燈火
来ないと、思っていた。
誰かが屋敷に足を踏み入れたことに、ダンテはベッドの上で気付いた。彼の神経は小さな物音をも
聞き逃さぬ程研ぎ澄まされており、何ものかの気配にもひどく敏感になっていた。それは意識して
のことではなかった。全くの無意識。ダンテは知らず、待ち望んでいたのだ。
夜の訪問者――――バージルを。
しかし不安はあった。彼はバージルがもうここには来ないと思っていたし、この気配も別の誰か
のものかもしれない。期待してはならないと自身に言い聞かせるものの、ダンテはこちらへ近付いて
来る気配から意識を切り離すことが出来なかった。
バージル。
来るな、と心の中ではもう一人の自分(それは随分と幼い)が叫んでいる。が、唇は――――
「バージル」
招くように、かの人間の名を呼ばわっていた。
気配はドアを目前にして立ち止まった。ノブを捻る、ただそれだけのことを躊躇っているようだ。
が、それは仕方のないことだった。昨日、だ。ダンテがバージルの目に醜態をさらしたのは、まだ
昨日のことでしかない。たった一日であれが帳消しになるとは、いかに鈍感なダンテでも
思わなかった。だから、来ないと思っていたのだ。
来てはだめだ。頼むから来ないで――――そのまま引き返して――――
(忘れて、くれ)
それが一番の良策なのだとダンテは知っている。バージルとは少し、長く在りすぎた。初めから
突き放して、追い返していれば良かったのだ。そうすれば面倒なことにはならなかったし、傷付く
ことにもならなかったのだから。
傷付く、とは、誰のことを言っているのか。ダンテ自身にも判らなかった。判ることはただ
一つ。
バージルに合いたいと願っている、狂った心。
やがてただ一枚のみ残された隔たりは、ダンテが心底望む人間によって取り払われた。
「不毛だな、」
知っている。そのくらいのこと、とっくに。知らぬふりを出来る程、若くもないのだから。
「愚かな」
それも知っている。どうにも生まれつきらしい。……いや、後天的なものかもしれないな。
誤魔化せないのさ。自分を。
「……必ず諦めねばならぬと判っていても、か」
……それでも、だ。俺をこんな躰にしたのは……あんたも知ってるだろう。
――――あいつなんだ。
突然、だった。
どの面を下げて挨拶などという薄ら寒い言葉が言えるのか、らしくもなく迷っていたダンテに、
バージルは押し黙ったままつかつかと近寄った。先刻、ドアの向こうで何をか迷っていた素振りは
まるで消えている。
バージルはベッド(昨日のシーツはあの後すぐに捨てた)に腰掛けたままのダンテの目の前に
立ちはだかり、つと腰を折ったかと思うと、
「ッ……!?」
唇を重ねてきたのだ。
バージルと知り合ってから、驚くことが増えた。などと見当違いなことをしみじみ思ってしまう
程、バージルの行動はダンテの虚を突いた。バージルが(キスだけとは言え)こんな行為に及ぶとは
思ってもみなかった。
「んっ……はぁ……」
不意のことだった所為か、唇が離れるとダンテは無意識に熱っぽいため息を漏らしていた。
ほとんど感情の浮かぶことのない自身の面立ちに、僅かに朱が昇っていることにダンテは気付いて
いない。
バージルははっとしたように躰を起こし、しかし目を逸らすことが出来ないように、
ダンテには見えた。
「……バージル、」
呼ばわれば、バージルの蒼い双眸が揺れた。若い、とダンテは感心するように思って
しまった。
「そんな顔を……」
バージルが言いかけた言葉を飲み込んだ。こんなふうに、バージルが言いさした言葉をやめて
しまうのはこれで二度目だ。そうさせているのは自分だと、ダンテは判っていてもバージルの
消えた言葉を求めることは出来なかった。
その代わりには、決してならないけれども。
「……もう、来ないかと」
「来ては拙かったか」
そうではない。しかし来て欲しかったとは口にしなかった。言ってしまえば何かが
終わる――――壊れてしまうとダンテは知っていた。
「そうじゃない。そうじゃ……ただ、アンタは嫌いだろうと」
ああいうこと――――同性同士だからというわけではなく、異性間であっても、バージルは良い顔を
しないのだろうとダンテは思っている。バージルによく似た男はそうだった。ダンテは自覚をせぬ
ままに、二人を混同してしまっている。
「……好きではないな」
バージルが、奇妙な程昏い目をして呟いた。やはり、と驚きもなく思ったダンテの肩に、
バージルの手が触れる。節の高い指がするりと移動し、ダンテの鎖骨をなぞった。反射的にぞくりと
してしまうのを、ダンテは意識して抑えねばならなかった。いつもなら、多少触れられただけでは
微かにも感じないというのに、どういうわけか。
「好かぬのは確かだが、……」
どうしてその先を言ってくれないのだろう。ダンテは焦れたが、それが表情に表れることはない。
バージルがどこか思い詰めた表情であることが、やけに気にかかった。
「バージル、」
呼ばわることしか出来ない自分がこれ程嫌になったことはない。何を言えば良いのか、もう
数十年も人間に関わって来なかったダンテには、まるで見当が付かないのだ。
ダンテの浮き出た鎖骨をなぞっていた指が、ふと止まる。見上げたバージルの顔立ちは、昔ともに
在った誰かのそれによく似ていた。
「……嫌では、ないか?」
何を指しての問いだろう。ダンテには判らなかったが、少なくともバージルに拘る総てに関して、
ダンテが嫌悪を感じたことは一度たりともない。これからもそうだろう。
「嫌なら、とっくに」
その先はわざと言わなかった。聡いバージルのこと、ダンテが多くの言葉を紡ぐ必要はない筈だ。
もっとも、ダンテがバージルに判らせようとしている場合は、の話だが。
まだ若い青年は一瞬拗ねたように唇を噛み、ダンテを怖々(ダンテにはそう思えた)、
抱き締めた。骨が折れる程強くされても良いとダンテは思うけれど、やはり口には出さない。
バージルの、これが精一杯なのだとダンテには感じられたから。
こうして、バージルがその腕で自分を抱いてくれることを望んでいたのだと、ダンテは今自覚を
した。同時に、得も言われぬ感覚が背筋を這う。
――――恐れ。根底には確かに喜びと言えるものがあるというのに、それは確かに恐れと名の付く
感覚であった。
「ダンテ、」
僅かに掠れた声が耳殻を撫ぜる。促されるままベッドに躰を沈めたダンテには、バージルの重みが
ひどく心地好かった。いらぬことを考えられぬようにしてくれれば、なおのこと有り難いのだ
けれども、バージルにそこまで求めるわけにはいかなかった。
自分とこのまま躰を繋げてしまえば、バージルはきっと――――いや、必ず後悔する。目に見えて
いるからこそ、ダンテはおそろしかった。
バージルの背中に腕を回し、せめて夜が明けるまでこうして抱いていてくれぬものだろうか、と。
浅ましくも思っている自身を、ダンテは内心で蔑んだ。
もう少し。ほんの少しだけで構わないから――――
どんな夢であろうと、必ず醒めるものだ。
判りきったことを言う男を、ダンテは睨むわけでもなく見つめた。だからどうした、という言外の
声が聞こえたのか、男はどこか忌々しそうに目を細めた。
「気に喰わんな」
感情を隠す(偽る)ことをしない男はそう吐き捨てると、ベッドに躰を横たえたままのダンテに
覆いかぶさってきた。
「愚かにも開き直ったにしろ、糧を得ぬわけにはいくまい」
己の優位を示すかのように、男は嘲笑う。男の態度はどうあれ、言葉はあくまで正しい。ひとも
ひとではないものも、生きている限り喰わねばならない。彼も例外ではなく、ひとから糧を得る
ことを半ば放棄した彼は、必要な糧をこの男に依存することで生を繋いでいる。そういう意味で、
男は正しく彼よりも優位に立っているのであった。
男の屈強な躰に組み敷かれたダンテは、その重みに微かな不快を覚えていた。この、常にダンテを
蔑み苛立たせては悦んでいる悪趣味な男に、快さなど感じたことはないのだが、それとはまた異なる
不快感である。
剥き出しにされた分厚い肩――――糧を目の前にしても、いつものような昂揚が沸かない。何故
なのか、ダンテにも判らなかった。
男もまた、ダンテの変調に気付いたらしい。
「ふん、今日は食慾が沸かぬ、か?」
心配するような言葉など、男が口にするわけはない。
「つい先刻まで、あの小僧と仲良く眠りこけていたのだ。その気にならぬのも無理はないが、
な……」
嫌味がましい言葉に、ダンテは顔をしかめた。
男の言う通り、バージルはつい一時間程前までこの部屋にいた。同じシーツにくるまりダンテを
抱き締め、朝まで。ダンテのささやかな望みを、バージルは無言のまま叶えたのだ。
目覚めたのはバージルが先だった。窓のないこの部屋では、太陽の光によって時刻を知ることは
出来ない。しかしバージルはダンテが目を覚ますまで、ダンテを腕に抱いていてくれた。
ダンテが目覚めたのが、一時間前のことである。
時刻は昼に近かったかもしれない。朝日のあるうちに起きることが、ダンテはめったに
なかった。
バージルはダンテが目覚めたのを確認すると、身仕度を済ませ、見送りは良いと言って出て
行った。また、来る。その言葉とともに、ダンテの額に恭しい口付けを――――
「余所事に思考を巡らせるとは、余程の覚悟があるらしい」
穏やかな声音に、ダンテははっとした。首筋への鋭い痛み。顔を歪めることこそないが、下肢を
いつになくやわくまさぐる手に、男が何をしようとしているのかが嫌でも判る。
「やめろ……っ」
ほとんど無意識に、ダンテは声を上げた。男と躰を繋げるのは、当然だが初めてではない。
しかしここしばらく(十年程か?)、ダンテが拒絶をあらわにすることは一度もなかった。肉を
犯されることなど何程のことでもない。そう、達観していたからなのだが――――どうした
わけか。
男もダンテの拒絶に不審を覚えたようだ。が、ダンテとは違い、何かしらの答えを得たようでも
あった。この男の不愉快そうな表情を見るのは、さて、いつぶりだろう。
「やはり災いになるか……」
何がやはりなのか、何が災いなのか。そして何故、この男はこうも不愉快そうに眉をしかめて
いるのか――――ダンテには判らなかった。生来の鈍さが、ダンテに男のあらわにした感情への
理解を不可能にしている。
男は低く舌打ちし、ダンテの蒼白い膚に文字通り噛み付いた。浮き上がった鎖骨をがりっと音が
する程強く噛まれ、ダンテの躰がびくっと跳ねた。
「っ……」
若い頃に比べ、痛みはあまり感じぬようになっている筈だ。が、今はどうか。男がダンテの膚に
傷を作るたびに、彼の躰はびくびくと震えて痛みを訴えている。その反応を男が愉しんでいることは
間違なかった。
酷使した(された)全身がひどく怠い。ダンテはベッドにうつ伏せた恰好で、ぐったりと四肢を
投げ出していた。
ダンテを動けなくなる程に蹂躙した男は、何か気になることでもあるのか、今し方部屋を出て
行った。すぐ戻る、などと言い残していったのは、また戻ってダンテを犯すつもりでいるから
なのか、どうか。ダンテにはどうでも良いことだ。
躰は身動ぎ一つままならない。下半身などは感覚そのものがなかった。バージルがこの姿を見た
ならば、今度こそ愛想をつかせてしまうかもしれない。それは嫌だ。しかし嫌わないでくれと縋れる
程、ダンテは若くはなかった。
今は何時頃だろう。ふと、気に掛かる。どれぐらい時間、男に揺さぶられていたのか、まるで
判らない。もう夕刻だとすれば、早く躰を清めなければならない。バージルが来てしまってからでは
遅いのだから。
ダンテは意識を集中し、躰を起こそうと試みた。そしてふと、気付く。
「……?」
何か、屋敷にひとらしき気配がある。バージルかと思ったが、違うようだ。ならば、誰だ。何を
しにここへ。
(さっき、あいつは何をしに出て行った?)
何もない屋敷のどこへ、男はいったい何をしに行ったのだ。ダンテの脳裏に、少し前に聞いた
バージルの言葉が甦った。
――――俺が初めに来るよりも前に、誰かがここに入り込まなかったか?
ダンテは目を見開いた。知らない、とあのときダンテはバージルに答えた。嘘ではない。確かに、
バージル以前に屋敷に訪れたものなどいないかったのだ。が、それはただダンテが認識して
いなかっただけなのでは――――
(そう、だ)
バージルがダンテの前に現れる以前に、今と同じことが確かにあったことを、ダンテは思い
出した。
その日、男はダンテを犯したあと、今のようにふらりと部屋を後にし――――戻ってからは更に
ダンテを激しく蹂躙した。屈強な躰から、消しようもないひとの血の匂いをさせて。
そしてまた、男は屋敷に足を踏み入れた人間を食らおうとしている。血を糧とするダンテと違い、
男は人間を頭から食らい尽くす。骨までも残さずに、すべて。
(そういう、ことか)
屋敷からひとの気配が消えた。あぁ、とダンテのため息はシーツに吸われて消えた。しばらく
すれば、男が血の匂いを纏って戻って来る。ひとの血肉を食らって昂った熱を、ダンテを犯すことで
発散させるのだ。
(はっ……これで、また)
ダンテは内心で嗤った。バージルがダンテを嫌う可能性が、また一段と高くなった。たとえ
ダンテが食ったのではないと証明出来たとしても、男の“食事”を止めに行くことをしなかった
のは、他でもないダンテなのだから。
男はダンテを嘲笑うだろう。それがありありと想像されて、ダンテはシーツに額を押しつけた。
寝室のドアが開け放たれたのは、それからすぐのことだった。
対バジはプラトニック…?
[07/11/2]