燈火
“幽霊屋敷”――――どこにでもある、他愛のない噂話だ。
バージルは肩を竦め、噂話で盛り上がる男女数名のグループを避けて窓際の席に腰を下ろした。
ありきたりな噂に聞き耳を立てる程物見高くはないが、その中心にいる男の声は嫌でも耳に入って
来る。
「マジだって、本当に見たんだよ!」
嘘、だとか、まさか、だとか周りが半信半疑の反応を示す。このところ、彼らは毎日、幽霊屋敷の
噂に忙しい。他にやることはないのかと、バージルはノートを広げて嘆息した。
輪の中心にいる男は昨晩、思った以上に帰りが遅くなってしまい、近道をする為に仕方なく件の
屋敷の裏手を通ったのだと言う。
そんな詳細が、聞こうとしてもいないバージルの耳にしっかりと
入るくらい、男は声高にまくし立てている。はっきり、煩い。しかし注意を促すことはしなかった。
それこそ面倒なことだ。
男は屋敷の裏手を足早に抜けようとして、ふと足を止めて屋敷を見上げたらしい。このまま通り
過ぎてしまうより、屋敷に何が棲んでいるのか確かめるべきではないか、と。屋敷に忍び込むか
どうか悩み、居並ぶ窓を眺めていると、その一つに。
「いたんだよ、人が」
「人? なんだ、じゃああの屋敷、普通に人が住んでるんじゃない」
「違うよ。姿形は人だったけど、あれは人間じゃねぇって」
「何で判るんだよ? そいつが化け物にでもなったのか?」
混ぜっ返すように一人が言い、笑い声が起こる。男――――確か名前はジムとか言った――――は
馬鹿にされたと思ったのか、机を思い切り殴り付けた。
「もう良い! てめぇらなんかに話した俺が間違いだった」
吐き捨て、一人グループから離れた席に座るジムに、仲間たちはやれやれと肩を竦めたりため息を
吐いたりしている。ジムは短気なところがあり、ほとんど付き合いのないバージルでも知っている
程度に、よくキレる男だ。
大学の講義はバージルにとって、あまり身に着きそうにないものばかりだ。バージルが目当てに
している講義は一つか二つで、それ以外は皆、単位を得る為に受けているだけでしかない。日の
大半は退屈を持て余す。
大学に進学出来るものは限られており、バージルはその一握りの一人ではあるのだが、それを
光栄だと思ったことはない。大学へ進学したのは、あくまでついでだ。
子守歌のような講義を熱心に聞く気にもなれず、バージルは今朝のジムの話を思い出していた。
別段、幽霊などに興味はない。いる、いない、で物議を醸す程暇でもなく、また幽霊など存在して
いようがいまいがバージルにはどうでも良いことだ。バージルが気になっているのは、屋敷の
ほうだった。
閑静な住宅街の一角に、件の屋敷はある。バージルも知っているその屋敷は、最近になって
移築されたものだ。それ以前、その一角には雑木林が繁っていて、まさか家が建つとは誰も
思わなかった。だからだろう。ただの移築だというのに、住民の口に噂が上らない日はなかった。
そしていざ家が建ってみると、これまた噂にならずにはおれぬ、古い大きな屋敷だった。
たいていの人間は、噂話と悪口を好む。屋敷はその、格好の獲物だった。もっとも様々に綴られた
噂話も、日が経つごとに一つ二つと消えていった。屋敷はひっそりとそこにあるばかりで、住民が
喧しく噂したどの内容に当てはまることもなかったからだ。
その中で一つだけ残った――――取り残された――――噂が、“幽霊屋敷”である。
屋敷には未だ、人が住んでいる様子がなかった。建物だけを移築し、誰も住まないなど無意味も
良いところだ。周りの住民も、屋敷に誰か越して来たところを全く見ていなかった。そして誰も
いない屋敷のわりに、家が廃れないことが噂に信憑性を持たせたらしい。
人を住まわせていない家は、みるみるうちに廃れるものだ。隅々まで手入れをせずとも、人が
住んでいるだけで家というものは生き生きとする。屋敷はまるで誰かが生活をしているかのように、
廃れる様子がなかった。誰かが手入れをしているのかもしれないが、それにしてはひっそりとし
過ぎている。その為今ではすっかり、幽霊屋敷という名が定着してしまっていた。
ジムに限らず、屋敷を調べようとしたものはいた。しかしその誰もが、何故か唐突に屋敷への
興味をなくし、屋敷の話すら一切しなくなっていた。それは妙だ、と初めこそ誰もが気味悪がって
いたものだが、今ではもう、そんなものがいたことすら忘れられている。人は忘却する生き物だ。
喉元を過ぎれば熱さを忘れ、そしてきっかけがなければそのまま放置し、時間とともに廃棄する。
そういうものだ。
しかしバージルは、屋敷に関する噂などを総て記憶しており、忘却していない。それは決して
幽霊に興味があるわけではないのだが、端から見ればそう思われても仕方ないかもしれなかった。
もっともバージルが例の屋敷に関心を持っていることを、知っているものは一人も
ないのだけれども。
夏の夜は短い。
バージルは肩を竦め、嘆息した。見上げる先には件の屋敷。物見高い性格だと噂が立つ程、
辺りに人気はない。誰もが寝静まった宵、バージルはじっと屋敷を見上げている。
屋敷の窓はどれも暗い。住人がいたとしても今は眠っている時刻だ。明かりがないほうが自然と
言える。
バージルは別段、屋敷の住人の有無を確かめに来たのではなかった。住んでいるならば見て
みたいとは思うが、見ても仕方ないと思っているのも確かだ。どうせ、屋敷には誰もいない。
ジムの目撃証言にどれ程の信憑性があるというのか。
嘆息したバージルの耳に、不意に誰かの足音が届いた。バージルは眉を顰め、街路樹の陰に
急ぐでもなく身を隠した。ただの通行人だろうが、こんな夜中に噂のある屋敷の前にいたとなれば
好奇の目で見れかねない。バージルの頭には、屋敷の前から立ち去るという選択肢はなかった。
足音は、妙に落ち着きがない。たったと住宅街に響き、そして何故か、屋敷の門前でぴたりと
止まった。バージルは不審に思い、街路樹から足音の主を見やった。
(あれは……)
街灯は暗く、よくは見えないけれども、姿形から見るにバージルの知っている人物によく似て
いる。ジムだ。もしかしなくとも、屋敷に棲む何かを確認する為に息を巻いてやって来たのだろう。
自分の話を信じなかった連中に、証拠でも突き付けるつもりなのだろうか。
バージルが窺っているとは気付きもせず、ジムは意を決したように頷いて辺りをきょろきょろ
見回した。門から少し離れた塀の一部が、街路樹の一本とほぼくっついているのを見つけ、勇んで
近寄っていく。ジムは街路樹に取りつき、よじ登った。彼が何をしようとしているのか、
ただすまでもない。
(馬鹿な真似を)
バージルは首を左右にし、ジムが塀の向こう側へ下り立ったらしい音を聞いてからその場を立ち
去った。ちらと見上げた屋敷は、やはりしんと静まっている。
翌日、ジムは休みらしい、と誰かが言っていた。バージルは少しばかり眉を顰めたが、ジムが
講義を欠席するのは初めてではなく、グループの誰もジムの欠席を不思議がる様子はない。たかが
休み程度で騒ぐようなことは、むろんバージルもしないし、するつもりもない。
しかし次の日も、ジムは大学にやって来なかった。その次の日もだ。しかもグループの誰にも
何の連絡もなく――――ジムは意外にまめな男で、毎日必ずメールをしていたらしい――――、
さすがに不審に思い一人がジムの携帯に電話をした。が、携帯は虚しく呼び出し音を繰り返す
だけで、応答はなかった。何度掛けても、同じだ。誰も出ない。
屋敷はひっそりと、しかし圧倒的な存在感でもってそこに佇んでいる。
バージルはやはり夜中に屋敷を訪れていた。屋敷には、一欠片の明かりもない。
門扉に手を掛けた。重厚な鉄はまるで牢の格子を思わせるが、門扉は軋みこそすれ、バージルの
手によって難なく内側へと開いていく。錠はどこへ行ったのか、あまりに不用心に過ぎる。
バージルは門の中に足を踏み入れ、そっと門扉を元に戻した。ぎ、と軋んでぴたりと閉まった
門扉は、まるで誰も通していないとでもいうように、バージルが開ける前と変わらない。
ちょっと屋敷を見上げ、バージルは玄関へと近付いた。見回した庭はすっかり草に覆われており、
しばらく誰も手を入れていないと語っている。寂れた庭に囲まれて、屋敷は沈黙を守っている
ようだ。
玄関扉には、お誂え向きのノッカーが張り付くように備わっている。バージルはそれを一瞥して、
しかし鳴らさずにドアノブに手を掛けた。無造作に捻ると、意に反せずノブが回り、軽く押すだけで
扉はバージルを迎え入れた。
まるで、誰かに誘い込まれているようだ。
誰もいない筈の屋敷。施錠されていない門扉と玄関扉。明らかな矛盾に、バージルは鼻を
鳴らした。誰か――――何か――――の誘いなら、むしろ望むところだ。
ジムは屋敷に忍び込み、そして消息を絶った。今頃家族が警察に届け出ていることだろう。が、
もしも本当に消えたのだとしたら? 自分のように、誘い込まれたのだとしたら?
(この屋敷には、何かある)
確証はない。言ってしまえばバージルの勘だ。しかしバージルはこの類の勘を外したことが
なかった。
外の街灯の明かりも届かぬ屋敷の内部は、纏わりつくような闇に包まれている。バージルは
懐中電灯の光を頼りに、玄関ホールを横切り正面の階段を上った。毛足の長い絨毯がどこにも
敷かれているらしく、バージルの足音は全く響かない。それがよけいに、屋敷に静寂をもたらして
いるらしい。
階段を上りきると、廊下が左右に伸びている。バージルは迷いなく、右へと足を向けた。廊下を
挟む形で左右に、それから廊下の突き当たりにも部屋が配置されている為、窓がない。壁にライトを
当てる。飾り気のない、言ってしまえば質素な壁に備わったランプも、やはり凝った装飾はして
いない。古いだけで、外装から予想される程に、この屋敷は豪奢ではないようだ。
廊下の突き当たりまで進み、バージルはドアの前で足を止めた。ライトに照らされたドアは、
そこだけが浮いたように重厚さを思わせる造りをしている。材質が違うのかもしれない。
この部屋だけが、奇妙に切り離された印象を受ける。
バージルは躊躇いなく、ドアを開けた。やはりそこも鍵はなく――――施錠されていないと、
不思議と確信していた――――、バージルは部屋へ明かりを滑り込ませた。一条の光が照らす
室内は、どこよりも闇が濃いように感じる。
ふ、と何か甘い匂いが鼻をかすめた。部屋に入り、後ろ手にドアを閉めるといっそう匂いが強く
なったようだ。誰もいない屋敷に、甘い香り。バージルはやはりと一人ごちた。
数歩先の床を照らしたライトの光。その楕円に、そっと映り込む影がある。人の足だ。
「誰だ」
誰何の声は、しかしバージルを威嚇するふうはなく。ただ突然の見知らぬ客に困惑しているような
印象だ。
「不作法は謝る。が、招かれたように思えたので、失礼した」
人か、それとも。バージルはライトを上げぬまま、淡々と応じた。相手にこちらを非難する色は
ない。
「そうか……。折角の客人だ、生憎歓迎は出来ないが、明かりくらい点けてやるよ」
ため息混じりに男――――低めの声からして――――が呟くと、唐突に部屋の一切の明かりが目を
覚ましたように光をたたえた。
やはりひとではなかったか。
バージルは内心で呟いた。驚きはない。予想の範疇だ。噂話は的を得ていたということになるが、
バージルには噂の正否などどうでも良いことだ。
明かりの中に浮かび上がるように、男の姿があらわになる。背が高く、バージルよりも一回り程
年嵩だろうか、髪は白に近い銀。ゆったりした開襟シャツから窺える首周りは、肉が削げたように
筋張った印象がある。透けるような白い膚だ。しかし痩せ型には見えないのは、それなりに
鍛えられた筋肉が覆っていると判るからだろう。
随分と、整った容姿の男だ。
男が長く伸びた前髪を掻き上げる仕種にすら魅入っている自分に、バージルは気付いていない。
穴が開く程見つめるバージルに、男が片眉を上げて頬を撫でた。
「そんなに物珍しいか?」
「いや、――――お前は」
何だ、と問うて良いものか、バージルは珍しく躊躇した。男はバージルの言葉の先を察したのか、
少し口許を緩めて言う。
「俺は人とは違う生き物だ。だからアンタを歓迎出来ないというわけだが……」
「バージルだ」
男が目を瞬かせる。バージル、と不思議なものでも食べたかのように口の中で呟いた。
「お前の名は?」
「聞いてどうする?」
「俺が聞きたいという理由では、足りないとでも?」
思いがけない返答だったのか、男は軽く目を瞠った。次いでふっと微苦笑を漏らす。
「面白い坊やだな」
「……名は教えた筈だが」
「あぁ、悪い。俺は……ダンテだ」
その場で適当に繕った名ではないらしいと、バージルは直感した。
「ダンテ、か」
奇妙な程唇に馴染む名前だ。響きも良い。
ダンテはこちらの反応を窺うように、少し上目遣いにバージルを見つめている。意識している
のではないだろうが、妙に艶めいた瞳だとバージルは思った。
――――バージルはその日、人ではないものとの、奇妙な出合いを果たした。
ぼんやり捏ねていたネタを出してみました。
面白いかどうかは、きっぱりわかりません。すいません。
とりあえず続きます。
[07/7/20]