昼顔ヒルガオ









泣いている。密やかに、悲しげに。誰かがどこかで泣いている。
その誰かを、俺は知っている筈だった。泣くなと髪を撫で、肩を抱いて背中を叩いてやれば 泣きやむのだと、確かに知っている。というのに、今の俺にはこの物哀しい泣き声を止めてやる ことが出来なかった。

その涙が求める手は自分ではないのだということに、気付いてしまったから。






生意気な餓鬼――――第一印象は、正直そうだった。その印象は今も変わっていないし、彼は 相変わらず生意気で子どもっぽい。しかし初めと違うことは、今はそんな生意気さも餓鬼っぽさも、 可愛らしく思えることだ。

「はぁあ……」

盛大なため息をもらす青年を、グルーは見やって苦笑した。青年――――トニーも背は高いが、 大柄なグルーと並べば小さく見えてしまう。

「金もないくせに、生意気を言うからだ」

「べつに金なんかなくてもどうとでもなるってのに……」

「ほぅ? じゃあ、明日の昼飯はどうするつもりだったんだ?」

むぅ、と口を噤んだトニーの頭を、グルーは笑って大きな手で掻き混ぜた。餓鬼扱いするな、と グルーの手を退けることをしないトニーは、いったい何を考えているのか。おそらくは、

「なぁ、グルー……」

「うん?」

「……、ん……やっぱ、いい。気にすんな」

ぶっきらぼうに呟いて見せるトニー。グルーは目を細めた。ひとに甘えるのが下手な子どもが、 乱暴な仕種で大人を突っ撥ねるさまはひどくいじらしいものだ。子を持つ親であるグルーにとって、 トニーは大きな息子のようなものに違いなく、甘やかしてやりたくなる。

「トニー、明日の昼だが、出て来られるか?」

唐突だった所為か、トニーが何の話かとばかりにグルーを振り仰ぐ。

「どうせ昼まで寝てるんだろう。昼飯、喰わせてやる。うちのチビどもも、昼は学校やらで いないんでな」

トニーが大のお気に入りである娘たちのことだ、留守の間にトニーを呼んだことが露見すれば どんなにか怒るだろう。彼女らのことはトニーも可愛がってくれているが、いかんせんトニーと 一緒になってはしゃぎすぎるきらいがある。グルーも楽しそうな我が子とトニーを眺めるのは 嫌いではないが、たまには静かに食事をするのも良いだろう。

一人分を作るのも、二人分作るのも変わりはない。俺の手料理が嫌なら外で喰うが、どうだ。 そう誘いをかければ、トニーはじっとこちらを見上げてくるばかりで、反応がない。半開きに なった唇が意外にふっくらしているのだと、グルーは何故か感心した。

「トニー?」

呼ばわれば、トニーははっとしたように目を瞠り、次いでばつが悪そうに正面を向いた。

「……良いのかよ?」

「なにが」

「毎回たかるようになるかもしれねぇぜ?」

甘え下手な、不器用な子ども。グルーは笑みを浮かべ、トニーの肩を掴んで軽く揺さぶった。

「餓鬼が、んなこと気にするもんじゃねぇ」

「餓鬼って言うな」

むすっと唇を尖らせるさまが子どもそのものだと、彼はいつになれば気付くのだろうか。





落ち穂拾い。侮蔑のこもったその呼び名を、グルーは嫌ってはいない。トニーのおこぼれに 預かるのはグルーであるし、落ち穂拾いとはよく言ったものだと思ったものだ。無論、そこには 自嘲もこもっているのだけれども。

この呼び名を嫌っているのは、むしろトニーのほうだ。

グルー程トニーのことを理解している者は他にいないし、トニーの力を活かしつつサポートが 出来るのも、おそらくグルーだた一人だろう。トニーはそれをよく判っているからこそ、グルーが 落ち穂拾いなどと呼ばれるのが我慢ならないのだ。

グルーはふっとため息を吐いた。トニーの相棒が務まるのは自分だけ――――意識していた わけではないが、どこか自負していたのかもしれない。

このところ、グルーは落ち穂拾いらしいことをほとんどしていなかった。と言うのも、トニーと 共闘することがめったになくなったからだ。理由は明快。――――あの包帯だらけの男だ。
ギルバと名乗ったあの男は、今やトニーを抑える勢いで稼ぎを伸ばしている。依頼主はこぞって ギルバを指名し、トニー贔屓の依頼主はギルバとの共闘をトニーに求めることが増えた。トニーと ギルバは一見水と油だが(性質はまさしくそうだろう)、いざともに戦えば奇妙な程息が合うもの らしい。トニーが飯を食らいつつ、首を捻りながら話していることなので嘘はないだろう。
グルーはトニーのグラスに水を注いでやりながら、表情を繕うのに必死にならねば ならなかった。

トニーはギルバの実力を認めている。腕が立つことはグルーも知っているが、それをトニーの 口から聞くのはどうにも嫌なものだった。醜い嫉妬だと内心で自嘲したグルーには気付かず、 トニーは「でも、」と言葉を繋いだ。

「あの野郎のやり方は気に入らねぇ」

とにかく容赦がないのだとトニーは語った。とにかく、殺す。ひとを傷付けない、殺さないが 信条のトニーには耐えられないのに違いない。眉を顰めてどこかを睨むトニーの怒りを宿した目には、 顔を包帯でぐるぐる巻きにした男が映っているのだろう。

(みっともねぇ……)

トニーが、ではない。ギルバのことばかり話し、考えているトニーを恨めしく思う自分自身が、 だ。

「トニー、あの野郎のことを恨む前にな、手前の餓鬼臭さをどうにかしたほうが良いぞ」

「は?」

顔を上げたトニーに、グルーはトニーの皿の周りを指差してやる。訝しげに俯いたトニーの顔が 紅潮するのを、グルーはにやにやとしながら眺めた。
心ここにあらずだったトニーの皿の周りは、食べ滓が散らかって酷いことになっている。ついでに 口の周りにも食べ滓が付いているものだから、どこからどう見ても子どもだ。

「ほら、こっち向け」

布巾で口許を拭ってやろうと手を伸ばすと、トニーはグルーの手から布巾をひったくるように 奪い、自分で出来る、と乱暴に口を拭った。透けるような白い膚が、淡く赤みを帯びる程に。

「ついでに皿の周りも拭いておけよ」

「判ってるよ!」

むきになってテーブルをごしごしと拭くダンテに、グルーの笑みは深くなる。それを揶揄われて いるものと思ったらしく、トニーはぎろっとグルーを睨んだ。

「煩ぇ」

「何も言ってないだろう」

「笑ってたじゃねぇか」

「それはそうだが、」

お前が可愛いからだ、とはグルーは言わない。思う以上にプライドの高いトニーのこと、可愛い などと冗談でも言えばひどく嫌な顔をするに違いない。
グルーはトニーに、ささやかでも嫌な思いをさせたくなかった。それはやはり、我が子に対する 愛情に似た感覚と言えるが、それだけではないこともグルーは自覚している。

布巾を放り出して食べることに集中し始めたトニーを、グルーはじっと見つめた。

お前は俺のようになるな。

そうトニーに言ったのはいつのことだったか、記憶は曖昧ではっきりとしない。危惧も忠告も する必要はないと判っている。トニーはいつまでもトニーのまま――――ふんだんに希望の 込められた憶測にすぎないが、間違っても自分のような人間になることはない筈だ。

「なぁ、トニー」

「んー?」

「……いや、何でもねぇ」

「何だ、そりゃ」

気になるだろ、と目だけを上げて呆れたふうに笑うトニーの、癖のない髪をグルーは目茶苦茶に 掻き乱してやりたいと思う。





トニーには及ばないが、グルーもまた腕の良い便利屋だ。堅実に依頼をこなし、仲介屋とも他の 荒事師らと揉めることもまずないグルーは、血の気の多い荒事師の中でも別格の存在であった。

銃に弾丸を装填していたグルーは、ふと手を止めた。明かりもないのに何故か明るい――――今日は 満月だったか、と空を見上げて眉を顰めた。紅い。血糊をかぶったかのような紅い月が、こちらを 見下ろして笑っているようにグルーには見える。それは蔑みではなく、この夜を愉しんでいると ばかりの笑みだ。

(――――あんたも愉しめよ)

そう言われているような気がして、グルーは我知らず頬を緩めていた。紅い月がトニーの不敵な 笑みを思わせるのだ。
トニーには緋が似合うとグルーは思う。おそらく頭から血をかぶったさまですら。

(愉しまなきゃ損――――あいつなら言いそうなことだ)

手の掛かる息子を持つと親は大変だ。グルーは苦笑し、銃身を撫でた。手の掛かる子程、どうにも 可愛いものだ。子はいつまでも子どもではないし、いつまでも面倒が見られるわけではないのだ けれども。
出来ることならば、いつまでも――――

(あいつには迷惑だろうが、な)

また落ち穂拾いに戻りたい――――トニーと互いの背を預け、手にした報酬で大いに飲み、そして、 笑っていたい。トニーが聞けば笑うだろうが、グルーはもはやそれが叶わぬ願いであることを 薄々だが感じていた。確証はない。が、きっとその通りになるという奇妙な確信がある。

今頃、トニーはギルバと仕事の最中だ。いかに気が合わなかろうと、トニーとギルバの 二人がかりとなれば依頼主の期待以上の働きが出来るに違いない。トニーの共闘相手が自分で あれば……グルーは自嘲めいた笑みを浮かべ、月をもう一度見上げて歩き出した。
グルーにはグルーの仕事がある。愛娘たちを養う義務のあるグルーに、休んでいる時間などない のだ。

緋色の月は煌々として明るく、グルーの背中を密やかに見下ろしている。






あれは、おそらく見てはならないものだった。

仕事が深夜にまで及び、無理に帰宅するよりもと言って安いモーテルで一晩を潰したときの ことだ。

トニーに先に風呂を使わせた。さっぱりして機嫌良く浴室から出て来たトニーに、先に寝ていろと 言ってグルーも入れ替わりで風呂に入った。ざっと汗を洗い流す程度にして風呂から出ると、 トニーはベッドに横たわり眠っていた。小さくはないベッドだ、手足を広げて眠れば良いものを、 犬のように丸くなっているトニーに微笑みを誘われた。
グルーが近付いても起きる気配のない彼に、呆れと同時に嬉しくもあった。トニーは自分を 信頼しているのだと判ったから。

意外だと思ったのは、トニーの寝相が悪くないことだった。くるんと丸くなったまま、ほとんど 動くことのないトニーを、グルーは何となく眺めていた。そうしてどれ程が経ったか、ふと、 トニーが呻きに似た声をもらしたのだ。
それは誰かを呼んでいるようにグルーには聞こえた。

かあさん、と。子どものように何度も母を呼ばわっているのだ。

トニーの家族のことを、グルーは僅かも知らない。根掘り葉掘り聞き出すものではないと思って いるし、必要のないことだと聞こうとも思わなかった。トニーは話し好きだが、家族の話をした ことはない。そのトニーが、寝言で母を呼んでいる。母の夢を見ているのか。それもひどい 悪夢なのだろう。母を呼ぶ声は悲愴な程に引きつっている。
グルーは見かねてトニーの肩を揺すった。起こしてやるべきだと思ったのだ。しかしトニーは なかなか目覚めなかった。は、とトニーが息を吐き、ようよう睫毛が震えた。長い睫毛だと場違い なことを思った。そのとき、

バージル、

聞いたことのない名を、トニーは呟いた。哀しげで、淋しげな――――そして愛しそう な――――声だった。すべらかな頬を涙が一粒こぼれ落ちた。綺麗だと、グルーは思った。

目を覚ましたトニーに、グルーは「うなされていた」とだけ教えてやった。グルーの眠りを 妨げてしまったものと思ったらしく、気まずそうにもじもじするトニーに気にするなと笑って見せ、 ベッドに横になり毛布をかぶった。しばらくしてトニーが再び寝入ったのが判ったが、グルーは 眠れそうになかった。

バージル。その名は誰のものなのか、グルーは当然知らない。しかし誰かも知らぬその名に、 ひどく胸がざわついていることを、自覚せずにはおれなかった。
嫉妬――――そう呼ぶしかない気持ちを、グルーは自嘲しながらも誤魔化すことが出来なかった。 自分の感情に名を与えずにおれる程、若くはない。

見てはいけなかった。聞いてはならなかった。

誰のものにもならないトニーは、おそらく既に誰かのものだったのだ。そしてそれを、グルーは 容易には受け入れられず――――複雑な気持ちを持て余すよりなかった。

トニーに対する感情は、あくまで子に向けるものと同じ親愛であり、それ以上でも以下でもない。 そう自身に繰り返し言い聞かせてようやく、トニーが口にした名を忘れようとした頃だった。
あの無気味な様相の男――――ギルバが現われたのは。



















前?
次?
戻。



またしても続いてます。すいません。
やはりいろいろ矛盾があると思います。それもすいません。