宵虹
水辺に歌う、澄んだ美しい声を聴いた。
その国は海に面し、海運で栄えた貿易国であった。
貿易で得た富は莫大なもので、ほんの小さな領土しか持たぬこの国は、今や知らぬ者などいない
程の発展を遂げている。
海の反対側は険しい山が連なり、実質上、移動手段は舟に頼る他なく、他国からの侵略を一度も
許さなかった。海軍さえ精強であれば、国を守るのには充分すぎる兵力である。
街は城を囲むように城壁の中に形勢され、その城壁の一部が開けた形で海と繋がっている。
港町、というものではなく、海と国――――都市国家と呼ぶべきか――――が一つとなった
国なのである。
城の一角に、一人の少年が佇んでいる。碧い瞳に銀の髪。白い膚、赤い唇。少女と見紛う程美しい
おもての少年だ。
碧眼の見つめるものは眼前に広がる海と、その水面を走る大小の船。
彼はこの国に生まれ育ったが、これまでに一度しか船に乗ったことがない。国交の為に隣国を
訪れる父に同行したのがそれで、一年前のことだ。
別段、船が好きということではない。海が好きというわけでもなく、一つ、気になっている
ことがあるだけなのだ。
大きな白い帆船が一艘、港に滑り込んで来る。マストに掲げられた旗の紋章は隣国のそれだ。
今夜、隣国の王とその王妃を迎えての夜会が催される。彼もまた、その席を与えられていた。
挨拶だけ済ませば、もう用はない。さっさと部屋に戻ってしまおうと、彼は肩を竦めた。
その視線はひたすら、海を映している。
その海域には人ならぬものが棲む。
国が海運によって拓けるより昔から、それは一種の伝説として伝えられていた。
上半身は人、腰からしたに魚の尾びれを生やした、いわゆる人魚が棲んでいる、と。
人魚は海の底にある国に棲んでいるが、時折海面に姿を現しては美しい歌を歌うと言う。
その歌声はまさに天上の音色と言われ、海で聴いたと言う人間は少なくない。
少年はそういった類の話をあまり好んでいなかった。実際に自分の目で見たものしか信じるに
値せぬと思っているし、下らぬことだとも思っている。
彼はまだ幼いが、神も天使も、人魚やらも頭から存在を否定していた。いや、幼いが故に一度
否定しまうと、それらを信じる人々すら受け入れることが出来なくなっているのだ。否定と肯定。
その二通りしか、彼は持ち合わせていなかった。
しかし、彼は一つのきっかけを与えられた。
一年前、初めて乗った船の中、海の上でのこと。
初めてだから船酔いをするかもしれない。散々母に心配された彼は、しかし僅かな気分の
悪さもなく海上を走る船に揺られていた。陸にいる時よりも強く感じる潮風が心地好かった。
隣国までは船で三日と少し。国と国との友好をはかる訪問であり、侵略する為ではない。
それ故、ゆるりとした旅程は相手方に不審を与えぬ為でもあった。
往復で七日弱。風の具合によっては、それより早くもなれば遅くもなる。
風に任せるしかない帆船の造りに、彼が少し苛立ちを感じ始めたのは、国の港を出て、一つ目の
太陽が沈んだ頃だった。
甲板に出、少し緩やかになった風にあたりながら、船の縁に凭れて溜息を吐いた。酷く苛立つ。
吐き気はないが、いつもに比べて随分と落ち着かない気分だった。
常に揺れているという、この船の感覚が駄目なのだろうか。しかしそれならば、素直に船酔いを
起こしそうなものだ。
苛々する。
判らないことも、総て含めて苛立つが募る。
また一つ、溜息を吐いた。その時、どこからか、誰かの声が聞こえてきた。
それは歌のようで、しかし途切れ途切れにしか聞こえぬ小さな声。
中で誰かが歌っているのだろうか。しかしこんな声を持つ女性はこの船にはいない筈だ。
父と自分の世話役を仰せ遣った女中が五人、船には乗っている。しかし歌姫と名高いものは
一人としていない。
この声は、今まで聴いた誰のものよりも美しい。
船でないとすれば、後は海の上、もしくは海の中しかない。周りに船影はない。が、それは、
声の主が人ではないということに繋がってしまう。
人魚、――――
彼はしかし、疑うよりもそれを見てみたいという好奇に駆られた。彼が何かに興味を示すなど、
今までなかったことだ。好奇心などというものとは無縁の、冷めた子供と誰もが囁く程、
子供らしからぬ淡泊な性質の持ち主なのだから。
じっと目を凝らし、耳を澄ました。声は船と並走するように、遠ざかりもせず近付きもせずに
付いて来る。船足はゆっくりとしたものだが、やはり不思議な話だ。
月明りに照らされた、黒い海。ちゃぷ、と近くで何かが跳ねる音。不意に途切れた歌声。
海の水面と、船の甲板。
それは、酷く美しい、いきもの。
帰りの船に、それは近寄っては来なかった。遠くで微かに歌う声を聴いた気はしたが、
そうあればと願う心が幻を生んだのかもしれない。
結局、あの一度きり、それは姿を現すことはなかった。
隣国との友好関係は続いている。あの訪問の際、隣国の王家に娘がいることを確認した王は、
その娘と彼を娶わせようと考えているらしい。
あちらの王と王妃も、あながち満更でもないのだろう。
彼は確かに、美しい容貌をしているのだ。たとえ自覚はなかろうとも。
隣国の王女は、バージルの目には何の印象も与えることはなかった。どこにでもいる少女が
少しばかり派手に着飾っている。その程度の認識を、頭の隅でしたかどうかというものでしか
なかった。
彼の頭の中は、あの夜出合った“あれ”のことで占められていた。
隣国からやって来た王の一行は、海に臨む城と豪勢な歓待にいたく感銘を受けたらしい。
夜会では始終饒舌で、笑みを絶やすことがなかった。
そして彼に対しては、娘の話ばかりを嬉しそうにしたものだった。曰く、王女は彼をいたく
気に入ったらしく、夜も眠れぬのだとか。
彼はそれらの話を右から左に聞き流し、そこそこで打ち切って夜会から抜け出した。煩わしい。
王女の話も、それをさも嬉しそうに話す隣国の王も、そして父と母も、総てが煩わしかった。
この国に、王位を継ぐものは彼の他にない。子種に恵まれなかった父母は、早く彼の妻を探して
子を作らせようと躍起になっているのだろう。その努力こそ、彼には不快でしかないのだとは
気付かずに。
どうせなら、と彼は思う。
海で出合ったあのいきものと、――――叶わないことなど判りきっているのだが。
部屋に戻り、最早今夜の夜会の席には再び行くまいと決め込み、蝋燭に灯を灯して本を広げる。
様々な伝承や伝説を集めた本で、一年前のあのことがあってから買い求めたものだ。一通りは目を
通したが、やはりこういった類のものは興味が持てない。
彼が読む箇所は人魚に関する記述だけだ。
内容はほぼ、人々の口に上るものと大差はない。挿絵は入っているが、これを描いたものは
おそらく実物を見たことはないだろう。彼の見たものは、この挿絵に及びもつかぬ美しさ
だった。
月夜に光る髪は艶やかな銀。瞳の色こそ判らなかったが、透き通るような白磁の膚はしっとりと
濡れ、雫の滑る剥き出しの肩は彼の男としての何かを刺激するのに充分な艶やかさがあった。
一目で、心を奪われた。
俗っぽく言うなら、そうなるのだろう。
手に入れたいと思った。生まれて初めて、心の底から欲しいと思った。
そうして、瞳の色を見てみたい。きっと美しい色をしているに違いない。
熱のこもった溜息を漏らし、窓の外に視線をやった。城の、特に上階にある彼の部屋からは、
海がすっかり一望出来る。見慣れすぎた光景は、しかしあの日から眺めることに飽くことがなく
なった。
もしかすれば、あれがどこかにいるかもしれない。そう思うだけで、一分一秒でも長く海を
見ていたと願うようにすらなった。
どうかもう一度、あれに遇いたい。そして、
「僕のものに……」
無意識に呟いた言葉は窓硝子を通り抜け、星の海へと消えていった。
何かに執着したのは、それが初めだった。
国は良くも悪くも、それ以上の発展を続けることはなかった。しかし財を貯えることを覚えた
民は、年を追うごとに富み肥えていった。国は、民を含めてどこまでも富んだ。
海を見下ろす高台の部屋で、バージルは一人、いつものように読書に耽っていた。部屋の壁には
背の高い本棚が並び、そのどれもが本で埋められている。あたかも書庫のような光景だが、ここは
バージルの私室なのだ。
本に囲まれ、本と暮らす。一種の堕落した生活を、バージルは五年も続けている。
五年の間に、隣国の王女との婚約が取り決められた。バージル以外の皆が早く婚礼を、と望んで
いる中、バージルはそれを頑なに固辞しているのだ。そもそも婚約自体がバージルの知らぬところで
勝手に成立していたのだ。何が気に入らないのかと問う父王の言葉に、バージルは思わず笑って
しまった。気に入る入らないの話ではない、と。
結婚する気は微塵もない。冷たく言い放てば、母が顔を両手で覆って泣き出した。それを見て、
父はバージルを殴り付けた。結婚は絶対にさせる。命令と言う手段に踏み切った父と、さめざめと
泣く母に、バージルは最早見向きもしなかった。
そんなことがあったのは、つい数日前のこと。激昂した父は、既に隣国への使者を送っただろう。
バージルの意思に拘らず、王女との婚礼を挙げさせる為に。
バージルは他人事のように回想し、詰まらぬ、と一人ぼやいた。結婚など、して何になると
いうのか。子を成し子孫を殖やすその行為に、いったいどれ程の意味があるのだろう。何の興味も
関心もない女を、どうやって愛せと言うのだろう。
「下らぬな……」
ぱたりと本を閉じ、バージルは部屋を出た。最近は飯も部屋で済ませているが、決して部屋に
閉じ籠っているわけではない。日に一度、決まって夜に、バージルは部屋を抜け出し、城をも
抜け出してある場所に向かうのである。
それは城壁の外の、普段人が来ることのない浜辺。
夜の浜辺は波のさざめきだけが響き、酷く暗い。しかし今夜は月が明るく、バージルの行く手を
すっかり照らしている。
さく、さく。砂を踏む音は軽いが、バージルの足は反対に重い。結婚の二文字が、バージルを
酷く億劫にさせていた。
何故。
黒い海に問い掛けたところで、応えがある筈もない。ただただ波が、絶えず打ち寄せ、引いて
行くばかり。
ふと、いつもは行かぬ砂浜の先に行ってみようかと思った。城にはまだ戻りたくはない。
もう少し、歩いていたい気分だ。
砂浜の切れ目は低い崖のような岩がそびえている。潮が満ちて波が岩に打ち寄せており、
見れば、向こう側に洞のようなくぼみがある。
満ち潮と言えど、まだ大潮には遠い。洞は海水が入り込んではいるようだが、浸りきって
しまっているわけではないらしい。その洞の中に、バージルは奇妙なものを見た。
暗がりに浮かぶ、白い、蛇かと一瞬見紛うそれは細い腕、らしい。
俯せに臥した下半身は波に飲まれる形で水に浸かっている。蒼白いうなじから背中、腰に
かけての線の滑らかさは彫像のようだ。
バージルは足が濡れるのも構わず、洞へ入った。中は屈まねばならぬ程に高さがない。が、
その分幅だけはあり、中央辺りにそれは倒れているのだ。
小さな期待が胸にあることに、バージルは気付かないままそれの傍らに膝をつき、肩を
揺すった。海水に体力を奪われたか、ぴくりともない。肩を掴み、思った以上に軽い躰を
抱き起こしてやる。
「…………」
やはり、と。バージルは無意識に笑みを浮かべていた。それは、六年前にたった一度出合った
だけの、人ではない美しいいきもの。
はっとして、それの下半身に目をやった。もし本当に人魚と呼ばれるものならば、そこには
魚の尾びれがある筈だ。しかし、バージルの目には人の脚が二本、生えているようにしか
見えない。
(人間、だったのか? いや、そんなことはどうでも良い)
何という幸運か。六年、焦がれる程に望んだものをついに手に入れたのだ。
は、と笑いが喉をついた。
それは婚礼の日の、ひと月前の出来ごとである。
元ネタはお分かりのように、人魚姫です。…男ですけどね。