに生来希薄に出来ている男は、食慾ですら時に無視してしまえる程度のものだ。
まず慾を覚えることが希薄な男が、今は堪え難い程の涸渇を持て余しているとは、何とも奇妙な
ことだった。
原因が判らぬわけではない。喉の渇きがはっきりと表われたのは昨日のことだが、その少し前から
兆候はあった。まだ新しい記憶を手繰れば、原因を突き止めるのに時間は掛からない。
彼、だ。
自分とよく似た姿形をした青年――――似ているのは当たり前のことなのだが、彼は本当に何も
知らぬ――――の血の甘さを思い出せば、渇きがいっそう強まったようだ。
男は口端に笑みを浮かべ、額に落ちた前髪を掻き上げた。そうすると父と瓜二つなのだと
いうことは、既にこの世を去った母のみが知ることだった。
彼は日中の総てを眠りに費やしている。窓を総て塗り込めた寝室は物音一つ、それこそ彼の
気配すら感じられない。生ける屍。何かの文献に、そう記されていた。真偽の程は判らない。
少なくとも彼には半分程しか当て嵌まらないのだから、紙の上の文字を頼ることなどしない。
間違っても光が入り込まないようにか、重厚な造りの寝室の扉を開ければそこには鈍重な闇が
どっしりと横たわっている。この四日程で既に慣れた暗闇に、男は眉一つ動かすことなく後ろ手に
扉を閉めた。
一切の光のない寝室。足音は毛足の長い絨毯に吸われる為、床を蹴る音すらしない。その中を
男が迷いなく、寝台脇の小卓まで歩み寄ることが出来るのは、男もまたひととは違う血が流れて
いるからだ。
彼のように、夜にしか生きられぬというわけではないが、男は確かに尋常とは異なる
存在なのである。
程度の差が何程のことだろう。そう、男は思う。
寝台には天蓋から吊るされた分厚い帳が下りている。男が近付いても彼は起きたふうもなく、
ただ静寂が部屋を満たす。男はそっと帳を払い、彼の眠る寝台の内へと身を滑り込ませた。
彼はまだ、目覚めない。
陽のあるうちに起きることはまずないのだろうが、男の気配にすらまるで反応もしないとは
どうしたことか。男とて殺気を纏っているわけではないのだ、襲われる心配がないからといえば
頷けなくもないが、それにしては不用心にすぎる。命を狙うものが皆、判りやすく殺気を纏って
いるとは限らぬのだから。
彼の身の心配など、してやる義理は男にはない。しかし何故かは判らないが、いちいち気に
掛かるのは確かなことだった。彼に遭ったのはたかが三日前のことでしかなく、男にとって彼は、
己の血肉となるべき存在に過ぎないのだ。
闇に包まれた寝台に腰掛けると、ぎしりと寝台の脚が軋んだ。静寂の中にあっては小さな物音すら
ひどく響くものであるが、彼はぴくりでもなく眠り続けている。近付いてみても寝息すら聞こえ
ないというのだから、本当に死んでいるかのようだ。
(……暢気なものだ……)
男の出現によって食らう側から食らわれる側になったというのに、彼の太平楽に惰眠を貪るさまは
男を苛立たせた。食われるという自覚が、彼には薄すぎるのだろう。だから気楽に眠っていられる
のだ。食らわれ続ければ命を危うくするなどとは、露程も思っていないに違いない。
(私がただ、お前の血を啜る為だけにここにいるとでも思っているのか)
だとすれば、愚かしいことこの上ない。人里離れた森の奥に隔離されただけで、こうも疎く育つ
ものなのだろうか。馬鹿ではなさそうだがあまりにも無知すぎて、いっそ憐れみすら覚える。
「……ん、……」
男の苛立ちを感じ取ったのか、彼が吐息を漏らして身動ぎした。シーツを手繰り寄せたいのか、
白い手がシーツの端を摘む。まだ起きるつもりはないということだろう。男は無意識に、彼の手を
掴んでいた。
「起きろ」
上体を屈め、彼の顔を覗き込む。閉ざされた瞼を縁取る銀の睫毛が震え、男のそれよりも幾分
色素の薄い碧眼がそうっと姿を現わした。ぼんやりとして焦点の合わぬ双眸が男を映したように
見えたが、そうではなかった。
「ん……ベオ、ウルフ……?」
寝起きの為に掠れた声音が、誰ぞの名であろう言葉を紡ぐ。彼はまだ男を認識出来ておらず、
寝ぼけ眼を手で擦りなどしながら男から顔を背けた。
「……ンだよ……まだ、眠い……」
起こすな、とばかりに彼の眉に刻まれた皺を、男は睨んだ。彼が無防備な寝姿をさらしていた
のは、今彼が呼ばわった名の主と男とを勘違いしていたからなのだと判る。つまりその誰かには、
完全に気を許しているということだ。
不愉快この上ない。
だが己が何を不愉快に思っているのかが、男には判らなかった。己の内に蹲り、時折首を
もたげる感情の名を、男は知らない。
(何なのだ、これは)
自問すれど、答えが出る筈もなく。苛立ちもあらわに、男は彼に覆いかぶさった。何も身に着けて
いないのか、あらわになった白磁の膚に唇を押し当て、歯を立てる。
その段になって、彼はようやくそばにいる男が誰であるか察したらしい。
「ぁ……っ!?」
声を上げたときには、もう遅い。男の犬歯は彼の膚を突き破り、そこから溢れ出るものを
じゅっと音を立てて吸った。彼の躰がびくりと痙攣する。拒もうとしてだろう、男の肩を掴み
突っ撥ねようとする彼の腕を、男はさも面倒そうに右手で払った。彼の腕力がひとよりも強いと
しても、男とてまったくの常人ではないのだ。煩い腕を手首で一纏めにして、シーツに縫い止める
くらい難しいことではない。
その間も、男は彼の血を食らい続ける。己が穿った穴を舌で舐めてやると、彼がぴくっと肩を
震わせた。
「っあ……は、ん……」
陶然とした声だ。きっと蕩けるような表情をしているに違いない。この異形は、血を啜られれば
まるで膚を合わせているかのように甘く啼く。それ程に、悦いのだろうか。食らわれた経験の
ない男には判り兼ねるが、経験してみたいとは思わない。あくまで、男は彼を食らうことが
目的なのだ。
つぷりと、再び彼の膚を傷付ける。彼はひくっと震え、漏らす声はやはり甘い。
「っ……んぅ……」
男は彼を、こうして組み敷いていてもそういう意味で抱いたことは一度もない。世間には男色を
専らにするものも少なくないが、男が性慾の処理に選ぶのは女に限っている。それも、商売女だ。
愛を囁いた相手など、いない。男色の知識は持っているし、関係を持ち掛けられたこともあるが、
男を抱いたことも男に抱かれたこともない。子を孕む心配はないので、その点だけを見れば
女よりも面倒はないかもしれぬのだが、それだけの理由で男色に走ることはしなかった。
生来、性慾はさほど強くないほうだった。女も、月に一度も抱けば充分事足りた。
しかし、だ。
口内を満たし、喉を潤すこの甘く甘い血が。
「ぁ……は、ぁん……」
艶めいたこの吐息が、声が。
肉を犯せばどんな嬌声を紡ぐのか、と。雄の本能を強く揺さぶってならない。
男は自身の下腹に熱が集まるのを感じながら、自嘲のような笑みを口端に乗せた。性慾は強く
ないというのに、このざまは何だ。無様だと思う反面で、このまま彼を蹂躙してしまうのも
面白いと思っている己が存在することに、男は気付いていた。
甘い血の芳香が、男を誘う。
商売女相手には感じたことのない強い征服慾を、男は彼に対して初めて抱いた。このまま彼を
抱くことに、何の不都合があるだろう。
まるで彼の血は媚薬のようだ。男を昂ぶらせてやまぬ。
彼の首筋にねっとりと舌を這わせ、中毒者のように辛抱が出来ずに咬み付いた。そのとき、
「ぁっ……いやだ……!」
はっきりと、彼が拒絶の言葉を紡いだ。男はぴたりと動きを止めた。彼が初めて口にした拒絶を、
すんなりと理解することが出来なかった。
「やめろ……もう、やめてくれ」
見下ろす瞳と、見上げる瞳と。視線が絡み、男は粗雑に彼の身を包むシーツを剥ぎ取った。
頭で考えての行動ではなかった。剥がしたシーツの端を引き千切り、困惑したようにこちらを
見上げる彼の手首を縛り上げた。彼がはっとするが、やはり遅い。男の手は既に、彼の下肢へ
伸びている。
「やっ……!」
彼は一糸纏わぬ姿で眠っていたらしい。現われたしなやかな肢体は白く、無論女のように丸み
など一切あるわけもないが、まんべんなく筋肉のついた体躯は女にはない色香を放っている。
こちらを睨めつける双眸の鋭さが、いっそ心地好い程だ。
「何のつもりだよ?」
「何を、とは……男を知らぬわけではないだろうに」
彼の脚の付け根に幾つも刻まれた所有の痕を指先で辿ってやれば、彼はびくっと躰を竦ませた。
頬が赤い。否定もせず唇を噛んだ彼に、男は目を細めた。腹の底に、どす黒いものが渦巻いている
ような感覚がある。正体の判らぬその感情を彼にぶつけるべく、男は彼のからだを暴いた。
己と同じ性の躰を拓かせるのは初めてのことだが、抵抗は欠片も感じなかった。そしてそれを
不思議だと感じることすらなく――――己の下で喘ぐ彼に、男は確かに慾情していたのだ。
兄弟がいることを知ったのは、母が亡くなる直前のことだ。
おまえには弟がいるのだと語る母の声は弱々しく、死期が間近に迫っていることを突き付けられる
ようだった。無論、弟がいるという事実に驚きはした。それも双子だと母は言うのだ。
しかし母は、もう一人の我が子が生きているか死んでいるかも判らぬと言った。母が双子を産んで
間もなく、弟は父の手によって引き離されたのだ。ともに育つべきではないと、父は無理矢理
双子を離別させた。理由は語られなかったという。
母が逝ったあと、それまで暮らしていた家を引き払い、自ら放浪の生活を選んだ。目的はただ
一つ。弟を見つけ出すことだった。
生きているという漠然とした、しかし確固たる確信があった。
生き別れた弟との、感動の再会などを望んだのではない。ひとでもなく、異形でもない同族に
合いたかったのでもない。
弟の、血だ。
ひとと異形とが交わることにより二つに分かたれた血を、一つにする。そうすることで、半端な
存在でしかない我が身は完全なものになると考えたからだ。
ようやく捜し出した弟のそばに、父はいなかった。深い森の最奥に、弟はひっそりと暮らして
いた。期待していたわけでもなく、落胆は覚えなかった。むしろ目的が果たしやすくなると、
笑みさえ浮かべた。
父の代わりに、とでも言うべきか――――弟の傍らに在ったのは全く別の異形が一人。
その異形は今、突き刺さるような殺気を纏って目の前に佇んでいる。それを微笑をもって
見据えながら、よく手に馴染む彼の銀糸をさらさらと梳いた。
喉の奥には、満たされぬ渇きがいまだ居座り続けている。
ダンテ総受の多角関係が好きです。争奪戦。
[08/3/7]