椿姫、参
割り切ったものと、思っていた。
いや、思い込んでいた、の間違いかもしれない。未練たらしい姿を認めたくなくて、自分は
そうではないのだと信じ、演じることで大人のふりをしているのだ。
彼があまりに幼くて、親代わりのような心境でいたからだろう。自分が守ってやらねばならないと、
手前勝手に決め付けて。大人として、ものを知ったふうに振る舞って。他者へは気を許すという
ことをせぬ彼が懐いてくれたことを笠に着て、自分は特別なのだという優越感に浸っていた。
単独での仕事には慣れている。娘たちを養う義務のあるグルーは、もう長く荒事師という堅気からは
かけ離れた者として日々の糧を得てきた。その大半を独りで(無論、帰宅すればにぎやかな娘たちに
囲まれるわけだが)過ごしてきたのだ。誰かと組んで仕事をした期間のほうが短いくらいだった。
が、しかし。
不調。今日はまさにその一言に尽きる。
何が悪いのか、それはグルーにも判らない。現在遂行中の仕事はつつがなくこなしているし、
他者からすればグルーが不調であることなど判らないのに違いない。しかし、グルー本人に
とってはやはり不調なのであり、原因が判っているだけにやり切れぬものがあるのだった。
(俺のほうが餓鬼みたいだな)
内心で自嘲をする。正直のところ、こうも不調を訴えることになるとは思ってもみなかっただけに、
実際にそうなってみると自嘲しか浮かばぬものである。
グルーは嘲弄の笑みを口端に浮かべ、わけもなく銃身を撫ぜた。尋常ではない連射をし、銃を
いくつも駄目にした彼のことがふと思い浮かぶ。またやっちまったと、酒を飲みながら悪戯小僧の
ように笑う彼。仕方のない坊やだと呆れながらも、そんな彼のことが可愛くて仕様がなかった。
大きな息子。彼を可愛がることはグルーにとって思わぬほどに大事なこととなっていたらしい。
彼との接触がほぼ断たれた状態である現状において、グルーはその事実をまざまざと突き付け
られた思いだった。
彼はここしばらく、ボビーの穴蔵に顔を出していないのだそうだ。毎週決まった曜日にしか酒場を
訪れることのないエンツォはそのことを知らず、グルーにそれを教えたのは酒場の主人である
ボビーだった。グルーが腰を下ろしたカウンター席には、エンツォの他にもう一人客の姿が
あったが、そちらへ尋ねようとは思わなかった。あちらも、自分にそんなことを教える義理など
ないと考えていたに違いない。
頭と言わず顔にまで包帯をぐるぐる巻きにした件の男が、彼のことを小さからず気にしている
ことをグルーは感じ取っていた。
つい先日現われたばかりで、この界隈で一番の腕利きである彼に一騎打ちを
挑んだくらいだ。そして今や、彼を抑えんばかりに頭角を現している。これで、彼のことを
意識していないわけはない。が、そういうことではなく、グルーには何かしら感じ取れるものが
あるのだ。
(元、相棒か)
まさにそのとおりだ。そして彼の現相棒はあの包帯だらけの男。グルーはすっかり、あの男に
彼の隣という地位を奪われた。この世界は実力がものを言う。あの男はグルーよりもはるかに
腕が立ち、ゆえにグルーは彼の隣を明け渡すよりなかった。ただの“落ち穂拾い”が彼の隣に
居続ける権利など、誰も認めはしないということだ。
(判っちゃいるが、……)
我ながら未練たらしいことを考えていると自覚はある。どうも彼のこととなると、自分が自分では
なくなったような感覚に陥ることが多くて困る。あるいは、こちらの自分こそが本来の自分なの
かもしれないが、歳を取ると自分に真っ正直にはいられぬもので。グルーは一つ肩を竦めた。
彼は今どうしているだろう。折々に、そんなことが気になった。
エンツォには、気になるならば自分の足と目で様子を見に行けと言われた。道理だ。彼のすみかは
知っているのだから、いつなりとも訪れれば良いだけのことだ。だがグルーは、あえてそれをして
いない。なぜか。彼に会えば必ず、彼の背後に誰かの影を感じてしまうからだ。
それは包帯だらけの男であるのか、それとも別な人間であるのか、グルーには判らない。が、
しかし、そのどちらの影も見たくないと思うので。
以前、聞くつもりもなく聞いてしまったとある名。それを思い出さずにはおれず、グルーの足は、
彼のすみかへとは向けられずにいる。
(幼稚なことだ)
苦笑する。そうせずにはいられぬほど、くだらないと思う。馬鹿だとも思う。だがエンツォが
言うように、自分が会いに行ったとて果たして彼が喜ぶのかどうか。グルーには疑問でならない
のだ。だから、会わない。幼稚でも馬鹿でも構うものか。
グルーは自分が一種、拗ねているのだとは自覚せず、心の中で鼻を鳴らした。
大事な大事な宝物。丈夫な箱に納め、鍵を掛けることができたなら。
あれ以来酒場にあまり顔を出さなくなって、しばらく。娘たちの彼は来ないのかという声も少しは
落ち着いたころ。
その日は仕事もなく、飯の種を求めに行くことも億劫で、一日をどう過ごそうかと思案していた
ときだった。不意に、玄関のベルが鳴いた。自分を訪ねてくる人間に心当たりのないグルーは、
眉を顰めつつ玄関へ向かい、ドアロックを外した。そして、驚きに声も出ず立ち尽くすことに
なる。
「よぅ」
ぶっきらぼうにそれだけ言ったのは、銀髪碧眼の青年――見間違えるわけもなく、彼だ。しかし
こんなところに彼がいる理由が判らず、グルーはやはり立ち尽くすしかなかった。冷静さを失う
ことの少ないグルーへの奇襲を成功させた彼は、しかしそれを喜ぶふうはなく、上目遣いに
こちらをちらりと見やるのみ。
「……入るか?」
しばしの沈黙の後、グルーがようよう紡ぎ出した言葉は、何ともぱっとせぬものであった。
何をしに来たのかとは、聞けなかった。来てはいけなかったのかと、彼が怒って帰ってしまう
可能性を無視できなかったのだ。だから、リビングへ彼を通してもグルーは何を訊くこともなく、
逃げ口上のようにコーヒーを淹れると言ってキッチンへ逃げ込んだ。飲み物も何もなく、彼と
真正面から対峙することは憚られた。場が保たない。
「薄めで良かったな?」
酒は飲むが甘いものにも目がない彼は、あまり苦いコーヒーを好まない傾向にある。アメリカンを
さらに薄くしたものを出してやると、彼はなぜか神妙に顎を引いた。
「サンキュ」
短い言葉を、一音残らず拾おうとしている自分がいることに気付き、グルーは少しばかり
恥ずかしくなった。誤魔化すように(彼は気付いていないようではあるが)、自分のカップを
口許へ運ぶ。こちらは彼のものとは違い、薄めていないアメリカンだ。
「で、どうした、いきなり。何かあったのか?」
口調が父親のようになってしまうのは、もはや癖なのでこのときに限り正せるものではない。
彼は何やら口ごもるように唇を噛み、しかし視線は泳ぐではなく、カップに注がれた黒い液体に
じっと据えられているようだった。こうした姿はあまり見慣れておらず、グルーは少々気を揉んだ。
しかし急いては話そうという気を殺いでしまいかねず、こちらも黙って彼が口を開くのを待つ
ことにする。
グルーはその点、気の短いたちではなかった。彼が何をか話したいと思ってここに来たのなら、
いつまででも彼が話し始めるのを待つし、そうできる自信がある。もし話しをしたくて来たのでは
ないとしても、気持ちは同じだ。何よりも、彼のことを最優先にする。
黙りこくった彼が、唇を潤すためかカップを手に取り口へと運んだ。両手で押し抱くようにして
コーヒーを飲む姿は、どことなく幼い子どものように見える。
それから、随分と長いこと二人の間には沈黙が腰を落ち着けていた。グルーはコーヒーをほとんど
飲みきり、彼はおそらくまだ半分程度残しているだろう。ミルクを垂らしているとはいえ、苦く
なってしまっているだろうそれを、無理に飲めとはグルーは思わない。
「……淹れ直すか?」
椅子から腰を浮かせたとき、彼がはっとしたように顔を上げた。その表情はひどくあどけなくて、
そして何にか傷付いたような双眸に、グルーは一瞬言葉を忘れた。が、そこは年の功だ。すぐさま
自分を取り戻し、口許に笑みを浮かべて見せた。
「どうせ貰いもんの豆だ。金なんざ取りゃしないから安心しな」
彼は目をぱちぱちと瞬かせ、にやりと笑った。
「どうだかな?」
彼の口からするりと軽口が出たことに、グルーは内心でほっと胸を撫で下ろした。いつもの彼だ。
今の今までの、親とはぐれた子どものような雰囲気は、一瞬にしてきれいに消えている。
これで良かったのに違いないと、グルーは彼のカップをひょいと取り上げて一人ごちた。彼の
表情にも、どこかしら安堵の色が見えるので。
グルーは彼がこちらを見つめていることを感じながら、冷蔵庫を開けて目当てのものを取り
出した。読みどおり半分ほどコーヒーが残った彼のカップを、ざっと水で洗っておく。
家事などを一切しないという彼と違い、グルーは簡単なことならば苦もなくできる。娘に頼って
ばかりではないのだが、そのことを鼻に着ることはしない。人間、できることとできないことは
必ずあるもので、支え合い助け合って生きていくことこそ肝要なのだ。
では彼は、いったい何ができるのだろう。
「ほら、」
多少時間をかけ、グルーは再度彼の前へカップを置いた。覗き込んだ彼が、なんだこれ、と声を
上げるのへ、
「ホットミルクだ。落ち着くぞ」
言って、自分のカップに口をつける。実はこちらも、暑くない程度に温めたミルクである。胃に
まろやかな甘みが広がり、ふ、と息を吐いたグルーをじっと見ていた彼も、そうっと背中を丸めて
カップからミルクを啜った。そして同じように、息を吐く。
「たまにはミルクも良いだろう」
「……、……うん」
ほんわりと笑みを見せる彼を、グルーはきつく抱き締めてやりたい衝動に駆られたが、堪えた。
後で髪をくしゃくしゃにしてやろうと決め、目を細めて彼を眺めながらホットミルクを飲む。
グルーと彼との間には、やはり沈黙がある。しかし先刻とは違い、その空気は悪くないものに
変わっていた。穏やか。一言で言うならば、そうだ。ホットミルクを飲ませたのは、やはり
正解だった。
元来おしゃべりな彼は、この沈黙をどう思っているのかはグルーには判らない。だが少なくとも、
嫌なものとは感じてはいないはずだ。でなければ、彼は今ごろ、何かを繕うように止めどなく話を
していることだろう。
ホットミルクを少しずつ舐めるように飲む彼。猫のようだと思いながら、グルーはふと、先日
ボビーの穴蔵で遭遇した男のことを思い出した。
(あいつとは、)
彼は何か話をするのだろうか。仕事ぶりが気に食わないと、以前には愚痴を聞いたこともある
けれども、今は。彼のほうは判らないが、あの包帯だらけの男は彼をひどく気にしているという
ことをグルーは知っている。何か、話すのか。それとも必要以上の間柄になっている
のか――それこそ下衆の勘ぐりというものだが、気にならぬわけがなかった。
彼はグルーにとり、愛娘たちと同様に可愛がっている息子のような存在なのだ。あの男に
ほいほいとくれてやるなど、できる話ではない。ただでさえ、相棒という地位は明け渡さなくては
ならなかったのだから。
「トニー、」
気付けば呼ばわっていた。彼が顔を上げ、首をかしげる。
「いや、そのな……」
不自然に口ごもってしまい、グルーは内心慌てた。彼が「何だよ?」と言葉を急かす。
「気になっちゃいたんだが……ここのところ、調子はどうだ?」
遠回しにしか訊くことのできぬ己に、自分はこんなにも臆病だったのかと愕然とする。彼は
グルーの内心には気付かず、ちょっと視線を手許のカップへやった。
「……まぁ、ぼちぼちな」
「そう、か。なら……良いんだが」
いつもの彼ならば、俺を誰だと思ってるのかと胸を張りそうなものだ。常に自分自身に対し
自信に満ちあふれている彼を、こうしたのはいったい何なのか。原因はやはり、包帯だらけの
男しか思い浮かべることができず。
「無茶はするなよ」
「……判ってる」
ただそれだけのやり取りにも、どこか精彩を欠いた彼の声音に、グルーは腹の底に黒いものが
溜まっていくような感覚を覚えたが、それを彼に気付かせるほど迂闊ではない。歳を取ると
ともに、面の皮も厚くなっていることを、グルーはよく自覚していた。
それから会話らしい会話もないまま、彼がふと、帰るよと言って腰を上げた。グルーは玄関まで
送ると言い、椅子を引いた。
「急に来て、悪かったな」
ドアノブに手をかけ、背を向けた恰好で彼がぽつりと呟いた。何を言うのかと、グルーは肩を
竦める。
「お前なら、いつでも歓迎するさ」
偽りのない言葉であることを、彼は察してくれただろうか。うん、と返る言葉は小さくて。
けれども、
「……ありがと」
その囁きを聞いた瞬間、グルーは彼の背を、後ろからきつく抱き竦めていた。
愛している。
想いに名を付けることは簡単で、けれどもその愛の意味を知るには、自分は歳を食いすぎて
しまったのだ。
やきもきするような関係もたまには良いと思うのですが。