燈火
真夜中の空に飛ぶ鳥を、その目に留めてはならない。
純白の翼は神々しい光を放ち、あたかも神聖なもののように映るだろう。しかしその鳥の本性は
獰猛な獣であり、時に人を襲い血肉を食らう。
もし夜更けに飛ぶ鳥を見たならば、目を閉じ耳を塞ぎ、じっと鳥の羽ばたきが過ぎ去るのを待つ
ことだ。
彼は独り、明かりも点けずベッドに横たわっている。何をするでもなく、そもそも何をすることも
ない彼は、毎日ただ時間が過ぎていくのをぼんやりと眺めるばかりだ。
屋敷はどこもかしこも暗い。それは今が宵であることも理由の一つではあるが、屋敷には一粒の
光もないというのが大きな理由だ。
彼は一切光のない闇にあっても視力を失うことがない。明かりがあれば見えにくくなるという
ことでもなく、しかし暗闇でも変わりなく見えるのだから明かりが必要と感じることはない。
その為屋敷のどこにも、ほとんど明かりを灯したことがなかった。
ひっそりと、息を殺すように毎日を過ごしている。その所為で周囲からは無人の屋敷だと思われて
いるとは、彼は知らないし関わりのないことだった。別段、近所付き合いをしようという気もない
のだから、周囲にどのように噂をされていても、所詮は彼の預り知らぬところで起きていることで
しかないのだ。
ふ、と息を吐いた。独りでいることには慣れているし、不自由に感じたことはない。そもそも
何ごとにも無頓着な彼は、自身のこともほとんどおざなりだ。
屋敷をこの土地に移築したのは、ほんの気紛れからだった。いい加減どこかへ移れ、と言われたの
はいつのことだったか。屋敷ごと引っ越したのは、内装を一から整えるのが面倒だったからで
あって、深い意味はない。
以前は、人里離れた森の奥に住んでいた。時折人が迷い込むこともあったが、それ以外では
一切人と関わることはなく、それを見兼ねた者が苛立って街に移れと言ったのだった。
どこに住んでいようと、彼は結局、ほとんど屋敷を出ることはない。街にいるからと言って
便利だと感じることもないし、森の奥にいた時も不便さを覚えたことはなかった。彼にとっては、
自分を含めた世界の総てが他人事に相違なかった。
――――バージル。
呪文のように、不意に脳裏に浮かんだ言葉を口の中で唱える。先日、屋敷を訪れた若い青年だ。
青味を帯びた銀髪に蒼い双眸、張りのある声。どこか自分に似た――――しかし雰囲気は
全く違う――――青年だった。
我知らずため息が漏れた。その時、
「物憂げな溜息だな」
重低音のバリトンが部屋に響いた。ダンテは億劫そうに躰を起こし、しかし鋭く闇を見据えた。
屈強な体躯の男が、闇に溶けるようにそこにいる。
「何の用だ」
あからさまな嫌悪を示す彼に、突然の来訪者は眉を顰めることもしない。むしろ不快感を隠さず
あらわにする彼を、面白がるようにくつりと低く笑った。
「そう尖るな。ようやっと街に出たかと思えば、相も変わらず引き籠ってばかりだろう。案じて
様子を見に来てやったのだ。邪険にされるいわれは無い」
「よく言う……自分の飯のついでだろうが」
彼が前髪を掻き上げると、男はくっくと笑い、ベッドに近付いた。全身を黒で固めている為、
本当に闇に溶け込んでしまいそうだ。
「無論。本能には逆らえん。愚かにも本能を棄てた貴様とは違ってな。良い加減諦めろと言うのに、
まだ駄々を捏ねるとは、その愚かさに磨きが掛かっているらしい」
「……お前の話は聞き飽きた。そっちこそ、いい加減諦めたらどうだ」
彼が吐き捨てるように言えば、男はつと目を細めた。
「そうは行かぬ。貴様に死なれては困るのでな」
ぎしりとベッドが軋む。男が彼のすぐそばに膝を乗せたのだ。覗き込むように顔を近寄せる男を、
彼は見据えたまま。息の触れる程近く――――男の右目は潰れ、ざっくりと傷跡が残っている。
およそ穏やかとはかけ離れた顔立ちだが、彼にすれば見慣れたものだ。今更怖じることはない。
「貴様は俺に生かされているのだ。それを忘れるな」
「そうしてくれと、誰が頼んだ?」
男の紅い目の奥に炎のようなものが揺らめいた。
「ふん。自ら命を絶つことも出来ぬ者が、何をほざくかと思えば」
嘲笑する声が不快で顔をしかめれば、やはり男は彼とは反対に上機嫌になるようだ。嫌な性格だ、
とは、今更のことだけれども。
口を噤んだ彼の唇を、男が笑みを浮かべたまま舐めた。
「荒れているな。だから諦めて喰えと言うのに」
言ったところで無駄だと、判っていてあえて言ってやっている。そんな恩着せがましい声音に、
彼の機嫌はいっそう下降するばかりだ。
「煩ぇよ」
ぼそりと言い捨てる彼の首筋に、男が笑いながら顔を埋めた。押しつけられる唇の冷たさは
慣れたもので、しかし目の前に男の肩口が来るのは慣れたいものではなかった。どくり、と心臓と
いわず全身が鳴る。彼の喉が無意識に上下したのを、男は目敏くも見逃さなかったらしい。
「喰え。やり方を忘れたなどとは言わぬだろう?」
低い笑い声に吐き気がする。しかし何より呪わしいのは、結局のところで本能を棄て切る
ことの出来ない自分自身だ。
「くそッ……」
男は彼の悪態に笑い、顔を上げぬまま襟を緩めた。男のあらわになった肩口の隆起した筋肉に、
彼は堪り兼ねたように唇で触れた。そうだ、と言わんばかりに男が笑みを深くするのが判る。
クソ。彼は内心で吐き捨てながらも、男の首筋――――どくどくと脈打つ血管を意識せずに探して
いた。
口の中で、硬く尖ったものが舌に当たって不快感をもたらす。しかしそれ以上に、この先の
快楽を思って躰が疼いた。
「さぁ、餌の時間だ」
皮切りは男の声。ぶつり、と。彼は男の首筋に、尖った牙を突き立てた。
ダンテ、と呼ばわる声にはっとする。ぱちりと瞬いた先には銀髪碧眼の青年が、訝るように
眉根を寄せている。
「あぁ……済まん、」
何を話していたわけでもなかった筈だが、客があるにも関わらずダンテの心がここに在らずでは
礼を欠く。もっともこの青年――――バージルを、ダンテは客として迎えたわけではないのだ
けれども。
バージルはこの街に住む人間だ。先日、招かれたと言って屋敷に訪れたのが初めで、それ以来
夜になると決まってダンテの寝室を訪れるようになった。ダンテは招いたつもりはなく、本音を
言えば寄り付いて欲しくないのだけれど、バージルの有無を言わせぬ口振りに何故だか諾々と
丸め込まれて現在に到っていた。
バージルは自分から何かを話すことはない。ダンテも同じで――――昔々はそうではなかったの
だが――――、話らしい話は二人の間にはない。ただ同じ空間にいるだけ。二時間程経つと、
バージルは「また来る」と言って、来た時と同じように勝手に屋敷から立ち去るのだ。その間、
ダンテはもてなしらしいこともしない。本当に、ただ同じ空間にいるというだけだ。
「何を考えていた?」
その言葉をそのまま返してやりたい。そう思ったが、やめた。
「さぁな……茶でも飲むかとか、そんなところだ」
ふん、とバージルが鼻を鳴らした。まだ若い筈だが、妙な威圧感がバージルにはある。
不快感しか催さないあの男とは、また違う類の圧迫感だ。
「茶など、あるようには思えんが?」
「探せばどっかにあるだろう。……多分」
キッチンには適当なものを作りに行くことはあるが、それも最低限の器具と食器しか使わない。
飲み物は専ら水か、さもなくば酒だ。茶などという気の利いたものは、ずっと前に一度見たことが
ある、程度の記憶でしかなかった。
「それで、何を考えていたんだ?」
あっさりしている(淡泊な)ように見せかけて、バージルは意外にしつこいところがある。
何を話すでもないというのに、ダンテがぼんやりしていると決まって何を思い耽っているのか
問うてくる。
ダンテは憮然として、別に、とバージルの足許に視線を落とした。バージルは椅子に、ダンテは
ベッドに腰掛けている。距離はおよそ三歩。近くはないが遠くもない、半端な間合いだ。
「お前は……この屋敷に独りで住んでいるのか?」
何故だかダンテよりも憮然として、バージルが今更のように言うのへ、ダンテは首を傾げた。
「他に誰か住んでるように見えるか?」
いや、と即座に否定され、ダンテは肩を竦める。
「なら……」
「だが、お前以外の気配がしたのでな」
自分以外の気配。それはあの男のものに違いないだろう。思ったが、ダンテは、疑わしげに
言うバージルに首を左右にして見せた。
「ここには俺しかいない。もうずっとな」
「前にはいた、ということか?」
「さぁな、忘れた」
ダンテが嘯くのをバージルはどう受け取ったのか。眉間に皺を寄せ、黙りこくってしまった。
扱いにくい坊やだと、ダンテはバージルに判らぬ程度にため息を吐いた。
歳を食うごとに面の皮ばかり厚くなっていく。今はもう、少しのことでは動揺がおもてに出ない
ようになっていた。おそらく若いバージルには、ダンテの内心を読むことは出来ないだろう。
「バージル、なんでここに来るんだ?」
何もない、何の用もなさない空間ばかりの屋敷に、バージルは何の理由があって何度も訪れる
のか。ダンテは問わずにはおれなかったが、バージルには問われること自体が不可解であった
らしい。
バージルの眉間の皺が深くなった。訊いては拙かったか、と問い掛けを取り消そうと口を開いた
ダンテより先に、バージルが囁くように言った。
「……お前に会いに来るという理由だけでは、不満か」
素直なことは良いことだ。が、真面目な顔でそんなことを言われて、どう反応をしろと
いうのか。
ダンテは目を瞬かせ、言葉を失うしかなく。その反応がまた不服だったのか、バージルはダンテを
睨むようにじろっと目を光らせた。
「何か言え」
そんな無茶な、と内心で訴えながら、ダンテの口は別なことを口走っていた。
「俺は人間じゃねぇのに?」
「関係ないな。俺が偶然にも人間で、お前はそうではなかったというだけのことだ」
「俺が人を喰うと知っても、アンタは同じことを言えるのか?」
その問いは言葉にはしなかった。代わりに、というわけでもないけれど、
「……そういうもんか……?」
心底不可解そうに呟いておいた。実際、バージルの言葉はダンテには不可解も良いところだった
のだから、嘘の反応ではない。しかしバージルの言葉以上に不思議なことは、バージルが言うの
だから、と半ば納得している自分自身だ。
そういうものだ、と言い、バージルはゆるりと腰を上げた。
「また、来る」
いつも――――と言える程会ってはいないが――――、バージルは何かにつけて唐突だ。
ダンテはひょいと肩を竦め、送る、とベッドから立ち上がった。バージルが先に立ち、ドアへと
向かう。もうずっとこうしているかのように、バージルの所作には万事躊躇いがない。ダンテも
また、ごく自然にそれを受け入れているのだけれど、自覚してはいない。
廊下には明かりを灯さない。ダンテは暗闇でも見えているし、バージルはいつも持ち歩いている
のか、懐中電灯で足許を照らしている。ダンテが明かりを点けるのは、実質窓のない寝室だけだ。
屋敷がひそりと静まっているのはいつものこと。しかしダンテは不思議に思う。バージルが自分の
前を歩いているという、この現実にあるまじき状況は何なのだろうか、と。何故だか心が安らぐ
ように感じるのは、何故なのだろうか。
「ダンテ、」
階段を下りながら、バージルが振り向かずにダンテを呼ばわった。返答は求めていないのか、
返事をしなかったダンテに何を咎めるでもない。
「俺が初めに来るよりも六日前に、誰かここに入り込まなかったか?」
「? さぁ……知らねぇが、なんでだ?」
バージルは階段を下り切ったところで足を止め、
「……いや、知らないのなら、良い」
相変わらずこちらを見ないバージルの背中。ダンテはどこかが寒いような感覚を覚えた。
「バージル?」
呼び掛けると、バージルは肩越しに流し目を呉れた。
「何だ」
「ぁ……、何でもねぇ。また、な」
「……あぁ、」
煮え切らないまま、バージルはいつものように屋敷を後にした。ダンテは音もなく閉まった扉を
眺め、しばらく、その場から動くことが出来なかった。何故かなど、ダンテ自身にも判らない。
バージルの名残を捜すかのように、無機質な扉をただ見つめていた。
[07/8/1]