椿姫、弐
男好きのする顔立ち。下卑た酒場で聞いた、下衆な言葉が耳についていまだ離れないのは、
少なからず自分もそう思っているからなのか。それともあまりにも野卑に過ぎ、単純に印象が
強かったためか。判らないが、少なくとも自分が彼という存在を気にかけていることに関しては
自覚がある。
抹殺すべき相手としての認識以上の何かを、なぜ自分が抱くに到ったかは、まるで判らぬ
まま――そしてその何かの正体すらも判ってはいないのだけれども。
「――以上が今回の依頼だ。やってくれるな?」
断られるわけがないと確信を持った口調に、ギルバは一瞬間を置いて諾と応じた。実際、拒否する
理由などギルバにはない。それが例えば人命を多数奪うことを余儀なくされるものであったとして
も、ギルバは眉一つ動かすことなく承諾する。人の命など道端の小石程度にすら見ていないのだ。
それらを斬ることに躊躇はもちろん、罪悪感など抱こうはずがない。
いつの間にやらギルバのマネージャーのようになっていた仲介屋が、満面の笑みを浮かべた。
ギルバの肩でも叩きたいのかもしれないが、男の醸し出す雰囲気がそうすることを許さない。
そうした気安さというものが、ギルバには一切ないのだった。
「じゃあ、いつものようによろしく頼む」
言って、そそくさと席を立つ仲介屋を、ギルバは当然のことだが引き止めなかった。酒代を置いて
立ち去ろうとするのを見送ることもせず、グラスに残った茶系の液体をちらりと舐める。酒は
嫌いではないが、一度この酒場で馬鹿どもに飲み潰されて以来、ちびちびとしかやれなくなって
いる。
あの日のことは思い出したくもない。しかしあまりに強烈でありすぎて、時折ふと思い起こしては
自己嫌悪にかられていた。何とも人間らしい思考に囚われているものだと、自嘲もする。自分には
このような感情、必要ないというのに。
こう、なったのはあの日からだ。酒のせいではない。理由をつけるとするならば、彼と対面を
果たしてからというのが最も適切であろう。彼にはそれだけの影響力があるのか、それはよく
判らぬけれども。
彼は、ギルバの標的だ。同時に仕事の相棒でもある。前者は彼の知らぬこと、後者は彼にとり
大いに不服なのであろう。共闘する機会が増えたことで食いっぱぐれることがなくなった、と
おどけて見せることは多いが、実際仕事中には文句やぼやきこそ多くなる。つまりは不満なのだ。
かたくなに背中を預けようとしないことが、心を許していない証拠だろう。
ギルバは事実、彼の敵であるのだから、心など許さずとも問題はない。彼が途中で仕事を放り
出したとしても、ギルバ一人で片をつけることも出来る。つまり、彼がどんなにか不服を抱えて
いようが何の支障もないということだ。
が、しかし。
そこに、不満を抱いている自身を、ギルバはここしばらく持て余しているのだ。
溶けた氷がかろんと爽やかな音を響かせる。ギルバはカウンターのどこか一点を見つめたまま、
その音すら耳に入ってはいなかった。
世辞にも良いとは言いがたい夜を過ごした翌日の夕暮れ時。ギルバの気分はその延長線の
まま――いや、それ以上にすこぶる悪かった。顔を包帯で覆い、表情の見えぬ状態を常としている
ギルバである。その包帯の内側では眉間に甚だしく皺が寄り、口許は何をか恨むかのように歪んで
いるのだが、道行きすれ違う人々はほとんど気付くことがない。皆、男の異様な見目に気を
取られ、その表情を読み取るまでに至らぬのだ。
ギルバの機嫌が急速に下降した理由は、実を言えば先ほど、あった。いつもはあまり使わぬ路地を、
何の気紛れでか歩いていたのだけれども、そこで思いがけず彼と遭遇したのだ。いや、して
しまった、と表現したほうが正しいだろう。
遭いたいと、願っても思ってもいなかったのだから。
彼はやけに疲弊した様子だった。軽口は相変わらずだったが、その裏に何かしら陰鬱なものが
翳していたようにギルバには見えた。おそらくその何かを隠そうとして、彼はいつものように
飄々としたふうを装っていたのだろう。
解せないのは、そんな彼へ掛けた自身の言葉だ。酒場へは行かぬのかと、問うた。彼は一瞬怪訝な
顔をした。当然だ。ギルバは彼にとり、人間を平然と殺す冷血漢としてしか認識されていない
筈で、その血の通わぬ男がそんな言葉を口にするとは思ってもいなかったに違いない。
何より眠いのだと言って去った彼の肩は、いつも見ているそれより小さいように思われた。
遭遇するまでの間彼はどこで何をしていたのか、ギルバは思案を弄びながら彼の背中を
見送った。
彼がどこで何をしていようと、自分には何ら関わりのないことだというのに。その細くすら見える
背から、なぜだか目が離せなかった。
とにかく眠いと言った彼の、行く先はおそらく自宅なのだろう。が、もしかすれば。
(……、あの男……)
あたかも彼の保護者のような風情で、彼の頭を掻き混ぜる男の顔が脳裏によぎる。ここしばらくは
見ていない光景だが、ギルバにとってそれはわけもなく不快を催すものだった。
彼の元相棒。現在の相棒であるギルバとの大きな違いは、彼は確かにあの男を信頼しているという
ことだ。彼はあの男にならば、その背を気兼ねなく預けるのに違いない。それがひどく不快で、
そして黒い靄が腹の底に渦巻くような感覚に陥るのだ。なぜかは、知らない。その靄が何である
かも、ギルバには判らぬのだから。
彼の向かった先は、あるいはあの男の住まいかもしれない。あの男にならば、彼は疲弊した理由を
話すのだろうか。あれほど頼りにし、心を開いているのだから、きっとそうに違いない。
あぁ。
(何故、――)
ギルバはふと、自らの思考を自らで閉ざした。何を考えていたのか。いや、考えようとしていた
のか。ぱちりと扉を閉ざしたあちら側を、ギルバはあえて再び覗こうとはしなかった。けっして
覗いてはならないと、扉を開けてはならないと、本能が強く訴えている。
「ふん……」
鼻を鳴らし、すっかり誰もいなくなった路地からようよう目を離して。ギルバは彼が去った
方向とは別の、通りへ続く道へと足を向けた。
それからしばらく、彼は酒場へ顔を出さなくなった。何が理由か、ギルバには当然ながら判らない。
気にする必要はないのだと、気にしたところで意味などないのだと、自身に言い聞かせている
ことを、ギルバは自覚しつつも見て見ぬふりをした。毎晩のように酒場へ足を運ぶのは、より
多くの依頼を請け、早く彼を凌ぐ稼ぎ頭になるため――それ以外の理由などあるわけがない。
「なんだ、トニーの奴、いねぇのか?」
決まった曜日にしか姿を現すことのない仲介屋が、清潔とは世辞にも言えぬ頭をがしがしと
掻きながら店内をぐるりと見渡した。カウンターの奥で、店主のボビーが肩を竦めている。
こちらとしては、トニーが顔を見せなくなったことなど今さらのことであるからだ。この仲介屋は
知らぬ話かもしれないが、ギルバにはかかわりのないことに違いない。
そのギルバは、先刻からカウンターに陣取りいつもと同じ酒をちびちびと舐めている。旨いと
思わぬのは、アルコールに対して小さくはない不快感を抱かずにはおれぬせいだろう。
トニーがおらぬことを数度確認したらしい仲介屋が、どかどかと無遠慮な足音をたてて
カウンター席へと近寄ってきた。立て付けが良いとは言えぬスツールに、どかりと尻を
乗せなぜだか盛大なため息など吐き出している。
「ちっ……せっかく俺様が良い話をもらってきてやったってのに、あの坊やは……」
随分と声の大きな独り言だ。聞くつもりもないというのにすべて耳に入ってきて、しかしギルバは
その良い話とやらには興味を惹かれることはなかった。他の荒事師であれば、自分を代理にと身を
乗り出しているところであろう。彼らは皆、金に飢えている。いかに過酷な条件であれ、金の
ためならばどんなことにも手を染めるのが荒事師というものだ。良い話と聞いて、黙って聞き
流す者はいるまい。
店主に酒を頼み、それを待つ間も仲介屋はぶつぶつとトニーに対する愚痴をくさした。あいつは
いつもそうだとか、飢え死にしても知らないだとか、それだけ聞いているとまるで手に余った子に
呆れ果てる親のようだ。
少しばかりの苛立ちを覚えながら、ギルバは旨くもない酒で唇を湿らせた。
酒が手許に来たことで、仲介屋の舌はより滑らかになったらしい。同じ愚痴を何度も繰り返しては
ため息をもらしていたのだが、ふと。
「……拗ねてやがるのかねぇ……」
何に、か。ギルバは無意識に耳を澄ましたが、仲介屋はそれについては触れようとせず。黙して
酒の入ったグラスを傾けた。盛大に吐き出される息は何かしらの熱を含んでいるように聞こえた
が、どんな意味が含まれているかは判らないし興味の外だ。
「しけたツラだな、エンツォ」
低い声が振って来たのは、奇妙な沈黙が満ちて十分ほども経ったころだった。ギルバは店のドアが
開く音を耳に拾っていたが、仲介屋――エンツォはそうではなかったらしく、少しばかり肩を
跳ね上げて後ろを振り仰いだ。
「グルー、こりゃまた久し振りじゃねぇか」
とっくに神の園に召されちまったかと思ってたぜ。軽口を叩くエンツォに、声を掛けた
男――グルーと言う名の荒事師だ――はくっくと低く笑ってエンツォの隣りへ腰を下ろした。
「生憎、死んでる暇なんかねぇよ。……いつものエール、一杯くれ」
ボビーに注文し、ふ、と息を吐いたグルーをエンツォは横目で見やって自分のグラスを口へ
運んだ。つられるように、ギルバもグラスを傾ける。
「あいつはどうしてる」
グルーがふと、エンツォに問うた。エンツォは頭をがりがりとやり、肩を竦める。
「気になるんなら、自分で見てきてやりゃあ良い。その方があの坊やも喜ぶだろうよ」
お前さんに一等懐いてるんだからな、と。茶化すでもなく言ったエンツォに、グルーは苦笑を
浮かべ。そうなら良いがな、とぼやくように呟いた。
呑気なものだと、ギルバは思う。何をもってそう思ったのかは判らない。が、グルーの言葉が
いかにも悠長で呑気なものに感じられて、不快を覚えたのは確かなことだった。
(これで保護者気取りか)
彼が何をしているのかも知らず、本人へ直接に確かめようともせず、これでよく彼の相棒として
顔を利かせられたものだ。彼はなぜ、こんな男に背中を預ける気になったのか。なぜああも気を
許すことが出来たのか。本当に不思議でならない。
「グルーよぅ……」
エンツォの言葉を遮るように、グルーの目の前にエールを注いだジョッキがどんと置かれる。
グルーがごくりと飲むのを待って、エンツォは再度切り出した。
「会わなくて良いのかい?」
「……藪から棒に何だ。らしくもねぇ」
「らしいらしくねぇの話は要らねぇ。奴は、グルー」
「判ってるよ。皆まで言うな」
エンツォの言葉を遮り、グルーはジョッキの縁をかつんと爪で弾いた。そしてギルバへと流し目を
呉れるように視線を走らせる。鋭い目だ。しかしギルバはそれを真っ向から受け止めた。それは
ある種の挑発であると直感していた。
「よぅ、随分羽振りが良いらしいが……調子はどうだい」
「悪くはない。すぐに貴様の元相棒を抜ける程度には」
「そりゃ、重畳。羨ましいことだ」
グルーは音をたててエールを飲み下す。視線は外れたが、意識はまだこちらに向けられていると
ギルバは感じた。グルーにとってギルバは、彼の相棒という地位を奪った相手だ。憎しみすら
抱いていても不思議ではない。彼のことを深く愛しているらしい、この男は。
「おい、グルーよ」
話はまだ途中だろうと、エンツォが焦れたふうにグルーをせっつく。この仲介屋もまた、彼の
ことをよく気にかけている。が、グルーという存在ほどの不快感をギルバに与えることは
なかった。
(貴様などに、)
そこから先の言葉は、やはり消えてなくなって。探すことも放棄せねばならぬギルバは、ただ
旨くはない酒をちびりちびりと舐めるのみ。
少しでも、彼への殺意以外の感情を自覚してしまったら。おそらくは今の自身を支えている何かが、
跡形もなく瓦解してしまうに違いないから。
だから、扉は固く閉ざされたまま。
扉を開けるための鍵など、必要ないのだからいずこかへ棄ててしまえば良いのだけれども。
けれど、鍵はずっと、掌の中に在る。
ギルバ視点は難しいのです…何だかもやんとするなぁ。