君影草、に
何かが起こるのは、いつも夜だった。
月が中天を横切り、西へ傾く夜更け。ダンテは酒場へ繰り出そうとしていた足を、ふと止めた。
背後が気になったのだ。自身の勘は疑わないことにしているダンテは、しかしあえて背後を振り
向くことはせず、止めていた足を前へ踏み出した。
殺気ではない。それがかえって不穏ではあるが、それ以上に不審だった。何かの気配があるのかと
いえば、そうではない気もする。とにかく、何かがあることだけは確かで、それが何なのか
判らないということが不審なのだ。
ダンテは前髪を掻き上げ、大袈裟なため息を吐いた。薄暗い街灯が照らすおもては精悍で、
よく引き締まった躰つきといい女好きのしそうな見目である。しかし残念なことに、ダンテは
女受けが宜しくないので同業者たちに知られていた。何が悪いのか、この見目でありながら
たいていダンテが振られて終わるので、同業者らにすれば良い笑いの種になるのである。振られた
ダンテは苦々しくしながらも、自分を振った女のことでくよくよすることはない。元来前向きに
出来ているのだ。後ろを向くことはダンテの気質に合わない。
恋人は剣と銃、などと割り切っているわけでもないが、実質それに近いのだということは
ダンテ自身がもっともよく知っている。結局ダンテは女に鼻の下を伸ばしているよりも、
銃弾の雨の中をくぐり、血と硝煙の臭いを纏わせているほうが性に合っているのだから。
酒場はすぐそこだ。数メートルも行かぬところに、ぼろ切れと見間違えそうな看板が掛かって
いる。通い慣れた酒場では、今夜も荒事師や便利屋どもが飲めや歌えやの騒ぎを繰り広げている
のだろう。
馬鹿騒ぎが嫌いではないダンテは、自身が酒に強いということもあって最後まで騒ぎに付き合う
ことがままある。それで稼ぎを使い果たしたこともあれば、逆に稼ぎになったこともあった。
たまにいらぬ喧嘩を吹っ掛けられることもあるが、そこは一種の愛嬌だとダンテは思っている。
厄介ごとを厄介と思わぬ鉄の肝を持ち合わせているダンテにとって、同業者との諍いなど取るに
足らぬ些細なことでしかない。
そのドアを一枚開ければ、後は目当てのものを親爺に頼めば良いだけだ。若い頃から(年齢的には
まだ若いと言って良いのだが)、それはダンテの好物であり続けている。歳を食えば趣向は変わる
ものと言うが、それに関してはまだ変化は訪れていなかった。馴染みの情報屋がうんざりした
ように顔を歪めるのも、いつものことだ。
どうしたものかと、思う。背後の何かは、こちらに近付いてくる様子もない。
無視を決め込むか、それとも何がそこにあるのか突き止めるか――――ダンテは一つ肩を竦め、
ゆっくりと振り返った。
その夜、ダンテは酒場には姿を現わさなかった。
酒場から少し離れた路地の奥に、ダンテの棲処はある。スラム街のとくにたちの悪い区域である
そこに、ダンテは好んで暮らしていた。治安の悪さは札付きだが、強盗などの被害に遭ったことは
一度もない。こんな場所で金目の物を捜すような馬鹿はいないということだ。
ダンテはベッドの脇、床に直接尻を下ろして座っている。ものが雑多に散らかった部屋には椅子も
なく、めぼしい家具といえばベッドくらいのものだ。ほとんど眠る為だけにしか使わない部屋の
ベッドには、ダンテではなく別の人間が寝かしつけられている。誰なのか、ダンテにも判らない
のだから話にならなかった。
とりあえず、男だということは一目瞭然である。肩幅は広く、背もダンテと同じくらい高い。
顔立ちは精悍というよりも端正で、薄く開いた唇はやや肉厚がある。そして、髪は銀色。ダンテが
この男に己のベッドを明け渡したのは、何もわけのないことではなかった。理由がなければ男など
ベッドに寝かせる筈がなく、そもそも家へ連れ帰ることもしなかった。
男は路地に落ちていたのだ。そう、ダンテには見えた。薄汚れたアスファルトに脚を投げ出して
いた彼は意識がなく、しかしダンテが一歩近寄った瞬間、瞼が開いた。鋭くこちらを睨んできた、
その双眸――――目が離せなかった。
これ以上近寄れば、男は何らかの手段でダンテを殺そうとするだろうことが判って、血が騒いだ。
少なくともダンテを知るものならば、下手な喧嘩を売るようなことはしない。確実に返り討ちに
なると知っているからだ。それに、ダンテと同等の腕を持つものはこの界隈にはいない。紛れも
なく、ダンテは最高の便利屋なのだ。
そのダンテを、彼は本気で殺すつもりで睨んでいた。いや、眺めていた、と言ったほうが良いかも
しれない。この場にいるのがダンテでなければ、彼の殺意を感じ取れなかっただろう。あまり
にも、彼は無防備に見えるからだ。
静かな睨み合いはいつまでも続かなかった。ダンテが沈黙を破ったのだ。気になっていることが、
あった。
「何にもする気はねぇから、早とちりしてくれるなよ?」
言って、一歩足を踏み出した。彼はぴくりでもなくダンテを見つめている。ダンテが銃なぞに
手をかけようとすれば、おそらく彼はその間にダンテの心臓を撃ち抜いているのだろう。ただ
数秒見つめ合っただけで、ダンテは彼の腕が己よりも上であることを感じていた。
また一歩近付いたが、彼は指先一つ動かさない。ダンテが本当に何もするつもりはないことを、
確信しているように見えた。
それはそうか、とダンテは納得する。余計な警戒をし、無駄弾を撃つのは素人のすることだ。
思わず笑みを浮かべたダンテを、彼はやはり感情のこもらぬ瞳で見上げている。何を考えている
のか、どうにも探れぬ双眸だ。かつて袂を分かった、兄を思い起こさせる目だと、思った。
――――それが大いに思い違いであることを知るのは、もう少し先の話だが。
「訊きたいことがいくつかあるんだが……こっからなら、俺の家が近いんだ」
そちらでじっくり話をしよう、と。ダンテは彼のそばにしゃがみ込んで持ち掛けた。男を自ら
誘うなど(疚しい気持ちはない、と内心で誰かに弁解しながらだが)、どうかしていると自覚は
あった。しかし彼をこのまま放っておいてはならない気がしたのだ。何故なら、彼はあまりにも
己に似ていたから。
彼もダンテと自身が似過ぎていることに気付いた筈だ。普通は気付くし、気になるに決まって
いる。が、そのわりに彼の反応は鈍く……
「……俺には話すことなんてない」
抑揚に欠いた声がぽつりと言ったきり、また口を閉ざしてしまう。瞳も、伏せられた。睫毛が
長いな、と男相手に妙なことを思ったのはそれが初めてだ。
「おまえにはないかもしれねぇが、俺としちゃ……」
はた、とダンテは言葉を切った。眉根を寄せ、彼の俯けられた顔を覗き込む。じっと見つめる
こと、一分強。
「……ね、寝てやがる……っ」
脱力した。まさか話している途中で寝落ちてしまうなど、想定していなかった。ある意味感心した
ダンテだが、実は相当疲れているか、何かしらの理由で体力が限界を来たしているのかも
しれない。ダンテに自分を狙うつもりがないことが判ったから、糸が切れたように意識が
途切れてしまったのだろうか。
ダンテは肩を竦めて、彼を担いで家路に就いた。彼が思いの外に軽いことに、口笛を吹いた
理由はダンテにも判らない。
彼をベッドに寝かせて一時間程になるが、彼はまだ目覚めない。そろそろダンテのほうも眠気に
襲われ始めているのだが、どうしたものか。
警戒心というものを、彼は忘れているわけではないらしい。眠っていても彼の精神は目覚めている
のだと、ダンテには判ったしそれは当然かとも思う。見知らぬ男に無防備をさらして平然として
いられるような、安楽な生き方はしてきていないのに違いなかった。
彼が起きれば、自分をどう言うだろうか。話すことは何もないと言った彼を、無断で家に連れ
帰ったダンテを、彼は――――
(はっ……何考えてんだか、な)
自嘲し、ダンテはベッドに頭を乗せた。肌寒くはあるが、風邪を引き込みそうな程ではない。
目を閉じれば、すぐにも眠れそうだった。
間もなく訪れる眠りを、ダンテが拒む理由はない。ただ気に掛かるのは、彼が目覚める瞬間に
立ち会えないかもしれないということだけ。そんなことを考える自分もどうかしていると思う
けれども、いつもの気紛れだと自身を納得させてやるしかない。
寝息すら微かにも聞こえない彼の眠りの傍らで、ダンテもまた睡魔に身を任せた。彼については
不審なことが多く、突き止めたい気持ちはあるのだけれども、彼を叩き起こすことも出来ない
のだ。開き直ってともに眠ってしまうより良い手を、ダンテは思いつかなかった。
彼はいつ目覚めるだろう。願わくば、ダンテが起きたときに彼がまだ眠っているように。
彼の瞳がまた、自分を映すように――――名前も知らぬ感覚が沸く理由など判らず、ぐずぐずと
しているうちに、いつの間にか眠っていた。
出会い編…
[07/03/18]