燈火トモシビ









今自分が出て来た屋敷を、バージルはつと振り仰いだ。ひっそりとした静寂に満ちた暗いばかりの 屋敷は、どこか人を拒絶しているように見える。

(黒い……)

自分が今までここにいたとは、思えない程に屋敷は外部のものを拒んでいる。確かにバージルは この屋敷の中にいて、彼と言葉を交わしていたというのに。

彼――――ダンテは、この屋敷に独り暮らしている。人間ではないらしいが、ならば何なのか バージルは知らないし追求もしていない。ダンテが何者であろうと、バージルにはさして大きな 問題ではないのだから。
むしろ人間ではないと知って、バージルは自分でも意外だが安堵すらした。一種異様な屋敷に 住まうひとではない人。しかし言葉はひとのそれ。どこか浮き世離れしたダンテに、バージルは 純粋に惹かれている。

別れる間際、ジムのことをそれとなく問うてみたが、ダンテは知らないと言った。嘘を言って いるふうではなかったと、バージルは思う。しかし実際に、二週間程が経ってもジムはいまだ 戻っていない。
親が捜索願を出した為か、大学にも警察を名乗る人間が何度か現れたが、それも しばらくすればなくなるだろう。行方知れずの人間は、ただでさえ多い。何らかの事件に巻き 込まれていようがいまいが、それらの人間を総て捜し出す為に割ける人員も金も警察にはない。
バージルとて、ジムの行方を捜そうとは思っていない。ダンテに尋ねたのは、確認したかった からだ。

この屋敷に忍び込んだ後、姿を消したジム。侵入者を、“人間ではない”ダンテはどうした のか。

ダンテは何故そんなことを訊くのか判らぬと言いたげに、知らないと答えた。嘘ではない筈だ。 ならばジムはどこで消えたのか。

(何かある。そんな気がしてならない)

黒い屋敷はひっそりと、立ち去るバージルを見送った。

子どもの頃から、バージルは何ごとにも興味の薄い性格だった。当然ながら今も、言ってしまえば 学業にすら興味はない。好いた女がいるわけもなく、親しい友人を作る気もなくここまできた。 そのバージルが、およそ生まれて初めて興味を持ったものは、人間ではないと言う一人の男。

まるで皮肉だ。





誰もいない部屋に帰って来るのはもう慣れた。母が亡くなってから、バージルは一人で暮らして いる。
母方の伯父から一応の援助は受けているが、伯父のほうもバージルに同居は勧めて来ない。 何を考えているか判らない、と伯父が言ったのはバージルがまだ小学生の頃のこと。伯父には バージルが、得体の知れぬ何かに思えてならないのだろう。

援助の金には伯父の妥協がよく現れているとバージルは思う。煩わしさを厭うバージルには、 丁度良い扱いだった。

父は知らない。物心付く頃にはもういなかった。母は夫の写真すら持ってはおらず、バージルを 父似だと言うだけで詳しいことは何も聞かされたことがない。しかしバージルは母がいれば充分 だったし、母も再婚しようとはしなかった。
バージルは不幸ではなかった。母が亡くなった今も、バージルは自分を不幸だとは思わない。 けれど。

仕合わせとはどういうものなのか、バージルは知らない。

参考書とノートを開いてみても、勉強をしようという意欲はまるで沸いて来ない。思うことは 何故か、黒い屋敷に住まうひとではない彼のことばかり。確かに惹かれていることは認めるが、 何故こうも気になってならないのか、バージルには判らない。――――慣れない感覚だ。誰かの ことばかり想うなど今まで経験したことがないだけに、判らないとしか言いようがない。
バージルは開いた本とノートをそのまま放置して、シャワーを浴びて眠ってしまうことにした。 身の入らない勉強はするだけ無駄だ。



今朝の大学の講義は二限目からだ。と言って、バージルが朝ゆっくり眠っていることはまずない。 六時半、遅くても七時には目を覚ます。就寝時間が遅かろうが起床には影響しない。
ベッドから下りると僅かにだが足がふらついた。あまり眠れず、夜明け頃までうとうととしか 出来なかったからだろう。眠くてならないとは思わないが、頭は重い。軽く頭を振って、寝室を 出た。

いつものようにエスプレッソを淹れ、ソファーに腰を下ろして新聞を読む。ふと、ダンテは何を しているのだろうと思ったが、きっと寝ているに違いないと思い無意識に笑みを浮かべた。





講義は相変わらず詰まらない。ドクターの学位を持つ教授の話を、バージルは聞き流しながら 窓の外を眺めた。代わり映えのない景色。しかし変わったように思うのは気の所為だろうか。
二週間前とは、世界そのものが違うようにバージルは思える。実際には何一つ変わったところは ないのだけれど。

変化があったとすればバージルの心一つ。それだけで、あたかも世界が変わったかのような錯覚に 陥るのだから奇妙なものだ。もっともバージルは己の心に変化があるとは自覚していないが。

珍しくぼんやりとしていたバージルの耳に、不意に鳥の羽ばたく音が届いた。窓はぴったりと 閉じている。不審げに眉を寄せたバージルの目の前に、その鳥は羽根を休めた。白い羽根と 黒っぽい躰。脚は鳥にしては異様に太く、鉤爪は金属のように光を弾いている。

(鳥、か……?)

違うとすれば何なのか、バージルは鳥と言うしかないものを凝視した。
鳥はバージルの視線に気付いたように、脚を入れ替え首を巡らせた。振り向いたそれの顔を見て、 バージルの眉間にいっそう皺が刻まれる。
嘴がないのだ。鳥ならばあるべきものがない場所には口があり、その少し上には鼻がある。 猿に似た顔を持つ鳥――――右目は醜い傷跡があるばかりで眼球はなく、左目は禍々しい紅だ。

何だこれは。誰が答えてくれるわけでもない問いを脳内で呟くバージルの目の前で、それは にたりと笑った。尖った牙がびっしりと並んだ口は、まるで猛獣のようだ。

――――成程な。

それの口がぱくりと開き、言葉を紡いだ。低い声だ。

――――あれが気に入る筈だ。くくっ、不毛なことを……。

意味の判らないことを言いたいように言って満足がいったのか、それは羽根を広げて飛び去ろうと する。この鳥に似た何かが自分を目当てにやって来たのだということは明らかで、しかし不快感を 与えるだけ与えて去ろうとするなどどういう了見か。

「待て、」

講義中だということも忘れて声を上げたバージルを、周囲の学生だけでなく教授までが話を止めて 眉を顰めた。しかしバージルは周囲のことなど気に留めてはいなかった。
それはふわりと窓の縁から離れ、こちらを蔑むように見下ろした。

――――今宵もあれの処に来るつもりだろう。俺のことはあれが知っている。訊きたければ訊け。 あれとはもう、長い付き合いでな。

ばさりとはためく白い翼。遠ざかる影を見送ることなく、バージルは奇妙なざわめきに包まれた 教室から飛び出した。





夜になるのを待てず、バージルは明るいうちにあの屋敷へ向かった。鳥に似た何かが示した “あれ”とは、バージルの思い違いでなければダンテのことだ。
人間ではないと言うダンテと、鳥のような形をした何が見知った間柄であっても不思議では ないが、それにしてもあの言葉の響きは不快でありすぎた。

何があるのか、ダンテに追求したとて無意味ではないのかと心の中で誰かが問う。しかし バージルの足は止まらず、気付けば屋敷は目前だった。

辺りを一通り見渡し、人目がないことを確認して門をくぐる。鉄扉はやはり軽く、バージルを すんなりと招き入れる。玄関扉も、そうだ。
屋敷は昼ですら薄暗い。窓から申し訳程度に射し込む陽は、まるでこの屋敷だけを照らさぬよう 顔を背けているかのようだ。実際、そうなのかもしれない。ダンテの寝室には窓が一つもない。 家の間取りとして、地下室でもないのに窓がないのは不自然だ。わざと窓を作らなかったか、 塗り込めたか、どちらかだと考えて良いだろう。では、何故そんなことをする必要があるのか。

(光に当たると拙い理由……)

人間ではなく、光を嫌う。それの示すものは――――

ダンテの寝室のドアの前で、バージルは少し躊躇した。知らぬほうが良いことを、自分は 追求しようとしているのではないか。このまま踵を返すべきなのではないか。逡巡は、けれども 短かった。
ドアを開ければ、そこにあるのは闇。慣れたことである筈が、バージルは部屋に入る為に足を 踏み出すことが出来なかった。

「……ッ、……」

不自然な息遣いと水音。寝台の軋み。その合間に時折漏れる掠れた声の艶っぽさ。闇はいつもと 変わらぬのに、空気の濃厚さは異常な程だ。
天蓋から吊された帳の中、何が行われているのかは明確で、バージルはしかし理解出来ずに 立ち尽くす。理解したくないのだ。
寝台の上にいるのはダンテではない。この声はダンテのものではない。
そう思い込もうとする反面、ダンテに違いないと冷静に判断している自身がいる。

(これは、何だ)

生々しく肉の交じる音に耳を塞ぎたくなるが、手が動かない。引き返せと足を叱咤するが、 全身が麻痺したかのように指先すら自由にならない。

切羽詰ったような声が響き、バージルはようやく、自分が愕然としていることに気が付いた。



















前?
次?
戻。



間男…

[07/8/31]