君影草、さん
目を覚ませば、そこに見覚えのない天井がある――――そんなことは、取り立てて珍しいことでも
なく。けれど、ぼんやりと見知らぬ天井を眺める視界に、自分とそっくりの顔が割り込んで来る
など、今まで経験したことがなかった。
ふ、と。息を吹き返すように彼が目を覚ました。天井を見上げ、ぼんやりしているらしい。
見知らぬ天井だと判っていないのか、それともまだ意識の大半を夢の中に残してきているのか、
知らぬ部屋に寝かされているというのに反応がない。ダンテは首を傾げて、彼と天井の間に
割って入った。
「目ぇ覚めたか?」
声を掛けてみるが、やはり反応は鈍い。自分のそれよりも僅かに色の淡い碧眼がダンテを映し、
一つ、ゆっくりと瞬いた。が、誰だ、という言葉もない。ただじっと見つめられて、ダンテの
ほうが居心地の悪いものを覚えてしまう。
「まだ寝てんのかよ?」
揶揄うように言うダンテへ、彼は仕方なしとばかりに口を開けた。
「生憎、目を開けて寝る趣味はない」
存外しっかりと目覚めているようだ。いかにも億劫そうに躰を起こし、さり気なくダンテから
距離を取る。警戒されている、とダンテは瞬時に悟って内心で肩を竦める。当然か、と思った
のだ。
歳は違えど、兄弟にしても似過ぎている顔がもう一つあれば、不審に思うのは当たり前だ。
それ以前に、見知らぬ場所で見知らぬ男が傍らにいるという状況そのものが不審であろう。
ダンテは彼の同意を得て、自宅へ連れ帰ったわけではないのだから。
とりあえず、誤解されているとしたら弁解せぬわけにはいかない。
「言っとくが、何もしてねぇからな?」
言えば、彼は眉を顰めて首を傾げた。誤解などしていなかったのかと思って胸を撫で下ろした
矢先、
「……何もしてないのか?」
どうして、と不思議そうに言うものだから、驚きのあまり一瞬息が止まった。その反応すら、
彼にとっては不思議でならなかったらしく、首を反対に倒している。警戒心はある筈だが、
貞操観念は極めて低いと見えて、ダンテは頭痛を覚えた。例えば意識を失っている間に
強姦されても、彼はけろりとしていられるのだろうか。
(有り得ねぇ……)
ダンテは内心で呻き、ベッドの端からずり落ちそうな彼を見やった。警戒心はあるのだ。それは
昨夜も見ているから確実である。ならば、そう。眠っていても、他者の気配が接近すればすぐに
目覚める筈だ。ダンテがそうであるように、よほど気を赦した相手でなければ――――
「おまえ、さ……もうちょっと自分を大事にしたほうが良いんじゃねぇか?」
思わず、言った。顔はそっくりでも、彼にとってダンテは見知らぬ男でしかないのだ。
彼はダンテに興味をなくしたかのように、視線を外して窓のほうを見つめている。意識だけを
こちらに向けているのだろうと、ダンテは思った。
「……大事にする理由がない」
まるで他人事のように、彼は素っ気なく言い放った。自身を卑下しているのではない。本当に、
自分自身をその辺りに転がっている石ころと同じか、それ以下と思っているのに違いなかった。
淡々とした抑揚のない口調に、ダンテは薄ら寒いものを感じずにはおれない。
彼は自分によく似ている。しかしそれは外見だけのことで、中身は全く別物であることが、
この僅かな会話だけで判ってしまった。
ダンテは押し黙り、そういえば、と思う。彼はダンテに対し、お前は誰なのかと問うことも
しようとしない。ただ無表情にどこかを見つめる横顔――――その碧眼には、何も映っていない
のかもしれない。
総ては興味の範囲外。自分自身とて、例外ではないということか。
かける言葉を、ダンテは探しあぐねた。彼から掛かる言葉は一つもない。どうしたものか。
まさかこんな状況に陥るなどとは思ってもみなかっただけに、ダンテは困惑した。
「……そういや、おまえ、どっから来たんだ?」
思い付いて、そのまま口にした。何の考えもなく連れ帰ってしまったが、そもそも彼には彼の家が
ある筈だ。目覚めたのだから、さっさと自宅に帰ろうとしそうなもの……。ダンテが首を
捻ると、
「さぁな」
などという返事があって、またしても驚いてしまった。
「さぁなって……」
おうむ返しに繰り返して呆れるダンテを余所に、彼はおもむろにベッドから下りた。
何をするのかと眺めていれば、きょろりと部屋を見渡して。
「俺の剣と銃は、」
と。
「あぁ……それなら下に……」
言いさして、ダンテははたと思い出した。剣。銃。似ているのは顔ばかりではなかった。彼が身に
帯びていた剣は、かつてダンテが使っていたものと同じ装飾のもので、銃に至っては全く同じ
白と黒の、ピアノの鍵盤の名を持つものなのだ。銃身に刻まれた文字すら同じで、あえて違いを
探すなら、彼の銃のほうがダンテのものよりも使い込まれているふうであるという程度
だった。
下、と聞いて、彼がごく自然に部屋を出て行こうとするのを、ダンテは止めた。まさか、という
予感が脳裏をかすめた。
「ちょ、待てよ。おまえ……名前は?」
「聞いてどうする」
とは、彼は言わなかった。独り言と変わらぬぼそりとした声で、一言。
「……ダンテ、」
やはり、とダンテは額を押さえた。その反応に、彼はさすがに不審を覚えたようだった。
「俺の名前が、なんだ」
口は動かさず、目だけでそう問うてくる彼へ、ダンテは肩を竦めてため息を吐いた。
「俺もダンテって名なんだが……どういうことだろうな、これは」
同名の人間は探せばいるだろう。が、自分たちはただ同名であるだけではないに違いなく、
だからこそダンテは途方に暮れるしかなかった。
彼のほうはさほど驚きを感じていないのか、さして変わらぬ表情がじっとこちらを見つめる
ばかりだ。もう少し、驚いて見せても良いだろうに。
「どうも、俺とおまえは同じ人間らしいんだが……」
どう思う、と意見を求めれば、彼は器用に片眉を上げ、
「どう、とは?」
至極焦れったい反応を寄越してきた。
「だから、……あぁ、もう! 焦れってぇな!」
頭を掻き毟るも、彼は変わらずどこ吹く風だ。まるで彼だけが異世界の住人のように、ダンテには
見えた。いや、いっそ宇宙人……などと好き勝手に考えていた思考が、不意に止まる。今、核心を
かすめたような気が、した。
「なぁ、おまえさ……自分がどっから来たか判らねぇって言ったよな?」
「そうだったか?」
「言った。絶対に言ったんだよ」
「それが、何だ」
さしたる興味もなさそうに、彼が言う。ダンテは開きかけた口を一度閉じ、少し逡巡してから、
再び口を開いた。紡いだ言葉は、今し方言おうとしていた言葉とはまるで違うものだった
けれど。
「どっから来たか判らねぇんならさ、しばらくうちにいりゃ良いじゃねぇか」
不審そうに、彼が眉を顰める。口よりも目でものを言うたちなのだろうか。逆に、ダンテは
求められなくとも自らよく喋るたちだった。
「タダじゃねぇよ。家賃はもちろん払って貰う。どこから来たか、判るまでの間宿を貸して
やるだけさ。悪い話じゃねぇだろ?」
おどけるように肩を竦めて見せると、彼はすっと目を細めて視線を外した。断るのではないか、
ダンテは思って、柄にもなく不安になった。彼がダンテの申し出を断ったところで、ダンテには
何の痛手にもならない。むしろ厄介ごとがなくなって良いと思わねばならぬところだ。が、そうは
思えぬあたり、どうにも己の思考を疑わずにはおれない。
「どうする?」
俺はどちらでも構わないが、などと。心にもない言葉を吐き、虚栄を、張る。まったく素直に
心内を吐露出来る程、ダンテは自身の矜持を無視出来るような歳ではない。これは、意地だ。
彼は湖面のような静寂を湛えた双眸でダンテを見据えた。もし、この彼と自分とが、万が一にも
同一の人間だとして、自分が歳を食えば彼のようになるとはダンテには思えなかった。自分は
ここまで、自分を諦めることなど出来そうもない。
ひたと据えられた双眸からは、何の言葉も読み取ることが出来なくて、ダンテは少々焦れた。
彼は彼の感情を完璧にコントロールすることが出来るのか、そんな芸当も、自分には真似
出来ないと思う。
彼が、久方振りに(というのは大袈裟にすぎるが)口を開いた。ダンテは無意識に息を飲んだ。
が、
「……電話、」
「は?」
「鳴っているが、出ないのか?」
あまりにも突拍子がなさすぎて、ダンテは彼の言葉を理解するのに数秒を要した。電話。といえば
事務所に据えた骨董品のような古い型の電話機しかない。それが、鳴いているって?
ジリリリ……
耳を澄ましてみれば、なるほど確かに黒電話の音が微かにだが聞こえてくる。ダンテの聴覚は
通常の人よりも優れてはいるが、それでも指摘されねば気付かなかった。意識が彼に集中して
いたこともあるが、彼が気付いておらねば鳴っていたことすら知らずに終わっただろう。
「ちょっと、待ってろよ」
まだ話の途中なのだ。電話に応対している間に消えられては困る。ダンテは釘を刺しておいて、
部屋を出た。電話の音はまだ止まない。この大事なときにいったい誰からなのか、ダンテは
苛々しながら事務所へ急いだ。
「悪いな、いきなり呼び出してよ」
などと、心にもないだろう殊勝な言葉を吐く男に、ダンテは辟易して眉をしかめた。
「……で、今度はどんな厄介ごとを押し付けるつもりだ?」
開店したばかりの酒場のカウンターに隣り合わせに座り、ダンテは男――――自称情報屋である
エンツォ・フェリーニョをじとりと睨んだ。先刻の電話はエンツォからのもので、至急、直接
会って話がしたいと言い出したのだった。無論、仕事の話だ。近頃良い依頼に行き当たって
いなかったダンテは、断りたいのは山々だったが、暖かいとは言えぬ懐具合がそれを許して
くれず、仕方なしに出向くよりなかったのである。
エンツォとは長い付き合いだ。いまさら、少し睨んだ程度でエンツォが怯むようなことはない。
ただでさえ、この仲介屋はふてぶてしい性格をしている。
「やけにご機嫌斜めだな。何かあったのか?」
可愛いベイビーでも連れ込んでいたのかと、ふざけて言うエンツォに、そんなところだと
おざなりに答えておく。実際家に置いて来たのは、可愛げの欠片もない、無愛想な男だ。
「おいおい、本当かよ?」
肝心の話を放ったらかしにして、エンツォが身を乗り出してくる。近くなったエンツォの顔を、
ダンテは渋面を作って邪険に払った。
「どうでも良いだろ。さっさと話せよ」
「俺の話が済んだら、今の話、きっちり聞かせろよな」
しつこく食い下がるエンツォに、ダンテは手を振るだけだ。迂闊に承知などしようものなら、
彼のことを一から話してしまわねばならなくなりそうだった。それは、頂けない。
隠しておきたいのでは、なくて。そう、後々面倒なことになっては困るから、だ。
自分自身に意味のない言い訳をして、ダンテは意気込んで話を始めたエンツォの、けっして
快いとは言えぬ声に耳を傾けた。彼もこのくらいよく喋ってくれたなら――――もう少し、
気も楽になりそうなものなのだけれども。
エンツォの話は、正味のところ五分程で終わった。ダンテが最も嫌う、“掃除”の依頼だ。
人は殺さず、を信条にしているダンテの話は、依頼主も知っているらしい。それでもダンテ以外に
は依頼出来ないと主張しているとかで、エンツォに通常よりも破格の仲介料を支払ったという
ことだ。
貰うものを貰ってしまったからには、エンツォは絶対にダンテを口説き落とさねばならない。
熱心に依頼を請けてくれと語るエンツォに、ダンテは始終渋面で対していた。
結果だけを言えば、ダンテはその依頼を請けた。エンツォには散々恩に着せ(当然のことだ)、
報酬を割増ししろとの依頼主への言伝を託し(これも当然だと思われる)、酒も飲まずに店を
出たときには、店を訪れてから軽く一時間は経過していた。その間ひたすらエンツォの熱弁を
聞かされていたのだ、疲れぬわけがない。
いつもならば酒を飲むところを、やめておくの一言で店を後にしたのは、家に彼一人を残して
いるからだ。
足が無意識に急いているのは何故なのか。自問しながら暗がりの路地を歩く。帰ってみれば彼の
姿はなくなっているかもしれない。それを考えずにはおれなくて、ダンテの歩調はいっそう早く
なった。
(あんな無愛想な野郎なんか、べつに……)
いなくなったから、何だというのか。普通なら、そう思うべきなのだが、しかし。
己と同じ名を持つ彼のことが、こんなにも、気になって気になって仕様がない。
(病気、だな)
自嘲を、する。するが、はやる気持ちを抑える因子にはならなかった。
かなりの早足で(みっともないことだ)事務所兼自宅に辿り着いたダンテは、暗いにも拘わらず
全く電灯が灯されていないことに、まさか、と眉を寄せた。
事務所から自宅スペースへ続くドアを乱暴に開け放ち、長くはない廊下を足早に渡る。痛い程の
静寂が苛立ち(焦り?)を募らせる。
「どこにいるんだ?」
誰にともなく呼び掛けながら、リビングのドアを開ける。――――いない。狭い屋内だ。
リビングにおらねば、あとはダンテの部屋かもう一つの空き部屋くらいしか、人のいられる
場所はない。風呂に入っているとは、さすがに考えられなかった。
「二階か……」
いてくれ、と。念じるように思っていることを、ダンテは自覚していない。
階段を駆け上がり、まずは自室へ。電灯のスイッチをオンにするが、誰もいないことはドアを
開けた瞬間に判っていた。残るは、空き部屋だけだ。
もし、あちらにもいなければ、どうしようか。
ダンテは緩慢な動作で空き部屋のドアノブを捻り――――脱力した。
家具の一つもない部屋の、床に。彼は電気もつけずに、窓側の壁を背凭れ代わりにして座り込んで
いた。
「……何でこっちに……」
ため息混じりの呟きは、ふんだんに安堵が織り込まれていて。あまりに気が抜けて、思わず
その場にしゃがみ込んでしまった。
消えていなかった。彼はまだ、ここにいる。
良かった、と。まったくの無意識に呟いてしまったことに気付いて、ひとりで気まずいものを
噛み締めたのは、ほんの数秒後のことだった。
うちの2ダンテは愛想がないです。…いまさら?
[08/05/22]