塔――――序
その日、男は彼に何も告げず姿を消した。
彼はしかし、驚くことはなかった。
ただ、今日だったのか、とだけ思った。
母がこの世を去ったあの日から、彼はこの日が来ることを予感していた。
あの、母が悪魔によって殺された忌まわしい日――――彼らは己の無力を知った。
人間の母と悪魔の父を持つ彼らは、確かに通常の人間よりも強い力を持って生まれた。
しかし、彼らは若かった。
彼らの目の前で、母は死んだ。
何も、出来なかった。
あの時、彼は男の心に、絶対的な力への渇望が生まれたことを感じ取った。
彼自身、もっと強くなろうと決めたのは確かなことだ。
が、男のそれは彼の決意とは違っていた。
深い闇が、見えた気がした。
(あぁ……)
行ったのか、と彼は不思議な程冷めた心でそう思った。
これで彼のもとには己以外誰もいなくなったことになる。が、悲しいとは感じない。
ただ事実をそのままに受け入れるだけのことだ。
それに、と彼は銀糸の髪をかき上げた。
あの男とは、いずれ再会することになるだろう。そんな、確信に似た予感がする。
違うかよ、と内心で男に対して嗤った。
男は昔から、極端に過ぎる性格をしていた。
子供の頃からずっとだ。彼はそれを、男の傍らで常に感じていた。
自分とは違う、と。
どこがどう、とは説明出来なかったが、確かに男は彼とは異なる人間だった。
他の誰とも、違っていた。
誰も、男を理解することは出来なかった。
そう、常にともに在った彼ですら。
ただ違うことは、彼には男を理解出来ぬだけであったということ。
男と彼は、やはり根本で繋がっているのだ。
彼に男を理解し得ぬのは、理解するつもりもないからだ。
彼は男の考えることなどどうでもよかった。
どうせ下らないことだろう、と。
おそらく彼ら二人は、同じ疑問を心の底に持っていた。
――――己は、人間か。それとも悪魔か。
母はどちらであることも求めなかった。ただ彼らを慈しんで育てた。
父の顔は知らない。物心付く頃には父の影すらなかった。
彼らはただ、母とともに暮らしていた。
人間でも、悪魔でもなく。
常人とは違うという意識はあれど、どちらに成ろうともしなかった。
在りのままで。
非力だと思ったことは、母の死まで一度たりともなかった。
それは男も同じだったろう。
血の滲む程拳を握り締め、男は何を思ったのか。
彼にとって、それは安易に想像がついた。
彼は常に男とともに在った。
離れて過ごしたことは一度もない。
が、離れてみて、初めて判ることがあった。
男は、間違いなくもう一度姿を現すだろう。
そして、
そして……――――
二人は、高い塔の上で再会する。
降りしきる雨の中、交わされるのは言葉か、抱擁か。
それとも……