燈火トモシビ









思い出す。抱き締めた彼の、やわらかな体温。





もう、ここへは来るな。

バージルはまず自分の耳を疑い、聞き間違いではないと判ると次いで彼を疑った。何を言っている のだろう、彼は。何を――――誰と間違えてそんな言葉を紡ぐのだろうか。
立ち尽くしたバージルは、心底不可解な表情を浮かべて彼の真意をただそうとした。が、 バージルよりもはるかに長く生きている彼は、そう容易には己の心を覗かせない。もどかしく 時間ばかりが過ぎ、彼が再度、バージルから視線を外したまま口を開いた。

「ここへは、もう来ないでくれ」

「……何故だ」

無意識のうちに言葉が口をついていた。ダンテはあくまでこちらを見ようとはせず、頼む、と 囁くように言う。それだけでは納得出来るわけがないと、彼は判っていないのだろうか。

「理由は、」

訊きたいことは山程ある。にも拘わらず、バージルの口からはそんな短い言葉しか出て来ない。 それがまたもどかしく感じながら、ダンテの答えを待つ。

ダンテは窓の外を見やるかのように、視線を投げた。窓が一つもないこの部屋からは、見える ものと言えば壁しかないというのに。
痛い程の沈黙が続き、ようよう彼が紡いだ言葉はひどく短いものだったが、バージルに衝撃を 与えるには充分すぎた。

「……迷惑だ」

何が、とはバージルは訊けなかった。無様に固まったまま、やはり目を合わせようとしない ダンテを、茫然と凝視することしか出来ない。

迷惑。――――何がだ。俺が? 何故、

「なぜ」

掠れた問いに答える声はなく。ただ「出て行ってくれ」と突き放す声がバージルの耳に 届いた。

「何故だ!」

自身が思いの外大きな声で叫んだことには気付かず、バージルはつかつかとダンテのそばに 近付いた。バージルから逃げるように後退るダンテを壁に追い詰め、ダンテの顔の両側に手を ついて簡素な檻を作る。それでもこちらを見ようとしないダンテの、顎を掴んでこちらを 向かせた。

「俺を見ろ、ダンテ。何故」

感情が昂ると、言葉が出て来ないものらしい。頭の片隅で冷静に分析する自身を、バージルは 無視した。

「答えろ、ダンテ。お前は何を……いや、俺は何をした?」

昨夜、バージルはこの部屋で夜を明かした。ダンテの寝台で、ダンテをこの腕に抱き締めて、 朝まで離さなかった。離すことが出来なかったのだ。背中に回されたダンテの腕が、きゅっと服を 掴むダンテの手が、肩口にかかるダンテの息が、総てが愛しくて堪らなかった。朝、目が覚めて からも、バージルはダンテが目覚めるまで彼の寝顔を見つめていた。ひとではないと言うダンテ だが、その寝顔は意外な程にあどけなくて――――可愛らしかった。

もしかすれば、寝ている間に無意識に何をかしてしまったのだろうか。
覚えがないだけにバージルは不安になった。今朝の今で、ダンテがこんなことを言い出す理由が、 バージルにはまるで判らないのだ。可能性があるとすれば、昨夜に原因があるとしか思えなかった。 が、

「そうじゃない……」

ダンテはゆるく首を左右にする。バージルは何もしていないのだと、形の良い唇がやけに淡々と 告げるのへ、バージルはいっそう疑問を募らせることになった。

「ならば、何故だ。理由も聞かされず、俺が納得するとでも?」

詰問口調になるのは致し方のないことであろう。それ程にバージルは切羽詰まっている。 バージルを知る人間がこの場にいれば、見たこともないバージルの剣幕に瞠目するに違いない。
しかしダンテはまるで動じるふうも、掴まれた顎が痛いと訴えることもない。つと、それまで 一度も合わされることのなかった視線が、バージルを見据えた。血のような紅――――ダンテの 瞳は蒼である筈が。

「俺はひとを喰う」

告げられた言葉を、バージルは脳裏で反芻した。ひとを喰う。それは、つまり。

「だから、だ」

いかにも足りぬ言葉を、ダンテは補う必要がないと思っているらしい。それだけで総てを 理解しろと言うダンテに、バージルは眉を顰めた。

「だから、何だ。お前がひとを喰うから何だと言うのだ」

問い詰めても、ダンテが己の言葉を撤回しないだろうことをバージルは察していた。ダンテの 双眸には強い意志があり、バージルはそんな場合ではないのだけれども、見入ってしまった。

「……ここへは来るな。もう、二度と」

静かに繰り返される言葉を、バージルはほとんど聞いてはいなかった。





気付けば、バージルはダンテの屋敷の外にいた。門扉はまるでバージルを拒むかのようにぴたりと 閉じている。バージルは屋敷を仰ぎ見て、あぁと嘆息した。これがダンテの意志なのか。自分は そんなにも迷惑だったのか。しかしそれでは、昨夜のやり取りと矛盾しているではないか。あれは どう説明をするつもりなのだ。
それとも、昨夜の言葉こそが間違いだったとでも言うつもりなのだろうか。今し方のダンテの 素振りからすれば、その可能性は極めて高い。

(あぁ、そうか)

良いように翻弄されただけだったのだ、自分は。ダンテの期待する行動とは反することを、 知らぬ間にしてしまったのだろう。だからダンテは、突然自分を突き放し、追い出したのに 違いない。やはりあの男のほうが良かったのだ。昨夜、ダンテを寝台に組み敷いて、そのまま 抱いていれば良かったのかもしれない。少なくとも、あの男はそうした筈だ。
ダンテの意に沿う行動を、バージルは取らなかった。だからダンテはバージルに愛想をつかし、 ひとを喰うから、などという理由をこじつけてバージルを遠ざけたのだ。

判ってしまえば、何とも詰まらぬ理屈――――下らぬ言い分だ。
喉の奥でダンテの名を唱えたとき、不意に横合いから声を掛けられてバージルはそちらを 見やった。

「ねぇ、」

街灯に照らされて、一人の少女がバージルの傍らに立っている。少女と言っても、歳はバージルと 同じくらいだろうが。

「……何だ」

バージルの冷厳な声音に少女が一瞬、びくっとする。しかし気の強いたちらしく、気丈にも バージルを睨みつけた。

「あなた、前にもこの屋敷に入ってったわよね?」

バージルが今から屋敷内に立ち入るとでも思ったのか、強い語調で問うて来る少女に、しかし バージルは違うともそうだとも答えなかった。

「ここにはいったい、何がいるの? あなたは知ってるんでしょう? 答えて」

まるでバージルを責めるような口調だ。しかしバージルは眉一つ動かすこともしない。少女は 苛立ちを隠せぬ様子で、答えてよ、と繰り返した。押し殺したような声音になっているのは、下手に 喚いて周辺の住人に騒がれては困るからだろう。
バージルにはどうでも良いことだが。

「……知りたいのならば、自分の目で確かめろ」

教えてやる義理はバージルにはない。そもそも、この少女が何者かすらバージルは知らぬの だから。
バージルの突き放すような物言いに、少女はかっとなったようだ。

「とぼけないでよ! アンディはこの屋敷に行くって言ったきり、消えちゃったのよ!? ジム だって……!」

知った名が少女の口からこぼれ、バージルは冷えた碧眼を少女に向けた。

「……奴はやはりここに入ったのか」

「えっ? 奴って、……ジムのこと?」

「そうだ。誰か見たものがいたのか」

そう問えば、少女は気まずそうに口ごもった。つまり彼女の憶測に過ぎないということ らしい。

「でも、アンディは確かよ。見てたわけじゃないけど、忍び込んでやるって言ってたんだから」

やめておけ、と少女はアンディという名の青年(恋人らしい)に言ったのだという。電話口で、 得体の知れぬ屋敷に近付けばジムのように行方知れずになるかもしれないと訴えた。しかし アンディは少女の諫めに取り合わず、忍び込むと言って電話を切ってしまった。それが昨夜のこと だと言う。

「アンディとは、あれきり……と言っても一日だけど、連絡が取れないままよ」

少女はバージルから視線をずらし、屋敷を見据えた。

「あなたがここに入って行くのを、わたし見てたの。昨夜よ。それを彼に電話で……」

後悔の滲む声音だが、バージルは同情することもない。
昨夜、バージルは確かにこの屋敷を訪れた。それを誰かに見られていたことには全く気付いては いなかった。ダンテ。彼のことが頭を占めていた為、周囲への注意を怠っていたのだ。しかし それも、バージルにとってはさして問題ではなく、その所為で少女の恋人が行方不明になっている 件についても同様である。

問題があるとすれば、この屋敷だ。

俺はひとを喰う。あの言葉が本当なのだとしたら――――ひとではない何かが、ひとと同じものを 糧にするとは限らぬ為、否定しようにも根拠がない。総てが仮定の上に立つとはいかにも信用に 欠くが、ジムとアンディが屋敷に侵入したのちに行方知れずとなったことを合わせれば、一応の 辻褄は合う。

人喰いマンイーター……)

黙りこくったバージルを、少女が不審がって呼ばわった。

「ねぇ、何か言ってよ」

「……その話、他のものにも話したか?」

唐突な問い掛けに、少女は戸惑いながらも首を左右にした。

「馬鹿にされるかもしれないし、それにアンディみたいなのがいても困るじゃない。誰にも話して ないわ」

「なら、お前も忘れることだ」

思いもよらぬ言葉だったのか、少女はぱっちりとした瞳を大きく瞠った。「そんなこと、」と 呟いたきり、絶句してバージルを凝視する。

「覚えていたければ好きにしろ。が、この屋敷には関わらぬことだ」

話はそれだけか? バージルは問い、少女の答えを待たずにその場を立ち去ろうとした。少女が 慌ててバージルに制止を求めた。

「待って! ……やっぱり、ここには何かいるのね?」

バージルは少女を見下ろし、どこまでも冷めた声音で言った。

「お前がそれを知る必要はない」

離せ。バージルに気圧され、少女は火に触れたかのようにぱっと手を離した。バージルはもはや 少女には見向きもせず、そして屋敷を一瞥することもなく夜の街路を真っ直ぐに歩き去った。





その日から、バージルは屋敷を訪れなくなった。かと言ってダンテを諦めたわけでは、断じて なかった。

バージルは大学の書庫にこもり、ひたすら文献を読み漁った。これまでのバージルならば見向きも しなかったような、神話や伝承にまつわるものを初めとして、怪しげな書物を片端から捜しては 黄ばんだ紙をひたすらにめくり続けたのだ。
大学の書庫では足りず、いくつもの図書館に足繁く通い――――そうして、バージルは今まで必要と しなかった知識を自身に植え付けていった。
自分に足りないものはこれに違いないと、半ば思い込むようにして、バージルは寝る間も惜しんで 本に向き合った。

怪物。悪魔。精霊。そしてそれらにまつわる伝説、伝承。果ては奇怪な魔術書まで、バージルは ものを選ばず読み耽った。探し求める記述らしきものを見つけたのは、書物を漁り始めてから幾日か が経った明け方のことだ。

とある北欧の町には、森に人を食らう怪物が棲んでいるという伝承があった。そこは古くから人が 入ってはならないと戒められていた森で、戒めを破って森に入った人間は誰も戻っては来なかったと いう。町の住人にその怪物を見たものはおらぬ為、行方知れずとなった人間は森で遭難でもして命を 落としたと考えるのが妥当であろう。
年代は約百年と少し前。この記述に確かな信憑性はどこにもない。が、気になることがあった。 似た記述が他の書物にも見られるのだ。年代は約百年前を初めとしてまちまちだが、内容はどれも ひどく似通っている。

森に棲む、人を食うもの。

それがダンテと関係があるのかどうか、バージルに知る術はない。ダンテに直接問うより 他には。
ぱらぱらと、すったり茶色く染まった紙をめくるバージルの手が、不意に止まった。バージルの 視線の先には、とある鳥の記述と挿絵がある。

《神々しい光を纏い、夜更けでも飛ぶことが出来る。この鳥を見たもの、捕まえようとしたものは ことごとく食い殺される》

嘴のない猿にも似た醜い顔立ちとは裏腹の美しい翼、そして猛禽よりも鋭く太い鉤爪―――― バージルの脳裏に大学の教室で見た鳥が過ぎる。言葉を操る奇怪な姿の鳥。この記述の鳥があれと 同じか似たものだとすれば、あれもまた人食いということになる。

ダンテを知る、奇妙な鳥。そしてダンテを我がものにした男。

バージルは本を繰る手を止め、両の掌を見下ろした。この手、この腕で抱き締めたダンテの 暖かさを、バージルはまだ忘れてはいない。忘れるものか、と半ば意地になっている自身に バージルは気付いてはいないけれど。

「ダンテ、」

あれから幾度も唱えた名を、バージルは舌の上で弄ぶように転がした。
消えた二人の行方を、おそらくダンテは知っている。バージルは彼らの消息を調べるつもりは ないが、ダンテにただしたい気持ちは大いにある。ダンテは一度、バージルの問いにはっきりと 否定をしているのだ。人を食うと言ったのはダンテ本人だ。二人の人間を食ったのはダンテで あると考えるのが妥当であろう。ならば何故、知らぬと答えたのか。
何故、突然バージルを突き放したのか。――――何故、バージルは食われずにいられたのか。

判らないことばかりだ。

バージルは深く息を吐き、分厚い本を無造作に閉じた。



















前?
次?
戻。



一度突き放してみました。

[07/11/28]