燈火トモシビ









はっとして、バージルは勢い良く顔を上げた。見慣れた光景は、ここが自分の部屋であることを バージルに教えてくれる。それでもまだ自分がどこにいるのか判らぬような感覚があり、首を 巡らすと、背中や腰が妙に痛んだ。机に本を広げ、その上に突っ伏して眠ってしまったらしい。 みっともないことだ。
バージルは一つため息を吐くと、枕にしていた本を見下ろした。これの所為だろうか、どうにも 不可思議な夢を見た。

古い洋館。銀色の“化け物”――――その白い首筋に、後ろから……

バージルは唇に触れた。夢の中での感触が、まだそこに残っているような気がする。夢故に 現実離れして内容でありながら、やけに生々しい夢だった。ぶつり、と彼の首筋に自分の 歯――――牙というべきか――――が食い込み皮膚を破る音が、耳にこびりついて離れない。

バージルは首を左右に振った。肩から首にかけて相当凝っているらしく、それだけでも筋が 痛む。
何時間眠っていたのだろうかと、壁掛け時計を見やれば針は七時の少し回ったところを指して いる。窓から差し込む陽の光で、午前七時過ぎと判った。眠る前、最後に時計を見たときには 午前三時を指していたが、それからどれ程たってから眠ってしまったのか……少なくとも二、 三時間は寝ていたように思う。その短時間に夢を見ていたということだ。ひどく長い夢のよう だったが、実際はさほどでもなかったのだろうか。

(夢、か……)

普段は全くといっても過言でない程度に、夢を見ることのないバージルである。久方振りの夢は ひどく印象的で、しかも鮮明に記憶に残っていた。まるで昔の記憶を思い返しているような、 そんな鮮やかさだった。しかし当然ながら、バージルにそんな記憶などあろう筈はなく、ただの 夢であることは間違いのないところなのだが。

バージルは肩を竦めて部屋を出た。シャワーでも浴びて濃いエスプレッソコーヒーを飲めば、 この気怠さも取れるだろう。慣れきった静けさが何故だかあの奇妙な夢を思い出させて、 バージルは眉根を寄せた。
口の中に、甘い甘い味が広がった気がした。






また、夢を見ているらしい。目覚めながら夢の中にいるような、不思議な心地だ。

見覚えのある部屋だ、と思った。記憶と違うのは、天蓋付きの寝台を覆う帳の色ぐらいだろうか。 窓があるべき壁は僅かの隙間もなく塗り込められ、燭台に火が入っていなければ一切の光が 断たれてしまう。つい先日まで、夜毎訪れていた部屋に間違いなかった。夢だと確信した理由は、 自分の意思では躰を動かせないからである。
第三者の視点で見ているわけではない。誰かの目を借りて、映像だけを眺めているような 感覚だ。

誰か――――男は澱みのない足取りで寝台に近付くと、分厚い帳を持ち上げて中を覗いた。 白いシーツに包まれて、透けるような蒼白い膚をした青年が横たわっている。あまりの血の 気のなさに、死んでいるのか(もしくは出来の良い蝋人形か)と見紛う程だ。
男が唇を笑みの形に歪め、寝台に腰を下ろした。ぎしりと軋んだ音で目覚めたのか、シーツに 包まれた青年が瞼を押し上げてこちらを見やる。気怠げな表情が、精悍と言える顔立ちを何とも 艶めかしく見せている。

「……よぉ」

自分の知る彼とよく似た青年は、しかし彼とはまるで違う口調で男に声を掛けた。 応じる男は――――何故か自分にひどく似た声音をしている。

「気分はどうだ」

彼がシーツを巻き付けたまま躰を起こした。何も着ていないのだろうか。それについて、男は 別段何を指摘するわけでもない。

「悪くはねぇよ。……で、何のつもりだ?」

「何がだ」

「アンタが同類だってことは判った。けど、なんで俺なんだ」

男が彼の血を吸ったことを言っているのだろう。わざわざ同族の血を啜る必要は、確かにない。 しかし彼の疑問はそればかりではないらしかった。

「アンタはいったい何なんだ? ……俺にはアンタが、人間にしか見えない」

困惑した声と表情に、男がくつりと笑う。彼にはそれが不快だったのだろう。端正な顔立ちを 歪めている。

「お前は何も知らぬのだな。まぁ、無理もないが……」

「……何をだよ」

「私は確かにお前の同族だが、お前と決定的に違うところが一つある。何か判るか?」

もったいぶった言いように焦れたらしく、彼が舌打ちをした。これも、自分の知る彼は見せた ことのないものだ。

「まどろっこしい野郎だな」

睨み付ける目の色が紅く変わっている。眼光の鋭さこそ彼とは違うが、目の色には覚えがある。 あのときだ。……思い出したくもない。
男がつと腕を伸ばし、シーツの上から彼の膝に触れた。

「お前は血を糧とするが、私は違う。私はほとんど人間と変わらぬからな」

「……じゃあ、なんでだ。なんで、」

ぐ、と男が彼の膝に置いた手に力をこめた。痛みがあるのだろう、彼が顔をしかめる。

「お前は知らずとも良いことだ。知らぬまま、私に喰われていれば良い」

男は手を彼の膝から外し、全く無遠慮に彼の腕を掴んだ。そのまま腕を引き、彼をぐいと 引き寄せる。彼の少し驚いたような表情が近くなり、そして……男は彼の後頭部に手を回して 首筋に顔を埋めた。頸動脈の真上に口付けるように唇を押し当てる。何をされるか判っている だろうに、彼は何故か抗うことをせず、それどころか、自ら引き寄せるように男の肩に手を 添えてすらいる。
男は口許に笑みをはき、鈍い犬歯を彼の膚に突き立てた。そうして喉を潤す紅いものが、 ひどく甘いということは知っているのだ。







「――――ッ」

どっと疲労感がバージルを襲う。今度はソファーでうたた寝をしていたらしい。飲みかけの コーヒーは既に冷えきっているだろう。マグカップからは湯気も消えている。

また、夢だ。同じ、森の奥にぽつんと佇む寂しげな屋敷の中でのやりとり。そして口内に残る、 やけに甘ったるい味。
バージルは毎日、四時間程も眠れば充分という程、睡眠を摂らない性質の持ち主だ。よほど 疲れていても、本を読みながら寝こけることはもちろん、ソファーでうたた寝などしたことが ない。しかも、バージルはうたた寝をしてしまう程、眠いと思ってすらいなかったのだ。 だというのに、気が付けば夢を見ていたのである。
はっきり夢だと確信していながら目覚めることも出来ず――――また、彼の血を吸った。 自分が、ではないことは判っているが、それにしても生々しい夢だ。感触も、味も。会話の 意味はよく判らなかったが、それを除けば今起こったことと言われても頷けそうなもの だった。

何故、こう立て続けにあんな夢を見るのだろう。夢は願望の現れだとどこかで聞いたことも あるが、あれが己の願望だとは、バージルは思いたくなかった。

“彼”は、ダンテだ。ダンテよりも若く、雰囲気は随分違っていたが、間違いない。自分が ダンテを見間違えるわけはない。あれはダンテだ。
ダンテの血を、自分は啜りたいなどと思ったことは一度もない。当たり前だ。自分は人間なの だから、血など飲みたいと思うわけがないではないか。触れたいとは思っても、血なぞ……

「違う」

バージルは手で額を押さえた。
ダンテに触れたいと思っていることは確かだ。しかし疚しい気持ちは一切ない。そう、ないのだ。 肉の薄い頬に触れて、筋肉はあれど細い躰を抱き締めて、そして、

「俺は何を考えているんだ……」

バージルは思考を振り払うかのように首を左右に振った。ダンテのことを想うと、口の中が渇く ような感覚を覚える。何故かは、判らない。ただ、無性にダンテの顔を見たいと思う。夢の中の 彼ではなく、どこか世を諦めたような瞳をした、あのひとではないいきものに。

「ダンテ、」

誰かにこんなにも逢いたいと思ったことは初めてで、バージルは慣れぬ想いを持て余すより なかった。






物心がついたときには、既に父はいなかった。そのことを不思議に感じたことはほとんどなく、 母とふたり、穏やかに暮らしていた。父について、母から聞いたことは一度もない。母は本当に 何も語ることなく、永の眠りに就いてしまった。だから、父のことは何も知らない。知った ところでどうなるものでもなく、知りたいと思ったこともなかった。

父親がいないからと言って、子が不幸であるという理屈は成り立たない。少なくとも、自分に とっては。







昼を過ぎた頃、バージルは大学の図書館を訪れた。先日借りた本はまだ返さぬまま、別の資料を 探すつもりでいる。目当ては吸血鬼に関する本だ。バージルはあの夢を、ただの夢として忘れる ことが出来なかった。

正門からキャンパスの東側をしばらく歩くと講堂があり、その隣に赤煉瓦風の造りをした 図書館が佇んでいる。広いキャンパスには学生も多く、図書館の自習スペースは時間帯にも よるが、大抵学生で埋まっている。
図書館のエントランスに入ろうとしたところで、バージルはふと、鳥の羽ばたく音を聞いた。 次いで、

「待て」

低い声がして、バージルはゆっくりとそちらに顔を向けた。聞き覚えのある声だ。予想に違わず、 猿に似た顔をした白い翼を持つ鳥が、開け放たれた図書館の扉の上で羽を休めている。鳥にしては 太過ぎる脚と鉤爪だ。後ろ姿はともかく、前から見た姿は鳥には見えない。

「……何の用だ」

鋭く睨みつけるバージルに、鳥は「ふん」と鼻を鳴らした。

「間違いを起こされては面倒だからな」

「……何のことだ」

「あれのことを嗅ぎ回るのは止せ。違えるようならば、俺が貴様を殺す」

「貴様に指図されるいわれも、殺されてやる義理もない。黙れ」

鳥が一つきりの目を細めた。

「本来ならば、貴様を生かしておく必要などないのだ。あれが貴様を突き放しておらねば、 疾うに……」

鋭く舌打ちをして、鳥が翼を広げて一つ空を掻いた。風がバージルの頬を撫ぜるように吹き、 痛みもなく、バージルの膚に一筋の傷を残して消える。

「……警告のつもりか」

不快をあらわにバージルが言えば、鳥はまた舌打ちをする。

「死を想え、命短き者よ。あれと貴様とは相容れぬ。あれに関わるならば、次は顔を裂くだけでは 済まさず八つ裂きにしてくれる」

鳥の隻眼が紅く輝く。ダンテの双眸が紅く染まるのを見たことはあるが、これ程毒々しい色は していないとバージルは思った。この鳥の目には明らかな憎悪がある。が、それで怯む バージルではない。

「この程度の傷がどうしたというのだ。脅すなら、もっとましな手を使え」

「貴様は知らぬのか。奴のことを」

嘲るような声音に、バージルは眉を顰めた。

「誰のことを言っている」

鳥は嘴のない口をにたりと三日月のように吊り上げた。

「貴様によく似た男よ。だからあれは、貴様を招き入れたのだ」

ふわりと、鳥が羽ばたいて扉から離れる。が、飛び立つつもりではないらしく、高度を下げた ところを見ると、地面に降り立つ気でいるようだ。

「……あれは昔から、どこかしら足りぬのだ」

ぼそりとした呟きを落とすと、鳥のからだだ奇妙に歪む。ごきりと嫌な音がしたかと思えば、 目の前に背の高い男が姿を現わしていた。いつかダンテの寝室で見た、あの男だ。ダンテを 抱いていた、あの。

「貴様、」

やはり、とバージルは思った。無気味な鳥と男とは同一のいきものだったのだ。
男は上下を黒で固めており、上背があるだけに纏う威圧感の凄まじいこと、そこいらの マフィアなど目ではない。紅い隻眼がこちらを見据えた。

「あれには、貴様は必要ない」

「己は必要だとでも言うつもりか」

「さて、な……少なくとも、あれはこの世の総てを諦めている。ただ、奴のことを除いては」

男が皮肉っぽく笑みを浮かべた。バージルを見据えているようで、その実男の目はダンテを 見ているのかもしれない。いつも、いつのときも、男はダンテのことばかり口にする。

「これ以上あれのことを嗅ぎ回るな。無駄なことだ」

人間の姿のまま、男はゆるく歩を進めてバージルの横を通り過ぎ、その場を去ろうとする。

「待て。……」

「次は、殺す」

短く言い残しただけで、男は振り返ることをしなかった。男の言葉はどこまでが本当 なのか――――バージルに判るわけもない。しかし男が言った“奴”というのは大いに気に かかる。自分に似ているらしい誰かと、ダンテの関係とはいったいどんなものだったのか。 ……肉体の関係は、あったのだろうか。
不意にあの夢を思い出して、バージルは顔をしかめた。自分の中のダンテへの執着が大きく なってきていることに、気付いていながら知らぬふりをする。
関わるな、など、聞けるものではない。

バージルは踵を返し、本来の目的である図書館へ入って行った。



















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ベオが好きです。←だから何なのか。
この話のベオは大人な感じ?

[08/1/14]