燈火
どうにも眠れず、バージルはまんじりともせず朝を迎えた。寝台に横になる気にすらなれず、
ソファーに浅く腰掛けた恰好で夜を明かすなど、今まで一度もなかったことだ。
バージルはさして睡眠を重要視していない。日に四時間も眠れば充分で、場合によっては徹夜を
しても心身にはさしたる影響も表れない。それは子どもの頃からそうで、しかし夜になればきちんと
寝台に入るのは、母の躾の賜物と言える。
眠らず――――眠れずに夜明かししたのはこれが初めだ。母の生きていた頃に一度だけ、読書に
没頭するあまりいつの間にか朝になっていたことがあった。そのとき母は、美しいおもてに少し
困ったような笑みを湛え、駄目よ、とバージルをやんわりたしなめた。
ひとは夜になれば眠らなければならないのだと、母はバージルの手に手を重ねて言った。何故、と
バージルは問うた。眠らなくても平気だと、言えば母はやはり困ったふうに笑った。
――――眠りなさい、バージル。ひとは夜、起きていてはいけないのだから。
釈然とはしなかったが、バージルは頷くだけに止どめた。母は理由をこじつけようとして、
そんな漠然としたことを言ったのではないと、バージルには判っていた。ただ、母の言葉を理解
出来なかったものの、とにかく夜は眠らねばならないのだとだけ、バージルは理解をした。
それ以来、躰が睡眠を欲していないときでも寝台には入るようにしている。が、今日――――昨夜
だけは駄目だった。
額を押さえ、しかし目は閉じなかった。目を閉じてしまえば頭を抱えたくなってしまう。あの
光景――――音も含め――――がフラッシュバックして、バージルを苛むのだ。
(何故、)
情事の最中だと判った瞬間に屋敷を後にしなかったのか。屋敷に駆け付けたのはまったくの
衝動からだった。ダンテの寝室で行われていたのは紛れもなく情事で――――頭の中が真っ白に
なった。
ダンテの声が、吐息が、バージルの脚を床に縫い止めた。毛足の長い絨毯が足に絡み付いている
ようにさえ思う程に、立ち尽くしたまま動けなかったのだ。
間が良いのか、悪いのか――――
暗闇に響いたダンテではない低い声は、明らかにバージルに向けられていた。男はやはりひとでは
なく、ダンテと何ごとかやり取りしたのち、眩い光とともに一瞬にしてその姿を掻き消してしまった
が、そんなことはバージルにはどうでも良いことだった。
ダンテ。バージルは無意識に喉の奥で彼の名を呼ばわった。
気がつけば、闇の中をまっすぐにダンテの寝台へ近付いていた。
明かりを、と求めたのはバージルだ。それがもっともたる間違いだったのだ、とバージルは
思う。
全裸に近い姿でシーツに臥せるダンテ。その躰には下肢を中心に男の白濁に汚れ、あられもない
有様をさらしていた。
(あぁ……)
何故あんなものを見てしまったのだろうか。見さえしなければ、まだ救いはあっただろうに。
(救い、など)
バージルは判っているのだ。あのとき明かりを求めたのは、確かに自分であることを――――ダンテが
どんな姿でそこにいるのか、この目で見てみたかったのだということを。
瞼を閉じれば鮮明に浮かぶ、ダンテのあられもない姿。脳裏に焼き付けた姿を思い返して、
バージルは己の下肢に熱が集まるのを自覚しないわけにはいかなかった。
浅ましい。――――愚かしい。
自分をこんなにも嫌悪したことはない。ダンテに対してこんな劣情を抱いていたのかと思うと、
恥ずかしくなると同時に自分自身がひどく嫌なものに思えてしまう。
(俺は最低だ)
あの男のように、自分もダンテを抱きたいのだろうか。それは違うと理性が否定する傍ら、
違わないとどこかで声が上がる。苛まれる。慾望に忠実になれと、紛れもない自分の声がそう囁く
のだ。
(何故俺はあの屋敷に行った?)
興味深かったからだ。ダンテが。己をひとではないと言う彼が。暗い屋敷に独り、息を潜める
ように暮らしているいきものが。
顔を合わせても何を話すわけでもなく、しかしバージルはダンテを夜毎訪れた。何故? 理由は
単純かつ明快だ。会いたかった。話をする必要はなく、ただ顔を見て、同じ空間にいたかったのだ。
そこに、性的な慾望があったかと言えば、ない、とバージルは否定する。いや、したい、と言う
べきなのだろう。
それが答なのだと、耳の奥で囁く声がする。夜毎、ダンテを訪れた理由――――彼を抱きたいと
思っているからだということを、しかしバージルはまだ認めたくなかった。
(俺は……ダンテをどうしたいんだ)
友に、などと薄ら寒いことは考えてもいない。ならば、やはり――――ダンテに合わせる顔がない。
だと言うのに。
(何故あんなことを口走ったのか)
――――明日、また来る……
言い訳をしなかったダンテ。あの男との関係を、ダンテはバージルに何も説明をしなかった。
バージルが訊かなかったこともあるが、バージルはダンテの口から、無理矢理強要されているの
だと聞きたかったというのに――――ダンテがそれをしなかったのは、つまりあの男と交わることを
享受しているということで、バージルが口を挟む余地はないのだ。だから、バージルはそのことも
含め、ダンテの屋敷にはもう訪れるべきではないのである。しかし。
ダンテに二度と会わない。そんなことは出来ないと、バージルは強く思っている自身に気付いては
いない。
抑えられない。こんな衝動を自分が持ち合わせているのだと、初めて知った。
屋敷はやはりひっそりとして、暗い。バージルは街路から屋敷を見上げ、目を眇めた。自分の
愚かさにため息が出る。風がそよぐたびに街路樹の葉がざわざわと揺れ、それがまるで自分を
嘲笑っているように聞こえてしまう。
引き返せ。それがおそらく一番良い方法だ。
言い聞かせるように口の中で呟くが、足は止まったまま、目は屋敷を見上げたまま動かない。
またため息が出た。
引き返したくないのは自分。躰が意思とは別に動かないわけではなく、相反する気持ちが足を
この場に止どめているのだ。そして自分がどちらの気持ちに傾いでいるのかも、バージルは判って
いた。
立ち尽くしていた足が、一歩踏み出す。足の伸びた先には暗さばかりが目立つ
“幽霊屋敷”――――
それは奇妙な光景だった。彼女はいつもより遅くに帰路に就いた。街灯の下を通る足が急いで
いるのは、彼女の父がひどく厳しい人間であるからだ。今どき夜八時が門限など、どこのお嬢様かと
笑いたくなる。しかし彼女にとって父は、幼い頃から恐い存在だった。叱られたことは一度か二度。
しかしそれだけで、父の怒りは彼女に充分な恐怖心を植え付けた。
遅くなった理由は、先月から付き合っている恋人のアパートに寄っていたからだった。父に彼の
ことは伝えていない。きっと叱られる、と彼女は頭から思い込んでいた。
家まではこのスピードでなら五分もかからない。その前に例の幽霊屋敷の前を通らねばならない
ことが、彼女には憂鬱だった。
普通ならば憧れの的になるだろう、大きな屋敷。しかし付近の住民は皆、屋敷を薄気味悪いと
言って近寄らない。彼女もまた例外ではなかった。
友人のジムがこの屋敷に目を付けたときも、彼女はグループの輪には入っていたが、話には
ほとんど参加しなかった。ひとを見たとジムが鼻息も荒く言い出したとき、彼女は知らず身を
竦ませていたものだ。
そのジムは、突然行方不明になってそれきり何の音沙汰もない。きっとあの屋敷が関係している
のだと、彼女は一人確信していた。しかし確かめる勇気はなく、今日も足早に屋敷の前を通り
過ぎるだけ――――しかし今夜は、いつもとは違っていた。
「え……」
街路樹のものではない影がある気がして、彼女は思わず足を止めた。足音を潜め、そうっと
そばの街路樹に身を寄せる。人影は幽霊屋敷の正面にあり、見上げるような恰好で立ち尽くして
いる。
(こんな時間に、)
暗がりに目を凝らして、彼女は「あっ」と声を上げそうになった口を咄嗟に手で覆った。
人影が屋敷の門を軽く押すと、鍵が掛かっていないらしく門はまるで重さを感じさせずに内側へ
開いた。彼女は目を丸くしている間に、人影は門をくぐって中に入って行く。慣れた――そう、
手慣れているように見えて彼女は思いがけず困惑した。
彼女の戸惑いを余所に、人影はするすると屋敷の中へ入ってしまったようだ。何故鍵が掛かって
いないのか――――ジムの言っていたことは本当だったのだろうか。誰か住んでいるとすれば、
鍵が開いていても不思議ではない。だからきっと、そういうことなのだ。しかし、疑問は残る。
(どうして、バージルが……?)
別段親しいわけではない、大学での同学年の青年の名を、彼女が覚えている理由は単純だ。
バージルはあまりに秀でた容姿故にひどく目立つのである。学内で彼を知らぬものは珍しいと
断言出来る程だ。彼を狙っている女の子の多さと、誰一人想いを成就させていないことでも、
ある意味有名である。
その彼が。およそ幽霊屋敷などに興味を示そうには思えぬ彼が、何故。
判るわけがない。彼女はちょっと屋敷を見上げ、ひとつ身震いして帰路を急いだ。もう完全に
門限を過ぎている。どう言い訳をしようか……考えている間に自宅の玄関ドアは目前に迫って
いた。
街灯の光より他に光源のない廊下は、当たり前だが暗い。闇に近い暗がりに慣れてしまっている
ことに多少の動揺を覚えながら、バージルは弱々しい光だけを頼りに廊下を渡っていく。目指す
のは、突き当たりの窓のない部屋――――ダンテの棲む暗闇だ。
他よりも重厚な造りの扉のノブを、バージルは掴んだまましばらく立ち尽くした。ここまで来て
開けぬわけにはいかず、踵を返す気もないのだから早く開ければ良いものを、バージルは柄にもなく
躊躇した。
バージルを押し止どめるものは、小さな不安――――もっともバージルに自覚は
ないが――――だ。
開けて、また情事の最中などであったらどうすれば良い? それよりも、ダンテに何故また来たの
かと問いただされたら? 出て行け、と追い出されでもしたら?
どれも、バージルにとっては起こって欲しくない事象である。だから、躊躇した。
ダンテのことになると、どうにも弱気になっていけない。あんなものを見てしまう前は、
こんなふうに気弱になることなどなかったというのに。
バージルは一種の諦めを胸に、ノブを捻った。
厭われたくない。そう強く願っている自身に、バージルはまだ気付かない。
バジ、別人…?
[07/10/15]