童歌
薄く陽の射し込む森の中、少年が一人、とぼとぼと歩いている。真っ赤な布を外套代わりに
羽織り、手には藤で編んだ籠を提げて。
白い膚とぽってりとした紅い唇から少女のようにも見えるその少年は、長い睫毛を伏し目がちに
して森の奥深くへと進んで行く。寂しげな足取りは、けれども止まることはない。
少年が向かう先は、湖畔に住む彼の祖母の家。もう一年も会っていない祖母を訪ねるのだから、
もっと足取りは軽い筈だ。しかし、今年十二歳を迎える彼は知っていた。祖母が、ただ湖の畔に
住んでいるのではないということを。
森の樹々が風に揺れ、ざわざわと人のざわめきのように騒ぎ出す。
少年は不安げに辺りに視線を巡らせ、下唇を噛んでたっと駆け出した。
森は、彼らにとって畏怖の対象だ。子供だけではない。大人ですら、森にはよほどのことがない
限り脚を踏み入れることはないのである。
邪霊が棲み、侵入したものを取り殺すと信じられている森に、好んで立ち入るものなどいよう筈が
ない。
その、森に。
彼の祖母は“住んで”いる。
はぁ、はぁ、
湖の畔で脚を止め、彼は細い肩を上下させた。籠の持ち手をぎゅっと握り、祖母の家――――と
いうにはあまりに粗末な――――の戸を叩く。
とん、とん、
返答は、ない。森の祖母を訪ねたことなど一度もないが、ここより他に家らしきものはない。
祖母がいるとすれば、ここしかない。筈なのだ。
もう一度、戸を叩いた。やはり返答はない。
少年は戸を見上げ、ノブに手を掛けた。かちゃ、と簡単に戸が開く。隙間からそろそろと中を
覗き込むが、窓が小さい為か酷く暗く、よく見えない。
彼はしかし、幼く可愛らしいおもてを恐怖に蒼褪めさせた。鼻をつく、噎せ返るような鉄錆の
臭いに。暗い部屋のそこかしこが、赤黒い血に染められているのだと、彼は悟ってしまった
のだ。
どうしよう、どうしたら。
かたかたと全身が震える。戸を閉めることも、顔を背けることも出来ず、少年はただ立ち尽くす
しかなく。何より、彼にはここより他に行く場所がなかった。
一年前に祖母が、そして彼もまた、この森に。
祖母のものだろう血の臭いに少年の小さな鼻が慣れ始めた頃、彼はふっと感情を失ったように
無表情になり、するりと戸口をくぐり部屋に足を踏み入れた。
薄暗く、明かりのない部屋にひとり。手探りで窓に引かれたカーテンらしい布を取り去った。
湖に弾かれた光が眩しくて、目を眇めた。その時。
「……誰だ」
低い声に、少年はびくりと肩を跳ね上げた。背後に誰かがいる。振り向くことを少年は躊躇した。
人の声はしているが、人の形をしているとは限らぬのだ。
この部屋を赤く染めたのが背後にいる何かだとすれば、自分もまた同じ目に遭わされるかも
しれない。
少年が固まったまま動けずにいると、背後のものがすいと近付く気配がした。一層、少年は
身動き出来なくなる。胸の音が早鐘のように激しく鳴る。浅く短い息を繰り返す少年に、
その何かが再度声をかけて来た。
「言葉を知らぬのか」
一切の動きを忘れた少年は、しかし素早く首を左右にする。
「ふん……?」
では、と背後のものは言いさし、けれども続く筈の言葉を飲み込んだようだった。
「どこから来た」
問われ、少年は蚊の鳴くような小さな声で、「まち、」と答える。
「何故ここに来た」
「お……おばぁちゃ……ん、が……」
「……成程」
皆まで言う必要はなかった。背後のものが、安心しろ、と呟くように言う。
「お前は喰わん」
子供は旨いが、お前は喰わずにいてやる。
“それ”は少年から少し離れたらしい。声が少し遠ざかる。
「早く親の許へ帰れ」
その言葉に、少年の肩がまた跳ねる。小さく震え出した少年を、それは訝ったのだろう。
どうした、と問うて来る。
少年は崩れるように床にへたり込んだ。
「……っ、……ひっく……」
声を殺して泣く少年に、それは慌てたのだろうか。何故泣く、と訝る声は、どうしてか優しく
少年の耳を撫ぜた。
少年は首を振る。帰れない、と息を詰まらせながら言った。帰るところは、どこにもない。
背後のものはその意味を正確に察したようだ。そうか、と呟く声には微かに怒りに似たものが
込められていた。
「祖母を頼り、ここまで来たのだな」
確認するそれに、少年はこくんと頷く。
「済まなかった」
唐突に、それが何ごとか謝罪した。お前の祖母を喰ってしまった。続いた言葉に、少年はしかし
ふるふると首を左右に振った。祖母が元気にしているとは、彼は思っていなかったのだから。
背後のそれは何かを躊躇するように少し沈黙した。そして。
「私のところに来るか?」
はっとする程近くに声があり、少年は初めて背後を振り向いた。そこには銀の髪の、美しい男が
ひとり。しかし人ではないということは、少年にはすぐに判った。瞳が、血のように紅い。
人を食らうものは、皆緋色の目をしているのだ。
異形を表すその朱を、しかし少年は恐れることはなかった。緋色の瞳をじっと覗き込み、
ようやく浮かんだ表情は、笑み。
男がつと目を細め、少年の頭に触れた。正確には、少年が頭から被っていた外套代わりの
布を。
紅い布に隠れたものは、男と同じ銀の糸。
男は少年の銀糸に指を絡め、ついと白い頬を撫ぜた。
「……名は、何と?」
少年は男の手にすり寄るように顔を少し傾け、呟く。
「ダンテ」
男は少年の名を口の中で唱え、自らも名乗った。
「私はバージルだ」
その声と掌の暖かさに、少年の瞳からは新しい涙が溢れた。それは先刻流したものとは違い、
冷たいばかりの涙ではなかった。
銀髪碧眼の少年は、銀髪紅眼の鬼人に出合う。
察して頂けてるとは思いますが、元ネタは某童話です。