夕顔
何を映すでもない視界には、いつの時も彼がいた。それはあまりにも当たり前すぎて、俺は
忘れていたんだろう。
彼がいつまでも、俺の傍らにいるわけではないということを。
何かに触れようとした手が空を掴む。男は自身の手を見下ろし、眉根に皺を寄せた。いったい何を
思って手を挙げたのか、自分のしたことだというのに判らない。それが不快で、男は気に入ら
なかった。
不可解なことは他にもある。何を掴もうとしていたのかも判らぬくせに、自分の手が何ものにも
触れず空を掴んだことを、男は確かに落胆しているのだ。何故落胆などするのか、その理由が
判ればこの不快感は消えるのだろうか。何も判らぬからこそ、男は眉間の皺を深くするばかりだ。
眉間と言っても、男は顔と言わず頭総てを包帯で覆っている為、他者から見れば表情にはほとんど
変化などないのだろう。男はすらりとした長身と引き締まった体躯の持ち主だが、この包帯の為に
印象はすこぶる不気味である。もっとも、男自身は人の目など露程も気にしていないのだが、人の
反応は面白いくらいに一様だ。
例外はあの青年くらいか。
先日、荒事師の集う酒場に行ったときのことを思い出して、男は口許を歪めた。
トニー・レッドグレイブ。この界隈ではその名を知らぬ者はないだろう実力者だ。彼を指名する
依頼主は多く、しかし当のトニーはひどく選り好みをする性格であるらしく、極端に依頼主を選ぶ
便利屋(トニーは自分のことを荒事師とは言わない)だと聞いた。
ひとは傷付けない、殺さない。そんな甘えたことを臆面もなく言うトニーを、人を殺してでも
金を得ねばならぬ荒事師らは「甘ちゃん」と初めは笑い飛ばしたと言う。しかしトニーは瞬く間に
稼ぎ頭となり、文字通り実力で彼らを黙らせたのである。
己の理想と正義を曲げぬ、強い信念を持つ青年。
男の、標的だ。
男にとって、トニーに関する認識はそれだけで充分だった。トニーは己と己が従う者にとっての
敵であり、彼の命を奪う為に男はここにいる。今はその、下準備の段階であった。
トニー。いや、本当の名は別にある。裏切り者の息子――――赦されざる者の名を、しかし男は
さして重要なこととは思っていない。殺せと命じられたから男はトニー殺すのであり、それ以上
でも以下でもないのだ。
男にすればトニーとはその程度の存在――――そう、それだけの存在だ。
ボビーの穴蔵は今夜も異様な熱気に包まれている。ギルバは辟易しながら、店にある酒の中でも
最もアルコール度数の低いものを、それでもちびちびやりながらため息を吐いた。
この店に初めて訪れた夜のことは、記憶から抹消したい。わけの判らない酒を無理矢理飲まされ、
ギルバはわけの判らぬまま泥酔し、昏倒した。だけならまだしも(断じて良くはないが)、昏倒して
いる間に剣を除く金目のものを総て剥ぎ取られたのである。
思い出しては腹が立つ。ギルバが苛立ちに任せてカウンターをこつこつと指先で叩いていると、
横合いから不意に声が掛かった。――――ギルバに、ではなく、酒場の主人であるボビーに対してだ。
「いつものアレ、頼むぜ」
陽気な声だ。ギルバにはどうあっても出せない(出そうとも思わない)声。そちらを見なくとも
声の主は判る。トニーだ。ちなみにトニーがボビーに頼んだものも、訊くまでもなく判る。判る
ようになってしまった。
「あいよ。相変わらず好きだな」
応じるボビーが慣れと呆れがない交ぜになった表情で言うのへ、トニーがにやりと笑う。
「まぁな」
こんな酒場でそんなものを頼むのはお前ぐらいだという、軽い揶揄ももろともしないトニーに、
ボビーは肩を竦めた。ギルバは彼らのやり取りを眺めるでもなく聞き流している。人間のやることは
皆下らない。そうギルバは思っている。
酒を楽しむでもなく、むしろ忌々しげに舐めるギルバに、トニーが今初めて気付いたかのように
(無論そんなことは有り得ぬが)声を掛けた。
「よぅ、ギルバ。景気良さそうだな」
アルコール度数の弱いものを飲んでいるからと言って、トニーがギルバを揶揄することはない。
性格なのだろう。景気が良い、とはギルバの鰻登りの稼ぎを差しての言葉だ。確かに、ギルバは
この酒場に顔を見せて以来、トニーを抑える勢いで依頼をこなしている。もっともそれは、依頼を
極端に選り好みするトニーと、どんな依頼であっても断ることをしないギルバが競うのだから、差が
縮まるのは当然のこと。もちろん、ギルバもまた、トニーに劣らぬ腕の持ち主であることも理由の
一つだ。
「ふん……」
面白くもなさそうに鼻を鳴らしたギルバの隣に、トニーはどかりと腰を下ろす。
「もう少し選り好みをしなければ、貴様も景気が良かっただろうに」
「あー、まぁなぁ……」
トニーは苦笑するが、選り好みをやめるつもりはないのに決まっている。己の信念は決して
曲げない。どんなに金がなくても、それだけは譲れないのだろう。
トニーとこうして顔を合わせるのは、何度目のことか。知り合ったその日に激しく剣を交えて
から、まだひと月にもならないというのに、ギルバはいつの間にかトニーのことを随分知って
しまっていた。
「この調子なら、私が貴様を抜くのも遠くない」
対抗意識を煽るつもりで告げた言葉に、トニーはくっくと笑った。
「そりゃ、良い。あんたと組むことも増えて、俺も喰うには困らねぇしな」
飯の種を探す手間がなくなる、とトニーは上機嫌だ。演技か本音か、ギルバは判らず眉根を
寄せた。
「貴様は……」
続く言葉は紡がれなかった。トニーの前に、ボビー特製の場違いなものがどんと置かれた。
いかにも子どもが喜びそうな、ストロベリー・サンデーだ。トニーは子どものように目を輝かせ、
早くもストロベリー・サンデーにかぶりついている。
ビールの泡ではなく、ピンク混じりのホイップで髭をこさえるトニーは、どうにも憎めないものが
ある。ギルバは包帯が歪むのを感じ、内心ではっとした。
可愛いものだと、思ってしまった。ほんの一瞬のことではあるけれど、確かにそう思ったことに
ギルバはらしくもなく狼狽した。
「あんたも喰うか?」
じっと見つめすぎたのか、不意にトニーが、アイスをすくったスプーンをギルバの眼前に差し
出して来た。ギルバは渋面を浮かべる。
「……いらん」
トニーは水晶のような碧眼をぱちりとさせ、「そっか?」などと言って手首を返してスプーンを
口に咥えた。
「旨いぜ?」
首を傾げるさまはやはり子どもだ。歳はギルバと同じくらいだろうに、何故こうも子どもくさく
見えるのか、不思議でならない。ストロベリー・サンデーを嬉しそうに頬張っていることを抜きに
しても。
「ほら、」
懲りずにスプーンを差し出して来るトニーに、ギルバは内心で肩を竦める。やはり、子どもだ。
呆れ半分にスプーンを咥えてやる。口の中に無駄な程の甘ったるさが広がるが、嫌味ではない。
スプーンを引き抜いたトニーが「どうだ?」と期待に満ちた眼差しで覗き込んで来るのへ、ギルバは
嘆息しつつ言ってやった。
「不味くはない」
「なんだよ、素直に旨いって言えよな」
機嫌良く笑うトニーの唇を、ギルバはふと親指の腹で拭った。目を瞬かせるトニーに親指に付いた
ホイップを見せ、自分の口へ運ぶ。舐め取ったホイップはやけに甘い気がしたが、そんなもの
だろう。
「……おまえら、何やってんだ」
呆れよりも驚きの強い声が背後から掛かり、彼らは同時にそちらを見やった。情報屋兼仲介屋の
エンツォ・フェリーニョだ。決まった曜日にしか姿を現わさないエンツォの、来店の日が今日だと
いうことをギルバは遅まきながら思い出した。それはトニーも同じだったようで、
「そういや今日だったか」
と白に近い銀髪を掻いた。
「俺はお邪魔だったか?」
冗談を言っている顔ではないエンツォに、トニーが「何のことだ?」と首を傾げる。エンツォは
大仰に肩を竦め、べつに、とわざとらしいため息を吐いた。
「おまえらに飯の種だ。有り難く受け取りやがれ」
ギルバの名が上がるとともに、トニーとの共闘を求める依頼主が増えた。今回もそうらしい、と
ギルバとトニーはちらと視線を交わした。もっとも、エンツォの持ち込んだ仕事はほとんどギルバには
関係のないものばかりだ。ギルバはエンツォとは別の仲介屋とマネジメント契約を交わしており、
普段はそちらからの仕事を専ら請け負うことになっている。今日はその仲介屋は店には来ない。
そちらが来ていれば、エンツォからの仲介をギルバが請けることはほぼ皆無だ。
「内容は?」
訊いたのはトニーだ。ギルバは仕事の内容で請けるか否かを決めることはない為、半分程残った
酒で唇を湿らせた。
「あるブツの運び屋を護衛するだけだ。報酬は前金と合わせて五千。それも山分けじゃなく、
一人ずつに、だ。請けるしかねぇだろ、ん?」
仲介料をいくら程取っているのか、エンツォはやけに機嫌が良い。
「私は構わん。貴様は不満そうだが?」
唇を尖らせて思案しているトニーに、ギルバは言った。トニーにすれば、護衛などという仕事は
退屈に過ぎるのだろう。
「大方、そのブツってのが気になってるんだろうよ」
エンツォの背後から新しい声が掛かる。見上げる上背と屈強な体躯の男は、今し方店に来たらしく
慣れた仕種でトニーの隣のスツールに腰掛けた。
「グルー。ちょっと見ないうちにまた老けたんじゃねぇか?」
ボビーに安ホップの不味いビールを頼んだグルーは、トニーをじろりと横目で見やる。
「そういうお前は、相変わらず餓鬼だな」
トニーよりも一回り以上年嵩のグルーからすれば、トニーなどは餓鬼に違いない。トニーの髪を
ぐしゃぐしゃと掻く仕種などは、生意気盛りの息子をあやしているようだ。餓鬼じゃねぇ、と
グルーの手を払いのけるトニーだが、その実本気で嫌がっているのではない。恥ずかしいのだ、と
ギルバは何故か手に取るような判ってしまい、包帯の下で顔をしかめた。
「で、ブツが何か気になるって?」
切り出したエンツォに、グルーのビールを揶揄していたトニーが顔をこちらに向ける。
「あぁ、それだよ。ものによっちゃ、俺は乗らねぇ」
「馬鹿言うな! こんな良いハナシ断るなんざ馬鹿か腰抜けのすることだ。トニー、悪いこた
言わねぇ。黙って頷くだけで良いんだ。な?」
掻き口説くエンツォにトニーは辟易したように手を振って見せた。
「だから、ブツってのは何なんだ? 俺とギルバをご指名するぐらいだ、ただの運び屋じゃねぇ
んだろ」
「……まぁ、そりゃあな。だが俺もブツのことはよく知らねぇんだ。危険だとだけ聞いてる」
「危険、か」
くっくと笑ったのはグルーだ。この酒場に集う人間らの生業は、およそ危険ではない仕事など
ないに等しい。社会からあぶれ、金の為に死と隣り合わせに生きる彼らは、多少の危険など
もろともしない。グルーもその一人であり、彼が金を必要とする理由が他とは少し違っているだけの
ことだ。
「乗ってやれ、トニー」
「グルー、あんた他人事だからってなぁ……」
「お前、そのコートの飾り、どうしたんだ? 前はそんなもんなかったと思うんだが……
見間違いか?」
う、とトニーが口ごもる。どうやら新調したものらしい。トニーはシルバーアクセサリーを、
魔除けと称してじゃらじゃらと身に飾るのが好きなのだとか。その他、コートやブーツなど、
気に入れば金がなくても手に入れねば気が済まないという厄介な性格をしており、おそらくグルーが
指摘したアクセサリーも、懐具合を鑑みずに手を出したというところだろう。
「殺しの依頼じゃないんだ、渋らず請けておけ」
子どもに言い聞かせるようなグルーの口調に、不快感を覚えたのはギルバだけであるらしい。
トニーは嫌そうにストロベリー・サンデーを掻き混ぜ、渋々頷いた。エンツォはそれを見逃さず、
決まりだ、とにやりとする。
「有り難うよ、グルー。助かったぜ。さすがはトニーの保護者だな」
揶揄うエンツォをトニーがぎろっと睨む。誰が誰の保護者だ、とエンツォの襟首を掴むけれども、
エンツォの笑みは消えない。やはりギルバ一人が、渋面を崩すことなく彼らのやり取りから目を
逸らした。
あたかも興味がないとばかりに酒を舐めるギルバの横顔を、グルーがちらと見やり何を思ってか
片眉を上げたが、ギルバにはどうでも良いことだ。
続いてすいません。発作的にやってしまいました。
小説はいちおう読んだのですが、多分、各所に矛盾があると思われます。
ので、あしからず願います。