椿姫、壱
自分は今、ここで何をしているのだろう。ふと我にかえって、ひどく馬鹿馬鹿しくなった。
「一人より、二人で飲むほうが旨いと思うが」
そう、声を掛けて来たのはトニーよりも年かさの、若い頃は優男という印象を背負っていただろう
男だった。年齢としては、グルーとそう変わらないだろうかとトニーは思った。だからどうという
こともなく、ただそんな印象を受けたというだけのことであるが。
男に興味は惹かれなかった。トニーには男を漁る趣味などないし、その意味では完全なる
異性愛者だ。が、べつの意味では。
男は自分の注文とともにトニーの分まで追加して酒場の主人に伝えた。その日に限って、トニーは
いつもとは違う酒場に足を運んでいたのだ。それも、あるいは悪かったのかもしれない。
トニーは初めに男をちらと見やっただけで、それから一度もそちらに見向きもしなかった。機嫌が
悪かったのだ。理由は今現在、トニーの相棒ということになっている包帯だらけの男にある。
あの男のおかげで食い扶持の心配は今のところないが、しかしトニーの我慢は限界近くに達して
いた。
いわば自棄酒だ。いつもの酒場を選ばなかったのは、あの男に遭遇する確率が高いというのも
一つの理由だが、知った顔が多すぎるというのが最もたる理由であった。誰も知る顔がない
ところで、不味い酒を舐めようと思ったのだ。そこへ、男が声を掛けてきた。
男は何を話すでもなく、ただトニーの右隣に腰掛け同じように酒を舐める。トニーは多少の
居心地の悪さを覚えながらも、隣の存在を忘れることにしてグラスに唇をつけた。飾り気のない
ジントニック。ため息が出そうだが堪えた。それは家へ帰るまで取っておかねばならない。
「きみには、」
グラスを半ばほどまで空けて、男はようよう口を開いた。待っていたわけでもないトニーは、
やはり何の興味もそそられなかった。
「そんな顔は似合わないと思うんだが、どうだろう」
何が、とはトニーは訊かなかった。その前に男が続く言葉を紡いだからだ。
「鬱憤は溜めるよりも誰かに吐き出してしまうほうが良い。僕で良ければ、相手になるよ」
それで、どうだろう、などと口にしたのか。合点はいったが、トニーは鼻で笑った。誰にでも
愛想良く振る舞う彼は、このとき完全に姿を隠していた。というのに、だ。
「あんたに俺の相手が務まるのか、試してみるか?」
自棄になるにもほどがある。頭の片隅で、膝を抱えた自分が自嘲するのが聞こえた気がした。
やめておけば良かったのだ。そう思っても後の祭り。後悔先に立たずとはよく言ったものだと、
しみじみ思う。これが他人事だったなら、まだ笑えもしたというのに。
ぎしりとスプリングの軋む嫌な音。耳障りだ。それよりもはるかに耳障りなのはぐちゅぐちゅと
いう粘質の水音と、荒々しい息遣いだった。そのどちらの音にも自分が荷担しているのだから、
いっそう不快感が増すというものだ。
トニーは上からかぶさるような恰好で腰を使う男を、どこか茫洋とした双眸で見上げている。
息は荒いが声は上げていない。男は己の快楽を得ることに集中しすぎていて、こちらのことは
ほぼ置いてきぼりの状態であるからだ。何より、こんな詰まらない男に聞かせる声など持ち
合わせてはいない。
良いよ、すごく良い。
獣を思わせる行為を続ける男は、時折自分は人間だと主張するかのように言葉を吐く。それは
いかにも快楽に酔ったふうで、トニーを辟易させてならない。良い、と言われてもトニーの
知ったことではなく、ただ疎ましさを感じるだけだ。
男の曇った両眼には、トニーもまた快楽を得ているように映っているのだろう。勘違い甚だしい。
何をどうすれば、息を僅かばかりにしか乱していない相手が快楽に打ち震えているように見える
のか、トニーにはまるで理解できない。
肉を犯すものがどくりと脈打った。と思うが早いか、男はトニーの最奥に精を放ち、満足げな
笑みを湛えて彼の瞳を覗き込んできた。
「次はきみの番だ」
何が、とは訊かなかった。男はトニーの言葉など聞く気もないのか、二人の腹の間で萎え縮んで
いたトニーの陰茎を掌に包み込み、ゆるゆるとしごく。それをトニーが望んでいるかのように、
焦れったい愛撫を施していく。そしてトニーが悦んでいると信じきった顔で、こちらの顔を
見つめるのだ。どうだ、気持ち良いだろうと言いたいのに違いない。トニーの口から快楽に
濡れた声があふれるのを、おそらく男は待っている。
(阿呆が)
気持ち良くなどなるわけがない。トニーの陰茎は多少の硬度こそ持つものの、ぴんと天を衝く
ほどにはならない。男の愛撫はそれなりに的確で、男を扱い慣れているのだとトニーにも判る。
が、それだけなのだ。
ひとには好き嫌いというものがある。いかに男の扱いに手慣れていても、同じように愛撫を施して
皆が皆快楽を得るとは限らない。無論、男だ。性感帯の塊のような部位を執拗にいじられて、
感じないならば明らかに病気であろう。
トニーは自他ともに認める快楽主義者だが、快楽を得られれば何でも良いかといえばそうでは
ないと否定する。彼とても、好みというものが存在するのだから。
男はトニーがいっこうに昂揚していないことに、今になって気が付いたらしい。なぜ、と本気で
尋ねてくるので思わず笑ってしまった。もちろん、失笑だ。
「あんた、相当自己中心的な性格してやがるな」
それこそ救いようがないほどに。
彼の言った意味が掴めていないのだろう、眉を顰めている。
「もっと激しいのが好みなのか?」
的外れなことをのたまい、彼の花芯を握る手にいくばくか力を込めた。先端を親指で軽く潰す
ようにするのは、ある意味惜しいと言えなくもないのだけれども。
「やめろ」
吐き捨て、男の肩を無造作に押した。なんだ、まだこれからじゃないか。男が困惑げにそう
訴える。未練たらしいその言葉と表情に、トニーはうんざりした。自分に女運がないことは
知っていた(納得はしていない)が、男運すらないのだと思い知らされるような心持ちだ。
まぁ、男運などあっても仕様がないといえばそうなのだが。
グルーのような男と巡り合うことができたのは、トニーにとっては二つとない幸運であったの
かもしれない。
「離せ。鬱陶しいんだよ、あんた」
ばっさりと言い切れば、男は顔を赤くしてトニーの首に手をかけようと腕を伸ばしてきた。案外、
素早い。防ぐことが間に合わず、男の手がトニーの首に絡んだ。そのまま体重をかけられる。
「離さないよ。離すものか。せっかく手に入れたっていうのに」
男の充血した目は、変わらずトニーを映している。しかしそこに結ばれた像は歪んでいて、
男の浮かべる笑みには薄ら寒いものがある。
ぎりぎりと、首を絞めつけられる。
「きみは俺のものだ。きみもそれを望んでいたから、俺を受け入れたんだろう?」
ほら、と。笑みを浮かべて男が腰を動かしトニーの内壁を突く。先刻射精したばかりの男の
それは、すぐにも弾けそうなほどに張り詰めている。ひくりと、彼の内が震えた。それに彼よりも
敏感に気付いた男は、さも嬉しそうに笑みを深くした。
「きみも悦んでるじゃないか。――あぁ、そうか、俺ばっかり悦い思いをしてたから、それで
怒ったんだろ」
好き勝手な解釈をして、男は声を上げて笑った。可愛いなどと言われ、自分が喜ぶと本気で思って
いるのか、不思議でならない。
ひたすら独りよがりなことを繰り返す男に、トニーはほとほと嫌気がさした。それでも萎えきって
しまわないのは、男がトニーの首に手をかけ、力こそ抜けているが頸動脈のあたりを押さえている
からだ。首は、昔から奇妙なほどに弱い。
「っは……」
面倒だ。トニーは俄然やる気を漲らせる男から顔を背け、両腕をだらりと弛緩させた。男がぐっと
粘膜を突いてくるが、好きにすれば良いと投げやりに思い、目を瞑る。もう、どうなろうと構う
ものか。
男はやはり何かを勘違いしたようだった。腰の動きが早くなり、右手でトニーの陰茎を撫で
上げる。左手は、トニーの首に添えられたまま――そうすることで、彼の命すら握っている
つもりになっていたのかもしれない。まったく、どうしようもない男だ。
トニーが解放されたのは、翌日の夕暮れのことだった。食事もろくに摂らず、男の独りよがりな
セックスに付き合わされた躰は、そこら中が嫌な痛みを訴えている。ここで眠っていけと、
ベッドに縛り付けられそうになったところ、さすがに我慢しきれなくなって逃げ出してきた
のだ。
トニーのからだを好き放題してくれた男。代償は腕の骨一本で済ませてやったのだから安いもの
だろう。ひとは殺さず傷つけずを信条にしてはいるが、それも時と場合による。男は調子に乗り
すぎたのだ。
躰が重い。しかし足を引きずるようにしていないのは、彼の精一杯の意地だ。そんな無様な姿を
さらすことは、彼にはできない。家に辿り着いたなら、ベッドに飛び込んで思い切り寝てやろう。
いや、その前にシャワーか。あぁ、気持ちが悪い。
半分は自業自得だと判っていても、何かに八つ当たりでもせねばやっていられない。といって、
こんな男にこんなことをされたとは、誰にも話して聞かせられないけれども。
グルーには、絶対に。
元より綺麗な躰ではないけれど、グルーには――あの優しい男にだけは、知られたくないと強く
思う。
馬鹿なことを願っているとは、自覚のあるトニーだけれども。
ため息を吐く、そんな何んとういうことのない動作にすら痛みを覚えるのだから笑ってしまう。
とことん、自分は馬鹿だ。嘲り、やる瀬なくなって自宅へ足を急がせる。そのとき、
「誰かと思えば……」
小馬鹿にしたような声に、トニーは眉を顰めてそちらを見た。すらりとした長身でありながら、
顔を覆い隠す包帯がことさら印象を悪くしている男。名はギルバ。現在、トニーの相棒となって
いる男だ。
「こんな時間に貴様と合うとはな」
それはこちらのせりふだと、言ってやりたかったがやめた。代わりにへらりと笑って見せる。
「ま、そんなこともあるんじゃねぇ?」
確かに珍しいことではある。第一ギルバとは、ボビーの穴蔵か仕事でしか顔を合わせることが
ない。歩いていて偶然に、など今まで一度もなかったことだ。確率から言えば、無論有り得ぬ
ことではないのだけれども。
嫌なやつと遭遇してしまったと、トニーは正直のところ思っている。それでもグルーよりは
ましかと自身を宥め、ため息を吐きつつ首筋を掻いた。やけに痒い。
「悪いけど、俺もう行くぜ。眠くてなんねぇんだ」
あくびを噛み殺すトニーの視界、その隅でギルバが何やら険しい表情をしているように思ったが、
包帯に隠されたそれがなぜ険しいものと感じたのかはトニー自身にも判らない。ともかく
トニーには関わりのないことだ。
ギルバがいつにも増して低い声音で、「酒場には来ないつもりか」と問うてきた。この状態じゃあ
な、とトニーは肩を竦める。
「今日は休業だ」
とにかく眠い。これで酒など飲もうものなら、いかにアルコールに強いトニーといえども悪酔い
すること間違いなしだ。ストロベリーサンデーには、大いに未練が残るが。
「じゃあな。あんたと共同の仕事があったら、まぁ適当に頼むぜ」
どうせこの男は、どんな依頼であれ請けるのだ。あれは嫌これは嫌と、子どものように選り好みを
するトニーとは考え方がそもそも違う。
「……あぁ」
低く短い相槌に、トニーは何か引っ掛かるものを感じたけれども。じっとこちらを見つめる
ギルバの双眸から逃れるように、軽く手を振りその場を離れた。
背中を追ってくる視線にはどんな意味が含まれているのか。少しだけ気になりはしたが、
振り向くことはしなかった。それがどんな状況であれ、トニーは後ろを振り返ることをひどく
嫌っている。
続きますすみません。ある種、あばずれに憧れてます。