燈火
無理矢理摂らされる食事など、喉を通るものではない。ダンテは軽い吐き気を覚え、男の厚い
胸板に腕を突っ張ってぐいと押し返した。意外な行動ではなかったのか、男は驚くふうもなく
にやにやと嫌な笑みを浮かべ、ダンテの顎に指を添えてくいと持ち上げた。
「まったく、繊細なことだな」
感心したような声音で、男はダンテを嘲笑う。ダンテは男の手を払い除けた。邪険にされる
ことには慣れているとばかりに男はあくまで余裕を湛えており、ダンテの神経を逆撫でする。
たいがいのことには鈍く出来ているダンテだが、それは今現在の話であって、歳若い頃はまるで
違った性格の持ち主だったのだ。この数日間の出来事が影響して、ダンテは普段の調子を
すっかり乱してしまっていた。
男はそれを、揶揄している。
「自らあの小僧を突き放したのは褒めてやるが、な」
くつりと嗤う声が耳障りだ。聞きたくなくて外方を向いたダンテだが、男はダンテに耳を
塞ぐことを赦さなかった。耳にかかる、半端に伸びた髪をさらりと梳く指に、ダンテは我知らず
ぞくりとする。
人間ではないからか、髪質はいくつ歳を重ねてもさして変わらず、男はそれを
気に入りだと言って憚らない。絹よりも上等の滑らかさ。触れられることに慣れはしても、
好きにはなれない。この髪は、あの男の気に入りでもあった。そしてダンテは、あの男が自分の
髪に触れるのが好きだった。
要らぬことを思い出しそうになって、ダンテは首を振って男の指を拒んだ。古い記憶を自ら
封じて久しいというのに。今更、何故。原因はダンテも判っているのだ。だから、バージルを
突き放したのではないか。
男はダンテの髪から離れた自身の指をしばし見つめ、親指と人差し指とを擦り合わせた。
「あの時も、そうだったな」
出し抜けに言い出した男に、ダンテは視線を呉れることもせず、返事もしない。男が自嘲する
かのように唇の端を持ち上げたことに、気付くわけもなかった。
「貴様は変わらぬな。呆れる程、愚かなままだ。いっそ……」
皮肉屋で、ダンテを揶揄う為に生きているような男が、珍しく言いさした言葉を途切れさせた。
さすがに奇妙に思ってダンテがちらと見やると、そこにあったのは男のやけに神妙な(というには
どこか、哀しげな色を含んだ)顔だった。知らない男がそこにいるような気が、ダンテはした。
何故そんな表情で、そんな目をしているのか、ダンテにはまるで判らない。そもそもダンテには、
この男が何を考えて自分の傍らにいるのかも判らないのだ。
生かしてやっていると、男は言う。それは確かなことで、言葉通り、ダンテは今まで生き延びる
為に得た糧のほとんどを、この男に依存してきた。しかしダンテは、生きたくて糧を得ていた
わけではない。仕様がなく――――そうやって言い訳をしていることに、ダンテは気付いて
いながらも知らぬふりをしている。
死なれては困ると言った、男の言葉の意味を、ダンテは理解していない。する必要もないこと
だと、思っている。
男が不意に、腕を上げてダンテの目を手で覆った。
「貴様は己に都合の良いもののみを見ていれば良い」
皮肉っぽい、いつもの口調。ダンテは何故だかほっとしている自分がいることに、内心で首を
傾げた。
「何も案ずるな。何も考えるな。貴様は、それで良い」
噛んで含ませるような物言いに、ダンテは不審を覚えずにはおれない。男がダンテを労ること
など有り得ぬし、慰めるなどもっての外だ。ならば、この男は何のつもりで――――
「ベオウルフ……?」
唇に乗せた名は、本当に久し振りに唱えるもので。この男の名はこんな響きをしていたのかと、
少し驚きを覚えたダンテの唇が、唐突に塞がれた。あまり厚みのないそれは、男の唇だとすぐに
知れる。下唇をゆるく甘噛みされて、ダンテの背に痺れに似たものが走った。快楽に馴れた躰は、
たかがキス一つで火がつくような尻軽だ。嫌気がさすのはいつものことだが、ダンテは今まで
一度たりとも、男の蹂躙を拒み切れたためしがない。
男がダンテの首筋を吸い、紅い花弁の散ったそこに舌を這わせる。一つ痕を残せば、また一つ。
貫くときにはほとんど性急と言って良いやりようをする男だが、痕をいくつも残す為の時間は
やけに多く費やすのだ。何故そうののか、ダンテは知らないし知ろうとしたこともない。
そういえば、とふと思う。気が緩んだのか、ダンテの唇から鼻に掛かった吐息が漏れた。
「んぅっ……」
我ながら甘い吐息だ。男が飽きもせず膚を吸いながら、にたりとおかしそうに笑んだのが
ダンテには判った。
この男は何故自分を抱くのだろう。ふとした疑問を、しかしダンテは口にすることはなく。
自分はいつこの世に生まれ落ちたのか、判らないまま、息は途絶えることなく続いている。
鬱蒼として暗い森の奥深くに、異質より表現のしようのない屋敷は存在した。人里から遠く
離れたその屋敷に住まうのは、ひとの見目をしたひとではない“化け物”だ。森から数十里離れた
まちの人々は、そもそも森には近寄ることがない。遠いから、という実質的な理由もあるのだが、
最大の理由は件の屋敷に住まう“化け物”にあった。
まちに住む人間で、その“化け物”を見たものは一人もいなかった。まちから森へ向かった
人間は誰一人まちへ戻らず、彼らにとり、事実はそれだけで充分だった。行方知れずになった
人間は、森の奥に棲んでいる何者かに殺されたのだ。それはきっと、人心を惑わせ取り殺す悪魔の
ような、世にも恐ろしい化け物に違いない、と。
深い森に棲むものは、人々からすれば確かに化け物に違いないのだろう。しかし人々は
知らなかった。彼らの恐れる“化け物”は、決してみだりにひとを食らうことはしないと
いうことを。
「意地を張る意味を問うのは、もう飽いたな」
低い声に、彼は一つ肩を竦めて見せた。
「なら、やめりゃ良いだろ」
まったくその通りなのだが、次に顔を合わせれば、この男が同じことを口にするのは
判っている。毎度のことなのだ。こちらも大概のところ飽き飽きしていた。しかし男は、
飽いたと言いながら同じことを繰り返すし、彼を訪なうことをやめようともしない。
「一種の道楽、といったところか」
笑いながら言う男に、彼は「悪趣味」と悪態を吐いた。その程度の言葉で男が態度を改める
ようなら、彼もうんざりする必要などないのだけれども。
彼は生まれたときからこの屋敷で暮らしている。以前は人に成り済ましてまちに出ることも
あったが、最近は外出自体がとんとなくなった。まちでは森に棲む化け物の噂が方々で囁かれ、
居心地が好いものではなかったのだ。
彼はひとが好きだ。だからまちへ出るのも好きだったが、彼の心を知らぬ人々は、化け物を
ただ忌避するばかりで、親しみを持とうとする者など皆無であった。当然と言えば、当然だが。
いつか、“化け物”の自分を受け入れてくれるのではないか。淡い期待を、何度
裏切られただろう。それでも彼はひとが好きだったのだ。
いつしか自分自身に嫌気がさして、彼は屋敷に引きこもった。元々、人を襲って糧を得ることを
ほとんどしない彼である。飢えは否応なく彼を襲ったが、空腹に負けて糧を得ることはしたく
なかった。
意地になって断食を続けていたあるとき、ふらりと屋敷を訪れたのが男だった。ひとではない
ことはすぐに判った。彼とは違う種族だが、同じ“化け物”であることに変わりはない。
「己以外の“化け物”が珍しいか?」
男は低い声で言い、笑った。それだけで、男が自分よりはるかに年嵩であることが彼には
判った。何の用かと問えば、何となくだというよく判らない返答があって、彼は首を傾げた。
しかし彼はさして気にはしなかった。永い命を持つ異形のすることだ、意味のある行動など
めったにするものではないのかもしれない。
初めての来訪者に、柄にもなく心が浮き立っていたのかもしれない。彼は男を屋敷に上げ、
客として(かと言って、もてなすような柄ではないが)迎え入れた。
客がいることに気を取られ、忘れていた空腹を思い出したのはその日の夜更けだ。奥歯を噛み
締めると、牙が唇の内側や舌に突き刺さった。自分の血を舐めても空腹は消えない。判っている
が、まちへ人狩りに行くわけにはいかなかった。
寝台の上で小さくなって、どれ程辛抱していただろう。
「若さ故の愚かしさか、それとも生まれ持った愚かしさか……」
低い声に、彼は閉じていた瞼を薄く持ち上げた。寝台の帳を片手で上げて、男がこちらを
見下ろしているのが見える。その表情は、ぼやけてしまって判らない。
「そのまま飢餓状態を続けていれば、見境なく人間を襲う化け物になる可能性は高い。我らは
人間どもよりも、生存本能が強いからな……」
彼はまだ若い。飢餓の果てに自分がどうなるかなど、知らなかった。ただでは死なぬのだと
言われて、茫然とする。男は寝台に腰を下ろし、はっ、はっ、と荒い息を繰り返す彼の頬に
やけに優しい仕種で触れた。
「人間を襲うのが、それ程厭か?」
頷く彼へ、男は微笑する。
「だが、本能は貴様の意思など欠片も汲んではくれぬぞ? 意識を失ったが最後、再び意識を
取り戻した時に貴様が目にするのは、人間どもの骸の山だ」
息の触れる程、男が顔を寄せてくる。紅い目が細められており、男がこの状況を愉しんで
いるのだと知れた。
「狂い死にでもするかも知れぬなぁ」
にやにやと嗤う男を、彼は懸命に睨み付けた。男は人を襲えと言っている。そうしなければ、
結果的に多くの人間を殺すことになるのだと。残酷だが、男は正しい。それが判るからこそ、
彼は男を睨むよりなかった。
どうすれば良いなど決まっている。人間を襲い、せめて殺さぬ程度に血を――――厭とは、
言えない。このままでは男の言う通り、見境なく人間を食らってしまう。けれど。
「貴様は己の糧が、人間の血でなければならぬと思っているのだろう」
「え……」
「喰え」
後頭部に手が差し込まれ、赤ん坊のように顔を男の肩口に埋める。彼はほとんど無意識に、
男の首筋に食らいついていた。
あれ以来――――男は彼が飢えを覚える頃に姿を現すようになった。いつも屈強な身から血の
臭いをさせて、彼の本能を煽っておいて彼を手招くのだ。酷い仕打ちだと、思うけれど彼は男を
拒めなかった。飢えの先にあるだろう殺戮に、彼は怯えた。
時折、男が森に迷い込んだ人間を捕まえて彼を促すことがある。たまには人間の血も飲んで
おけ、と。彼は一度たりとも、首を縦にしたことはない。悪足掻きか、と男に揶揄されても、
彼は意地でも人間にその牙を突き刺すことをしなかった。代わりに、男の血をすする。そうして
生を繋ぐことに意味があるのか、彼には判らなかったけれども。
それでも、彼はひとが好きなのだ。
男との関係が変わったのは、それから数年後のことだ。
その日は雨が降っていた。寒い雨だ。森は動物の気配もなく、雨の音だけがさらさらと屋敷を
包んでいた。
彼は躰を寝台に投げ出し、気怠げにため息など吐いては自分の髪を摘んでは引っ張った。
そろそろ男が押しかけて来るだろう頃合だ。また荒んだ食事を繰り返すのかと思うと、気鬱に
なっていけない。最近では少し諦めがついてきて、男が襟を寛げるとすぐに肩口に噛み付く
ようになった。
男は人間ではないから、彼が思い切り血をすすっても死に至ることは絶対にない。いつも
いつも皮肉か厭味しか口にしない男に苛立って、人間ならば死ぬだろう程に食らってやった
ことがあったが、男の薄ら笑いを消すことは出来ず、余計に自分の機嫌を悪くしただけで
終わってしまった。
また、あの男の皮肉を聞かねばならないのか。ため息と、聞き慣れぬ物音とはほぼ
同時だった。
屋敷には、ごく稀に人間が迷い込むことがある。運良く森で迷わなかった人間。たいていは
迷った挙げ句に飢えて死ぬか、動物に襲われるかで、生きて森を出ること滅多にない。彼の
屋敷に無事辿り着けたとしても、救いになるとは限らなかった。ここに住まわせてやるわけには
いかないからだ。
寝室を出、彼は急ぐでもなく物音のしたほうへ向かった。玄関か、それに近い場所だ。硝子が
割れた音が混じっていたようだが、さて、玄関扉に何かがぶつかりでもしたのだろうか。
玄関ホールに繋がる階段を下りようとして、彼は目を細めた。考える前に躰が動き、階段の
手摺を乗り越え身を投じていた。宙でくるりときれいに一回転し、猫のようなしなやかさで音も
なく床に着地する。振り仰いだ先では、今彼が乗り越えた手摺が、不自然にばっさりと断ち
割られている。そのそばで男が一人、こちらを見下ろしていた。顔は、外套のフードを
深く被っている為、よく見えない。
「随分とまぁ、派手好きなお客さんだ」
観音開きの玄関扉は、片方が蝶番ごと外れてしまっており、もう片方も釘の一本で辛うじて
木枠にしがみついている状態だ。思い切り蹴ったとて、こういうことにはならないだろうに。
呆れた彼に、頭上から冷めた声が降り注いだ。
「閂が下ろしてあったのでな。悪いが無理に破らせて貰った」
構うまい、と宣う男に、彼はどう言い返したものか迷う。それをどう受け取ったのか、男は
「ふん」と鼻を鳴らし、一度は登った階段をゆったりと降りてくる。
「貴様はなかなか腕がたつと見たが、どうだ」
「さぁ……屋敷じゃ、暴れる機会もないからな」
男の問いの意味は判らないが、実際彼は立ち回りを演じる機会も必要もないだけに、腕が
たつかと訊かれても答えようがなかった。男はくつりと笑う。その、人を見下したような仕種が
あいつのようだと、思って彼は眉を顰めた。
「判らぬなら、試してみれば良い」
突然、だった。男は右足を踏み込むと一瞬で彼の懐まで潜り込み、左手に提げていた細長い
棒のようなもので彼の脇腹を突き上げた。咄嗟に後ろに跳んだお蔭で直撃は食らわずに済んだが、
男の攻勢はそれで終わりではなかった。きらりと蒼白い光が鼻先をかすめる。身を伏せ、床に
転がった。仕込み杖の類か、男の携えた棒らしきものには、切れ味鋭い刃が仕込まれているようだ。
髪が数本、引き千切られて床に落ちた。
「危ねぇな……」
呟き起き上がろうとして、しかし出来なかった。ひやり、と。首筋に水滴が落ちたような
寒気が走る。いつの間にか、男は彼の背後に回っていたのだ。
「……あんたの目的は、俺の首か」
くつりと、男がまた笑った。
「少しばかり、違う」
「え、――――あッ!?」
ぶつり、と首筋に鋭いものが突き立てられた。自分のもつそれよりも、少し鈍いように
思わなくもないが、間違いなく牙だ。同族か。しかし何故判らなかったのだろう。男は人間に
見えた。なのに、これは。
ぢゅ、と血を吸われる生々しい音がする。同族に遭ったのも初めてなら、自分が血をすすられる
側になるのも当然初めてのことだ。
「ぁ――ぁあ……ッ」
痺れに似た痛みが脳を揺さぶる。しかしそれよりもはっきりと感じているものがあった。
紛れもない、快楽だ。
どうして、何故同族の血をすするのか。問い詰めねばならないというのに、思考が霞んで何を
考えることも出来ない。
ようやく男に解放されたとき、彼は不覚にも気を失った。その場にくずおれそうになる躰を男が
腕一本で抱き留めたが、それすらも、覚えてはいなかった。
計画性のなさがあからさまに露見してます。
初めてベオの名前が出た…。
[07/12/24]