塔――――V
そこに、闇があった。
瞳は蒼。暗い塔の、魔界の瘴気が薄く漂う闇の中に、しかしその双眸は輝きを放ち。
髪は銀。白にも見えるその糸は、群がる悪魔の血に濡れてもくすむことはなく。
血は、人か、悪魔か。
曖昧な、その危うさ故に美しい。
けれども造形の美しさを凌駕するものは、内に秘められた――――おそらく無意識に
押し込めているのだろう――――、闇。
雨が降っていた。
塔の内部にいるものに、その音は微かにも届かないけれど、確かに雨が降り始めていた。
朱と碧の双剣は、ひたすらに塔の攻略に奔走する“主”の背に揺られながら、外の雨を
聞いた。
主、と声をかけようとした碧い剣を、朱の剣は止める。声は立てない。それは“主”の
命令に従ってのこと。本来、彼らはよく喋る。それを辟易した“主”が、黙っていろと
命じたのだ。
使って欲しいなら、喋るな。
それは長く見ることのなかった、人間そのものの、言葉。
“主”が人間でありながら、悪魔の血をも持っていることを、彼らはすぐに悟った。
見目は確かに人間以外の何ものでもないが、その流す血は誤魔化せるものではない。
生き血を糧にする彼らだからこそ、“主”の力の根源をすぐに察したのだ。
悪魔。それも、およそ下級では在り得ぬ、上位を誇るもの。
人と交わり、子を成す悪魔は多い。しかし上位の悪魔はそのような手段は用いぬものだ。
半魔の子を成した上位悪魔は、後にも先にも一例のみ。しかし、長く塔に在り、外界へ
出ることのなかった彼らはその例外を知らなかった。
人と情を交わすことなど、端から彼らの頭にはないということもある。
彼らにとって人は、ただの糧でしかないのだ。
く、と柄に手が触れた。また、懲りぬ悪魔どもが群れを成して“主”を取り囲んでいる。
いかに数を増やそうと、所詮は無駄な努力だということが判らないらしい。
「ちっ……」
ある程度気分が落ち着いてしまえば、雑魚との連戦は面倒になるばかりだ。双剣は
“主”の見事な剣舞に溜息を漏らしつつ、その反面、冷静に観察を続けていた。
“主”の行く手を阻む悪魔のほとんどは、もとはこの塔の封印を担っていたものでもある。
二千年の昔、同胞を裏切り魔界と人界とを結ぶ穴を閉じた悪魔が、その力を以て封じた
悪魔の成れの果てだ。
彼ら双剣も、その悪魔によって封じられ、永く扉の守護を担ってきた。
封印そのものは、彼らにとって必要でも不必要でもない。彼らの糧は、人に限ったことでは
ないのだ。
だから、塔に取り残された瘴気に棲む、小さな悪魔の血でも、糧としては充足のいくもので
あったし、もし封印が解かれ、また人の血を啜ることが出来るならそれもまた良しという
程度のものだった。
封じられた悪魔を開放し、塔を人界に出現させた“人間”のことなど、取るに足らぬもの。
好きにすれば良い。その言葉に尽きた。しかし。
「いちいちうぜぇんだよっ……」
忌々しそうに“主”が叫び、朱の剣を振るう。炎を纏った剣に焼き裂かれ、悪魔が無様な
断末魔を上げて砂に還る。封印として名を奪われていた悪魔どもは、皆この世に現れる為に
砂を媒体としているのだ。だから絶命すれば、後に残るものはただの砂。
ざぁ、と崩れ、積もった砂を踏み付けて、“主”は双剣を背に負い直す。ぎざぎざの鋸状を
した刃を持つ彼らには、鞘というものはない。もともと“主”が得物としていた大剣にも、鞘は
なかった。ひたすらに斬ることのみを重視した刀身に、鞘など必要ではないのだ。
「どこまで登らせりゃ気が済むんだか」
“主”の独り言に、応える声はない。彼らはそれが、自分たちに向けられたものではないことを
知っているし、だからこそ、喋るなという命令がなされたのだということも、知っている。
――――煩い。黙れ。
それは、何があっても口出しするな、ということ。
重々しい溜息を吐き、駆け出した“主”の背で、彼らは思う。
本当に、このまま行かせても良いのか。
無自覚だろうが、急いた“主”を待つものは、きっとどんな夢よりも残酷な現実だ。
そんなものと、“主”を対峙させて本当に良いのか。
彼らはこの塔を甦らせた男を知っている。一度、見た。その容姿は、“主”と同じ。
違うことは、人としての匂いが“主”よりも格段に薄いこと。それ以外には、全く同じ。
魔界と人界とを繋ごうとする、闇に魅入られた男。そしてその背後にいた、人間の成れの
果て。
あれらと“主”が見えれば、どうなるか。
どうでも良いことの、延長。しかし彼らは、どうでも良いと言って割り切れはしなかった。
この、若い半魔を守らねばならない。
それは、永く生きる彼らが初めて知る、衝動のような感情だった。
塔の外は、冷たい雨が降りしきっている。
空が落とす水の粒は、刺すように“主”の膚を打ち、髪を、全身をしとどに濡らしてゆく。
昏い。碧の剣が、声なく呟いた。彼ら双剣には、音を発せず話す能力がある。しかし普段は
一切使うことがなく、久々のことに朱の剣が空気のみで笑った。
彼らの声帯は人とは違う構造をしている。確かに双剣も魔界の住人であり、それを鑑みれば
当然のことかもしれないが、彼らは正確には悪魔ではない。悪魔をも糧とする彼らは、一種の
独立した個体なのだ。
それは“主”と、その兄弟にあたるのだろう男にも共通したことだとは、彼らは気付かない。
無意識に核心を突いていながら、しかし気付かないのは、“主”とあの男があたかも違う
個体のように見えるからだろう。
近いな。主の剣は呟く。然り。碧の剣が静かに応じる。
“主”もまた、その気配を探り当てている。だから、逸っているのだ。
どこまでも続きそうな階段を登る脚は、速い。
急ぐな。碧の剣の押し殺したような声を聞くのは、朱の剣のみ。“主”にこの音は聞こえ
ない。
もし聞こえたとしても、“主”の脚が止まることはないのだと、朱の剣はよく判っている。
碧の剣の心が、己のそれよりも“主”に傾倒していることも。
心。悪魔とは違うが、それに近い彼らにそんなものがあろうとは、彼ら自身知らずにいた
ことだ。
“主”と巡り合うことがなければ、そして打ち破られることがなければ知ることもなかった
だろう。
冷たい雨に打たれながら、“主”はただ上を目指す。お喋りだ、と自ら言った唇は、
しかし先刻から何の言葉も紡いではいない。
曇ることを知らぬように見える双眸は、ただ前を見据え。
痛ましい姿だと、彼らは動かぬおもてを顰めた。
口出しは、しない。“主”がそれを望むなら、従おう。立ち塞がるものは総て、炎と風で
打ち払おう。しかし、“主”よ。
これは望んだことなのか。
己の半身と争い、どちらかを殺すことでしか終わらせることの出来ぬなど。
どうして、このような愚かしいことを。
彼らの憤慨はしかし、声にはされず。ただ、雨に濡れる二人の半魔を見る。
そうして、彼らは決断する。
“我らの主”を脅かすものを、排除すべし。