塔――――T
首に絡む銀の鎖を、男は邪魔そうに払おうとした。
彼はその、男の手を邪険に打った。
何をする、と男が不審そうに眉根を寄せる。
彼は面倒臭い、と言わんばかりに溜息をついた。そして一言、言った。触るな、と。
そんなに大事なのか? 男は片眉を持ち上げ、それをじっと見詰めた。
煩わしい。彼は興が反れ、一気に冷めていく自身の心をはっきりと感じた。
もともと、その気があってのことではない。ただ、目の前にこの男がいた。それだけの
ことで、誘いに乗っただけなのだ。
やめる、と彼が身じろぐと、男はさも驚いたように目を瞠った。自分が原因だとは
思いもよらぬのだろうその表情に、彼は嫌悪すら覚えた。
何故、と腕を掴み問い詰めてくる男が、鬱陶しい。今の今まで、相手など誰でも良いと
思っていたというのに、おかしなものだ。
黙ったままの彼に焦れたか、男の彼の腕を掴む手に力が籠もる。
痛い、とは思わない。男程度の握力で思い切り絞められたところで、彼には何の痛みも
もたらすことはない。
こいつは、駄目だな。
彼は喉の奥で呟いた。
もう、この男に付き合ってやるのにも疲れた。
顔を合わせてから、まだ一時間と経っていないが、それでも長いと感じる程、飽いた。
尚も押し留めようとする男を無視し、腕を離させた。
こんな価値のない男に掛ける言葉はない。彼は男に視線をくれてやることもせず、
その場を立ち去った。
男が追って来ようとする気配はない。その程度のものだ。
月の出た、闇の薄い空を見上げた。
夜はまだ長い。
寒い、と思った。
季節はもう夏に近い。が、寒い。
気温に因る寒さではないことを、彼は知っている。
だから、誰かを求めてしまう。
首から下がった銀のアミュレットだけが、やけに熱を持っているような気がした。
バージルが姿を消して、一年が経とうとしている。ダンテはあの日以降、スラムのような
狭く暗い路地に棲家を移していた。
以前の棲家は、バージルがほとんど独断で決めたものだった。だから、捨てた。
残されていたバージルの私物は、棲家と一緒に総て処分した。
双子の兄がいた痕跡を消そうとした訳では、別にない。ダンテはそう思っている。
バージルが失踪した理由を、ダンテはあの日から一度も考えたことはない。考えたところで、
兄が戻ってくるわけではない。意味のないことを、敢えてする気にはならなかった。
わざわざ捜そうと思わないのも、同じ理由からだ。
無意味を嫌う兄に、そういう処は似ているのかも知れなかった。甚だ不愉快だが。
ダンテは熱いシャワーを頭から浴び、乱暴に髪を掻き乱した。
白に近い銀の髪が、数本抜けて指に絡む。それを湯で流し取り、シャワーの栓を閉めた。
ぽたぽたと、髪から雫が垂れ、引き締まった躰を伝って滑り落ちていく。いつか誰かが、
この光景を見て、そそる、などと馬鹿なことを言っていた。誰かは覚えていない。ここ一年、
ダンテは毎回違う相手としか寝ていなかった。どこで誰と、など、覚えていよう筈もない。
しかし、覚えていることもある。相手がいつも、男だということだ。
女が駄目な性癖では、決してない。抱くなら女が良い。が、面倒なのだ。
後腐れのない女なら良いが、ダンテが今まで関係を持った女は、大抵がダンテに愛されたがった。
それが煩わしくて、長続きしたためしがなかった。抱くだけなら、夜に棲む女で事足りる。
そういう女をわざわざ求めることが億劫で、結局男に身を任せることの方が多くなった。
ただ、バージルがいた頃はこんなことはなかったのだが。
双子の兄弟には違いなかったが、彼らは肉体の関係を持っていた。
そのことに、強い疑問を持ったことはない。男同士であることや、兄弟であること、
それら総て、彼らの行為を止める要素にはなり得なかった。
愛していたとは、ダンテは思わない。バージルも同じだろう。
愛などというものは、彼らの間に在ろう筈がなかった。
もしどちらかが「愛している」など口にすれば、その時点で彼らは関係を絶っただろう。
愛ではない。ただ必要だった。
ダンテは、意識するではなくそう思っている。
男に抱かれることには、初めから抵抗らしい抵抗を感じなかった。体質なのかもしれない。
ただ寝ているだけで快楽を得られるというのが、心地好いと感じることすらある。
だから、女よりも男を相手にする方が多いのは、当然と言えば当然だった。
もっとも、満足のいったことは、何故か少ないけれど。
ろくに躰を拭きもせず、ダンテは茶の革パンツを穿いただけの恰好で浴室を出た。
髪を手で掻き、タオルを被ることはしない。いちいち水気がなくなるまで拭くなど、面倒だ。
これでよくバージルには小言を言われた。
何かにつけて口を出さずにはおれぬバージルに、ダンテはいつの時も辟易していた。
放って置けよ。何度言ったか判らない。バージルとは、いつも喧嘩ばかりしていた。
仲良く何かをした記憶など、皆無に近い。交合の最中ですら、喧嘩は絶えなかった。
良い兄弟ではなかった。それは当然だ。仲良くしようなどと、思ったこともない。
電話の音が聞こえた。けたたましく主を呼んでいる。ダンテは頭を掻きながら、急ぐでも
なくそちらに足を向けた。
部屋に入ると、まず受話器を取るのではなく、床に倒れている椅子を蹴り上げて起こした。
椅子の脚が総て床を掴むより早く、斜めになったそれに腰を落とす。脚を振り上げ、勢い良く机に
乗せた。激しい衝撃の所為で、受話器が浮いた。計算していたかのように、飛んだ受話器を
手で捕まえ、応答する。
「まだ開店前だ」
それだけ言い、電話を切った。
あの日から、ダンテはある仕事をして生計を建てている。自分の能力を生かした、言葉の通り
生業だ。
“悪魔狩り”
悪魔や悪霊など科学的には全く存在の赦されないものだが、確かにそれらは存在し、
時として人を襲う。ダンテには常人とは異なる血が流れている。その血が、悪魔らを狩る
力をダンテに与えるのだ。
裏の社会に潜むように生きていると、依頼はどこからともなく舞い込んでくる。一度、
依頼ではなく悪魔を殺したことがあった。苛々していた、ということだけ覚えている。
偶然目に付いた悪魔を一匹、常に携帯している銃で撃ち殺した。それを見ていた人間が
いたのかもしれない。その日から、ぽつりぽつりと依頼が増えるようになった。
気に入らない仕事は請けない。いくら金を詰まれても、興の乗らない仕事をする気には
なれないからだ。時には、こちらが若いと思い、侮ってくる依頼主もいる。そんな人間は
一切相手にしない。勝手に悪魔に食われれば良い。こちらは、人間を救うために悪魔を
狩っているわけではないのだ。
本当に救いたかったひとは、最早この世にいない。
誰を救ったとしても、心は冷えたまま――――一時的に暖かさを得らたとしても、
それは偽りでしかない。
ダンテは心が凍えるような感覚を殺すために、普段は強いておどけて見せたりする。
虚しい、そう思ってしまったら終わりだと、判っているから。
椅子の背もたれが、ダンテの体温を吸ってじわりと熱を持つ。気持ち悪いと思った時、
ドアが開き男が一人入って来た。
背の高い、剃髪の男だ。ダンテは肩を竦めた。
「せっかちなお客さんだな。悪いがまだ店は開けてないんだ」
トイレなら奥だぜ。揶揄うように言うが、男の表情はぴくりとも変わらない。気味の悪い
客だ。普通の人間ではないことは、入って来た瞬間に判ったが。
男は無言で、ダンテが戯れに置いたビリヤード台に触れた。縁に指を這わせ、ようやく
口を開く。
「スパーダの息子とは、君のことかね」
ぴく、とダンテは眉を上げた。
「だったら?」
男の抑揚のない声が、続けて言った。
「君の兄上から招待状を預かっている……」
始終外されていた男の目が、ダンテを映す。左右の目の色が違う。顔の半分を覆った
火傷のような痣が、生き物のように蠢いた。
男の視線はダンテではなく、ダンテが肌身離さず身につけているアミュレットに注がれている。
不快な視線を、しかしダンテは平然と受け止めた。男の言葉の方が、ダンテにとって興味が
湧いた。
兄――――
「きっと来てくれると、待っているよ」
言い切るのとほぼ同時に、男の手が閃き、ダンテが脚を乗せていた机を返した。ダンテは
椅子から腰を浮かせ、宙返りをするように空中で一回転した。床に足が着いた瞬間、腰に
差していた銃を持ち替え男に向ける。が、そこには誰の姿もなかった。
ダンテは小さく舌打ちした。やはり人間ではなかったか。しかし、悪魔とも言い切れぬものを
感じたのだが。
男の目的は、ただの挨拶だったのだろう。
売られた喧嘩は、買う。ダンテはにやりと口端を上げた。さして広くはない部屋を埋める
ように、黒い影が蠢いている。これも挨拶代わり、なのだろう。
やっとか。ダンテは口の中で呟いた。
一年。バージルが消息を絶って、一年だ。長かったのか。短かったのか。ダンテには時間の
長さなどどうでも良かった。
ようやく、来た。思うことは、それだけだ。
「派手なパーティーになりそうだ。せいぜいもてなしてくれよ、なぁ、バージル!」