絡指
膚に囁く。
反吐が出るような、甘い睦事。
ぎし、と革張りの椅子が嫌な音を立てて軋む。さして身動ぎしたわけでもないのだが、咎める
ようなその音にダンテは沈みかけた意識を無理から浮上させられた。そして嫌でも、自分の姿を
見てしまう。
大きな鏡の前に、ダンテはいた。磨き上げられた鏡はダンテの全身を余すところなく映し、
まるで「どうだ」と言わんばかりだ。映り込むダンテは、確かに椅子に座っていて、ぎろりと鏡を
睨んで目を逸らした。見たくもないものをまじまじと見つめるような趣味は、ダンテにはない。
見たくないもの。まさに今の自分の姿がそうだ。
「くそっ……」
口汚なく悪態を吐き、目を閉じる。自分の姿を少しでも見ないようにと、小さな足掻きだ。
ダンテは革張りの椅子に座っている。どこの理容店にもある回転式の椅子だ。鏡は理容店に
あるよりも大きく、全身が映るように設置されているが、様相はやはり理容店のそれである。が、
ここは断じて理容店ではない。理容店にいるならば、ダンテはこんな不快感に襲われる必要も
ないのだ。
何が不快か。
ダンテはただ椅子に腰掛けているのではない。両腕は肘掛けに沿う形で縛り付けられ、両足は
膝で一つ、足置きで足首をもう一つ、縛られている。膝を閉じているのは少々疲れるが、総体的には
無理のない姿勢だ。これで両手両足を縛るものがなければ、きっと自然に眠っているだろう。
しかしそれは出来ない。いや、不可能という意味ではなく、実際ダンテは全くの不眠状態にはない。
一人になれば、眠りもする。そう出来ない――――するわけにはいかぬのは、少しの油断がダンテを
今の状況に貶めたという事実があるからだ。
かちり、と鍵の開く音がした。来たか、とダンテは薄く目を開ける。鏡の上部に据えられた
電球が、ぼんやりと照らし出したのはダンテを椅子に縛り付けた張本人だ。
男は何やら上機嫌でダンテのそばに近寄り、にっこりして言った。
「ただいま、ダンテ。いい子にしてたか?」
ダンテは目を伏せるように細めて小さく嘆息した。
「この恰好で、どうやって悪い子でいろって?」
指先ひとつ、とは言わないが、動けないのだ。何を出来る筈もない。
男はくつくつと笑ってダンテの肩に触れた。
「そう尖るなよ。縛ってるのは手足だけなんだ。楽にしてろって言ったろう?」
「楽にさせたいなら普通に椅子に座らせろ。何だってこんな……」
言いさしたダンテの髪を、男が不意に摘んで引っ張った。
「っ……?」
「こうしてねぇと、逃げるだろ。じゃなきゃ、暴れるか」
するする、と銀の髪が男の指を滑ってさらりと元に戻る。癖のつかない髪質らしく、髪留めを
付けるなりしても跡がつくことはほとんどない。それもまた、この男にはひどく“うけて”しまう
のだ。
男は、ダンテの髪を異常なまでに気に入り、そして執着している。美しい髪を持っているなら
それが男であろうと女であろうと関係がないらしく、また容姿も問わないと言う。要は、髪だけが
男を惹き付けるのである。
ダンテの髪は、ダンテの意思を全く無視して男を惹きつけ、そして尋常ではない執心を芽生え
させてしまったというわけだ。
「……暴れもするし、逃げもするだろ……」
げんなりと呟く。本当は、今も逃げたくてならない。男はダンテの髪を指や唇で触れるだけでは
飽き足らず、口に出すのも嫌だが、舌で舐めるのだ。ねっとりと舐め、そうすることで快楽を
得ているとはっきり判るからこそ、怖気が走る。初めに髪を舐められた時、フェティシズムとは
こういうことかと、ダンテは背筋と言わず全身を凍り付かせて思った。
それが、三日前だ。
ダンテは男の言葉通り、逃げた。正確には、逃げようとした。が、現状を見て判るように、
逃げることは出来なかった。普通なら腕の筋肉だけで引き千切ることも可能な布で縛られて、
しかし逃げ出せずにいるのには理由がある。男が一定時間ごとに、ダンテに投与する薬の所為だ。
思考こそはっきりしているが、四肢は気怠く、力はほとんど入らない。象の巨体すら動けなく
させる程の分量だと、男が笑っていたのを思い出しては腹が立つ。
男はある意味で、ダンテをよく理解している。同業者の中にはダンテを妬むあまりすぎた
過小評価をするものもあるが、男には初めからそれがない。ダンテを尋常ならざる腕の持ち主と
認め、理解した上で、捕らえようというのだ。普通の人間なら意識が混濁する程の量の薬を
ダンテに投与するのに、男は躊躇いも見せなかった。注射針を打つ手つきに慣れがあるように
思うのは何故なのか、ダンテは深く考えぬようにしている。
男は愉しそうに鼻歌など歌いながら、ダンテの形の良い頭にキスを落とした。
「ふふ、」
鼻歌が時折途切れ、嬉しくて仕様がないと言いたげな笑みがもれる。それがまた、ダンテの嫌悪を
煽る。
「……上機嫌だな」
こっちは最悪だ。とは言わず、ぼそりと呟いた。男はそれを待っていたかのように、判るか、と
言って鏡越しにダンテを見つめた。
「今日は詰まらねぇ仕事しかなかったんだが、思わぬ収獲があってな」
語尾にハートマークでも付きそうな勢いだ。鏡に映る男の眼差しは、ねっとりとしてどこか蜘蛛を
思わせる。
「ほら、見てくれよ、これ」
嬉しそうに取り出したものが、ダンテの頬に触れる。ひそり、と。
「…………っ」
「どうだ、綺麗だろう? 最近じゃ、毛先が傷んでねぇのは珍しいんだ」
うっとりとそれにキスをする男。微かに鼻をつく硝煙と血の臭気に、ダンテは込み上げる嫌悪感を
隠さず露骨に嫌な顔をした。男はダンテの表情から何を感じたのか、くすりとやけに上品に
笑った。
「そんな顔するなよ。これも、今まで集めた髪もどれも、お前の髪には及びもしねぇんだから」
「……嬉しくねぇよ」
第一、的はずれだ。
「そうか? じゃあ――――そうだな、どうすれば機嫌を直してくれる?」
おどけたように男が首を傾げる。収獲だと言った誰かの――――女のものだろう――――髪の
束からはもはや興味が失せてしまったかのようだ。男は今までにも、こうして自分の眼鏡に
かなった髪を収獲と言っては切り取り、集めて来たのだろう。
女を――――或いは男を抱くよりも、髪に触れることで性的な昂奮を得る男のことだ。
コレクションした髪に舌を這わせ、自慰に耽る姿を想像してしまって後悔する。
「俺の機嫌を取ろうとする奴のやることか、これは」
ダンテは男のことが嫌いではなかった。髪を梳く指にはもう嫌悪しか感じられなくなったが、
それでもダンテはまだ、男自身を心底嫌うことが出来ないでいる。実際、やることや言葉の端々は
異常であるが、男はダンテを椅子に縛り付けはしても、乱暴を働いたりはしていない。縛るという
行為は充分乱暴かもしれないが、それだけだ。こういった性癖を持つ人間は得てして思考も常軌を
逸しているもので、ダンテも手荒く犯される程度の覚悟はしていた。が、男はその辺りに関しては、
何故か紳士的で、逆に戸惑ったくらいだ。
男は相変わらずダンテの髪を梳き、まめに手入れをすることに余念がない。
「だから、解いたら逃げるんだろう? 逃げない暴れないって約束出来るんなら、薬なしで解いて
やるぜ」
「薬漬けじゃおかしくなっちまう」
「そうなったら、俺がちゃんと面倒見てやるから安心しな」
俺は優しいだろう。嘯く男の唇が、ダンテの耳朶をかすめる。さながら愛撫のようだが、男が
キスしたいのはダンテの耳ではなく耳にかかる髪だ。
「綺麗だ、ダンテ。お前は誰よりも俺を昂ぶらせる。お前が一生綺麗なままでいられるなら、
俺は悪魔に魂を売っても良い。こうしていつまでも、キスして、愛してやりたい」
反吐が出るような甘い睦事を、熱っぽく囁く。しかしダンテの心が浮つくことはなく――――
そんなものは当然だ――――、冷ややかに鏡の中の男を見た。
「無理だな」
きっぱりと言い切れば、初めて男の目が鋭くダンテを見据えた。
「……どうしてそう言い切る?」
男には、自分がダンテを解放しなければ、ダンテはいつまでも自分の許にいるという意識が
あるのだろう。だからダンテに否定されて、俄かに苛立ちをあらわにした。
ダンテは鼻で笑った。
「確かにあんたは俺を上手く縛り付けてるよ。薬も効いてる。けどな、俺はあんたが何をしても、
あんたのものにはならない。絶対に」
「その恰好で言っても、説得力がねぇぞ? それともあれか、心は誰のものにもならない、とか
言い出すつもりか?」
「んな寒ぃこと誰が言うかよ。俺はな、生まれた時から他人のものにはならねぇって決まって
るんだ。ましてあんたみたいなヘンタイのものなんかには、な」
鏡の中の男はぴくりとこめかみを引きつらせ、ダンテの肩をぎりりと掴んだ。
「お前はここにいるんだ。たとえ俺のものにならなくても、ここにいる限りお前は俺の最高の
恋人だ」
「恋人、か。あんたが必要なのは“俺”じゃねぇだろ」
そう、髪だけだ。
ぶつり、という異様な音。肩から襲う激痛にダンテは顔をしかめた。男がダンテの肩に指を
突き立て、肉を抉ったのだ。
「痛いか? 痛いよなぁ?」
「っ、……」
ダンテが悲鳴を堪えたのが気に食わなかったのか、男はいっそう指をめり込ませる。
ひどい傷みがダンテに襲いかかるが、反してダンテの頬には笑みがあった。
「これで――――あいこ、だ」
ぶちぶち、と。今度は肉を断つ音ではない。ダンテが腕を振り上げるようにして、戒めの布を
千切ったのだ。そして自由になった腕を閃かせ、目を見開いている男の横っ面を殴った。
思いがけぬ打撃に男はよろめき、その隙に足の戒めを引き千切る。すっかり自由になったダンテは
凝り固まった手足を伸ばし、唖然としている男に笑って見せた。
「甘いよ、あんた。今日はちょっとお喋りが過ぎて、薬盛るの忘れたろ」
薬の効果が薄まれば、ダンテは普段通りとはいかずとも、自力で戒めを解くことが出来る程度の
力が出せる。そのことは男も判っていた筈で、だからこそダンテへの薬を欠かさなかった。が、
男は詰めを見誤ったのだ。
「あんたがまだあの酒場に顔を見せるなら、それでも良いさ。俺はただの同業者、それ以上でも
以下でもねぇ。判るだろ?」
「つまり、もう髪には触れさせてくれないってことか」
「言ったろ、俺はあんたのものにはならない。あぁ、でも」
ダンテは目を巡らせ、椅子の後ろに据えられた洗面台に視線をやった。目的のものはすぐに
見つかった。つかつかと洗面台に近付き、それを手に取ると男が訝って眉を顰めた。
「何を、……!」
男が息を飲むのが判る。ダンテはそれを無視して自分の髪を一掴み、ざりざりという音をたてて
一息に切った。半端に伸びた襟足を、剃刀で。男はダンテの髪を何よりも愛している。ダンテが髪を
切る間はほんの数秒でしかなかったが、男にとっては何よりも酷い拷問であっただろう。現に、
男は放心してしまっている。
「丁度切りたかったんだよ」
手を開けば切り取った髪がさらさらと散って床に落ちる。ざんばらになった襟足を払い、
ダンテはさっぱりしたように言った。
「切った髪を掻き集めようが、あんたの勝手だ。それはもう俺じゃない。好きにしろよ?」
艶っぽい笑みを残し、ダンテは三日ぶり――――いや、換算すれば四日ぶりか―――に男の
部屋を出、外の空気を吸った。
不恰好になった髪は帰ってから鏡の前で格闘するしよう。ひょいと肩を竦め、ダンテは
マンションの廊下から手摺を飛び越え、直接アスファルトに降り立った。行き交う人々の
短い悲鳴とどよめき、異様を見る視線を根こそぎ無視して、真っ直ぐに自宅へと足を向けた。
激しい挫折感漂う終わり方で申し訳ない…
どうにも書く勢いが削がれて、結局エロが消えました…(死)