君影草キミカゲソウ、いち









佇む影は一つきり。





それは暗い、闇い夜だった。

郊外まで行けば街灯も少なく、月のない夜なとは真っ暗な闇に包まれるものだが、街中はそうは いかない。灯の消えることがない街中では、深夜であろうが煌煌とした明かりが空すらも染め、闇を 阻む。それが当たり前のことになって久しい今、夜がこうも暗いと感じるほうがむしろ奇妙とすら 思えた。
いかに眠らない街に住んで長いとは言え、暗闇がないとは男は思わない。闇は確かにそこに あって、ひとならぬものを生み続ける。それを知っている男は、しかしひそりと横たわる闇を 恐ろしいと感じたことは一度たりともない。

男は界隈では名の知れた便利屋だ。堅気に縁のない生活を始めてもう長い。同じような職で 荒事師というものがいるが、男はあくまで便利屋の名に拘った。荒事師は金さえ懐に入れば、人を 殺すことも厭わぬ輩だ。むしろそういった、いわゆる汚れ仕事を専らにする荒事師が多い。男は そんな荒事師らと同系に見られることには耐え難かった。
男には己が貫くべき正義を常に胸に抱いている。理想、という言葉がしっくりくるその正義を、 馬鹿馬鹿しいと嘲笑う輩は少なくないが、男にはその馬鹿馬鹿しい理想を貫いて足るだけの実力が ある。初めはあからさまに男を侮蔑するだけだった荒事師どもの冷ややかな目は、いつしか嫉妬と 羨望の混じったものへと変わっていた。

暗闇を頼りなく照らす街灯が一つ、男の目に入る。もう冬も近いというのに、明かりには虫が 数匹集まり忙しなく飛び回っている。短すぎる生をこれでもかとばかりに必死に生きる小さな 生き物を、男は目を細めてしばし眺めた。虫が一匹、思い余って明かりにぶつかるが、よろよろと しながらも羽ばたくことはやめようとしない。止まれば死んでしまうということも、別段ないの だろうに。

男は立ち尽くしていた脚を唐突に踏み出し、街灯の下から外れまた闇へと溶け込んでいく。 向かう先は今日の仕事――――男の狩り場だ。









彼はよく、ふと気が付けば眠っていることがある。このときもそうで、眠り込んだ記憶はないと いうのに目を開けると外は既に暗くなっていた。
夜行性。馴染みの情報屋などは彼をしてそう評する。確かにそうかもしれないと、軽く笑ったのは いつのことだったか。曖昧な記憶は引き出しから顔を出しただけで引っ込んで、それきりこそりとも 言わなくなる。

物忘れが激しいのでは、決してない。むしろ彼の記憶力は優れていると言って良く、学業に励んで いればどれ程の成績を修めていたか判らない。が、残念ながら彼はせいぜい中等並の学校教育まで しか受けてはおらず、自ら進学を望んだこともなかった。
真っ当な生き方とはどんなものだったか、彼にはもはや思い出せなくなっている。
記憶力は、意識して使わねば自然と衰えるものだ。しかし彼の記憶に衰えは見られない。物忘れ とは無縁である筈の彼が、しょっちゅう物事を忘れてしまう理由は簡単だ。

彼の記憶に鍵をかけたのは、他でもない彼自身なのだから。

生きていれば、大事な記憶とそうでない記憶は自然と増えていくものだ。嫌なことは忘れていく。 そうして自身を守りながら、ひとは生きる。いつか死を迎えるそのときまで。
彼は幼い頃、母にひととして育てられた。父は悪魔だ。彼の躰に流れる血の半分は、悪魔のそれで ある。母は彼に、ひととして生きることを教えた。しかし母は彼が独り立ちをする前に帰らぬ人と なってしまい、以来、彼はひとでもなく悪魔でもない何かになった。
悪魔に殺された母の為に、彼は悪魔を殺し続けた。いつか母の敵に行き当たるだろうと、ひとと して生きることよりも血を浴びることを選んで生きてきた。そうするより他に、生きる術がなかった ――――そうとでも思わなければ、彼は己の心を支えることが出来なかったのだ。

大事な大事な母を亡くし、彼は道標すら失った。せめて彼が十七か八くらいまで母に支えられて いたとすれば、今のような生き方をしてはいなかっただろう。それ程に、彼にとって母とは大きな 存在だった。
母の影に、故意に忘れようと鍵をかけた記憶が混じっていることを、彼は知っていて見ないふりを する。その記憶こそが自身を“こう”させた原因であることを、彼はよく知っているのだから。

腹が減っているような気がしたが、彼は何も食べずに事務所兼自宅を出た。どうせキッチンには 食べ物らしいものはなく、あって水か酒くらいだ。いつもならば酒を瓶のまま煽って寝直すところ だが、今日はどういう風の吹き回しか、外へ出てみようという気になった。

たまには濁った空気も良いもんだぜ?

そう言ったのは、やはり馴染みの情報屋だ。ここの澱んだ空気よりは、外の濁った空気のほうが どれ程ましか判らない、と。彼が軽く笑うと、情報屋はそれだけで彼の意を察したのか、 「お前さんの好きにしな」などと言って肩を竦めたものだ。
そのやりとりはつい最近のことで、彼はそれからほとんど外には出ていない。情報屋は「好きに しろ」と言ったわりに、飯の種だ、だの近くに寄ったついでだのとよく顔を見せる。放っておけば 知らぬ間に死んでいそうだ。そんなことを冗談めかして言っていたが、有り得ることだと思っている のかもしれない。彼自身、絶対にないとは言い切れないのだから。

事務所の外は、さして明るくもない街灯が一つあるきりで、ひどく暗い。いつになく闇が深い ように思えて、彼は柳眉を顰めた。外に出ることの珍しい彼だが、外出するときはほとんどが 夜中だ。見慣れた闇に変化があれば、気付く。
何か奇妙だと感じながらも、悪魔やそれに連なるものの気配があるわけではない。腿に巻き付けた 銃が必要になるような自体には、なりそうもない静けさだ。
彼はひょいと肩を竦め、右の腿の愛銃をひと撫でして足を踏み出した。

闇に溶け込む。明かりの届く境を超えると、そんなふうに彼は思った。









決して交わることのない二つの刻が、どうした弾みから混じり合うことになったのか、答えを 知るものはどこにもいない。









「放っとくと、本気でいつまででも寝てるよな」

半ば感心が含まれた声で呟いて、ダンテはベッドに腰掛けた。乳白色の毛布にくるまった塊が、 もぞりと動いてダンテから少し距離を作る。意識はあるが、まだはっきり目覚めているわけではない ベッドの住人は、ダンテが近付こうとするとこうして微妙な距離を作ろうとする。避けられている のではないことは、ダンテも知っている。本当に厭わしく思われていれば、ダンテがこうして彼の 寝姿を目にすることなど出来ないのだから。

「……仕事は」

毛布の中から掠れた声が投げられる。毛布の外に出ているのはさらさらの銀髪くらいで、目を出す 気すら彼にはないらしい。
ダンテは小さく笑みを浮かべ、ないと答えた。彼が息だけで「そうか」と呟くのが判り、ダンテは 毛布の端をちょっと引っ張ってみる。

「まだ寝るつもりかよ?」

放っておけばいつまでも、という言葉は比喩などではない。彼が朝日のあるうちに起き出した ところなど、ダンテは見たことがなかった。起きているかと思えばソファーや椅子に凭れて眠って いたり、とにかく日のほとんどを眠ってすごしていると言って良い。今も、時刻は既に正午を 回ろうかとしているのに、彼はまだ寝足りないふうで、毛布を手放そうとしない。
この、ダンテよりも年上の彼が、触り心地の良いものが好きらしいと知ったのはつい先日の ことだ。すっかり肌寒くなったので、シーツを毛布に取り替えたところ、彼は感触を確かめる ように毛布を撫ぜ、あるかなしか判らぬ程度の笑みを見せたのだ。それから、彼は用がなければ 一日中、ベッドの住人と化している。

(ったく……)

自分と良く似た顔立ちの彼を、ダンテは半分呆れながら、残りの半分は可愛いと思っている。 歳を重ねても、きっと自分は彼のようにはなるまい。確信に似たものを、彼の寝姿を見るたびに 抱く。
こんなふうに、毎日寝て過ごすことなど出来そうもないのは確かだが、それ以上に精神的な面で 彼のようには絶対になれないと思うのである。

彼は、ダンテからすれば異常なまでに総てを諦めている。諦観。それが常に思考の根底にあると でも言うのか、何ごとにも何ら興味を抱くことをしない。ただそれだけのことなら、似た思考の 持ち主をダンテは知っているのだけれども、彼は違う。
彼の目には、何も映ってはいない。
比喩ではなく、彼の硝子玉のような淡い青眼には、何も映されてはいないのだ。そう、こうして すぐそばにいるダンテですら、彼の瞳には――――

「なぁ、……眠っちまったか?」

話しかければ、彼は返事をする代わりにもぞりと身動ぎした。誰かの気配があるところでは、 眠っているように見えても実は意識はあり、いつなりと動けるよう備えているのだ。
ダンテは無性にやる瀬ないものを感じ、誰に誤魔化す必要もないのだが、落ち着きなく窓に目を やった。

「そろそろ、本当に起きろよ。飯、喰っとかねぇと痩せるばっかだぜ? なんか適当に作って やるから」

数年前まではスクランブルエッグも作ったことのなかったダンテだが、今ではデリバリーに頼る 必要がない程度には自分であれこれ作れるまでになっている。彼のほうはどうか知らないが、 キッチンに立っている姿はまだ見たことがない。そもそもダンテが気をつけていてやらねば、 平気で何も食べずに数日すごしてしまうような男だ。その所為で、彼の躰は筋肉はまんべんなく ついているものの、ダンテに比べれば体躯の差は歴然としていて、痩身と言っても過言ではない。
骨がきれいに浮き出た首筋に、口付けて甘噛みをするのはなかなかに気に入ってはいるの だけれども。彼のあまりの少食ぶりに眉を顰めぬわけにはいかなかった。

(気付きゃ死んでた、なんて……笑えねぇ)

いかに人とは違う血が流れているとはいえ、半分は人間なのだから、ろくに食べずにいれば死を 近くする。死なれては、困るのだ。

「おい、いい加減……」

ダンテの声が半ばで途切れる。彼が、いかにも面倒臭そうに毛布から顔を出してダンテを 見上げた。何ものも映さぬ、その双眸。ダンテは何をか言いかけた唇を、一度噤んだ。

「……サンドイッチぐらい、喰えるだろ?」

作って来る。短く言い残し、ダンテはベッドから腰を上げて部屋を後にした。彼の目を、 真っ直ぐに受け止める――――ただそれだけのことが、耐えられなかった。

――――俺に構うな。

突き放す(拒む)声が聞こえた気がして、ダンテは堪らなくなった。
彼はあまりにも自分とは違っていて、ダンテは途方に暮れるばかりだ。どうすれば彼の心に 近付けるのか、凄腕の便利屋として名の知れたダンテですらまるで判らない。

(どうすりゃ良いんだろうな……)

例えばここにいるのがダンテではなくあの男なら、彼はその瞳に映すのだろうか。世話を 焼いても、あんな目をせず素直に受け入れるのだろうか。――――詮ないことだ。あの男はもう この世にはいないのだから、こんな仮説は虚しいばかり――――けれども、とダンテは思う。
自分たちがこうして同じ空間にいるという、有り得ないことが現に起こっているのだ。あの男が 絶対に現われないとは、誰にも断言など出来ない筈である。

ダンテはドアに凭せ掛けていた躰を起こし、一つため息を吐いた。途方もない。何を指してという こともなく、ダンテは独りごちてドアから離れた。





もしこの想いが伝わるのなら、或いは彼は――――



言葉は彼岸へは届かない。きっと、そういうことなのだ。



















次?
戻。



ちょっと続かせてみたいなぁ…とか…
甚だしく気紛れ更新になることうけあいですが…

[07/12/3]