破壊
約束をした。
大切なひとと、ひとつの約束を。
それは決して複雑なものではなく、しかし何よりも難しい約束。
果たせそうにないと知ったなら、あのひとを哀しませてしまうだろう。けれどもう、先に待つ
未来は決してしまった。
灰塵ばかりの闇い世界に射す、ただひと欠片の光を。
捕まえて匣に閉じ込めて。
そうして、闇の淵に沈んでいく。
目が、覚めた。しばらくうとうととして、気が付けばまた、目覚めが来る。それを何度も
繰り返している所為で、時間の感覚はまるでなくなってしまった。といっても、ダンテには
初めから時間の感覚などない。
初め――――この閉じた空間に連れて来られてから、もういくつ夜が過ぎただろう。
窓の外が明るくなるのを、時折見た記憶はある。しかし覚えているのは、暗いばかりの窓。
揺れることのないカーテン。
どうしてここにいるのだろう。そんな疑問は、沸いたそばから消えて行く。確かなことは、
バージルがいないということだけ。
バージル。双子の兄。
母の胎内から生まれ出るより以前から、自分たちはともにあった。だから、どんな時にも
側にいるのが当たり前だと思っていたし、余程のことがない限りそうして来た。
おかしくなったのは、母が三つ目の悪魔に殺された日からだ。
あの日のことは、はっきりとは覚えていない。
母が殺されたことは嫌になる程覚えているが、その後の記憶はやけに曖昧だ。
気が付けば、どこか悄然としたバージルの腕の中だった。全身が痛くて、血だらけで。
けれども傷一つなかった自分を、バージルはまるで取られまいとするようにきつく
抱き締めていた。
母が死んでしまった。それを哀しんでいるとは、ダンテはどうしてか思えなかった。その時の、
朧気にしか覚えていない兄の瞳にあったものは、哀しみではなく怒り。それは、きっと母を
殺めたものに対するものだと、ダンテは朦朧としながら自身を納得させた。
あの日から、兄は変わってしまった。
何が、と特定することは出来なかったけれど、自分の知らないところで“何か”を探していると
いうことに、ダンテは気付いていた。その“何か”を探す為に、最後にはどこか遠くへ行って
しまうだろうことも。
あの日から、兄は、――――総ては変わってしまった。
「ダンテ、」
名を呼ぶ声は、兄のそれよりまだ低い。響きを誰かに喩えるなら、真っ先に父を思い
浮かべる。
兄の許を離れて、おかしくなってしまった頭で彼は気付いたのだ。この男は、父に似ているの
だということに。
顔立ちが似ているのではない。声も違う。けれど、髪を梳く指が、頬に触れる掌が、
抱き締める腕が。その、途方もないあたたかさが。
「目が覚めているのだろう、ダンテ?」
言って、男がベッドに腰掛ける。ぎしり、とスプリングが軋んで沈む。
ダンテは男を見上げた。自分を映す双眸は、父のものとは違う色。しかし、父さん、と。
ダンテは無意識に口走っていた。
男――――キースが困ったように微笑する。
「私はきみの父君ではないよ?」
判っている。けれど、父だ。
ダンテは幼子のように腕を伸ばし、抱擁をねだった。キースにではなく、男を通して見る、
父に。
キースは肩を竦め、ダンテの躰を起こして膝に抱き上げてくれた。ダンテは破顔し、キースの
首にしがみつく。父さん。壊れた頭で、父の匂いを思い出しながら。
父に抱き締めて貰った記憶は、極めて少ない。しかし、母以上に自分に優しかったことだけは
鮮明に覚えている。そんな父が大好きだったということも。
ふと、思い出す。あの頃、兄と何をして遊んでいたか、覚えていない。あれだけいつも
二人一緒だったというのに、何故か兄の記憶は父のそれに覆われて判然としない。
兄は優しかっただろう。きっとそうだ。けれど、どうして覚えていない?
「ダンテ、どうしたんだい……?」
キースが不思議そうにダンテの顔を上げさせた。何のことか判らずぼんやりとするダンテの
頬を、キースが指で拭う。濡れた感触がして、泣いていたのだとようやく気付く。
いったい何が哀しいのだろう。
何があれば、人は涙を零すのだろう。
人として生きることを教えてくれた母は、何と言っていただろう。
兄はいつも、ダンテが泣くたびにぐしゃぐしゃになった顔を舐めてくれた。ダンテがねだれば、
唇も丁寧に舐めてくれて。それが、ダンテは酷く好きだった。
父は、半魔である自分たちに、何を教えてくれただろう。魔力の使い方などは、教わった
覚えがない。
「……父さん……」
涙を拭うキースの指に頬をすり寄せ、ダンテはまた泣いた。優しいばかりのキースの指先に、
何か足りぬものを感じながら。
いつからか、父の記憶はふつりと途切れる。
瞳が溶ける、と思う程泣いた。泣きじゃくり、喚き散らし、二階の物置部屋にこもり膝を
抱いてひとりで哀しみ抜いた。
その時、閉じこもる彼に兄が何をか言い、彼も何ごとか言葉を返した。
何を言われ、何を言ったのか。
覚えてはいない。
ただ、涙が止まらなかった。
キースが優しくキスをしてくれる。胸に触れ、股の間のものに触れる。勿論、父とこんなことを
した記憶はない。けれど、キースのくれる愛撫はどこか懐かしいもので。
ダンテは靄がかった頭で、キースを深く受け入れようとして脚を開いた。
「……っ、……」
息が詰まる。何故か。理由は単純だ。
首を絞められている。それだけのこと。
この首に絡む手は、誰のものだろう。やはり答えは決まっている。
「バージル」
残酷な、けれど誰よりも大切な半身。
ちゃり、と。聞き慣れた鎖の擦れる音がした。
前触れもなく、暗い窓が派手に砕けた。外から内へ。何ものかが窓を破り、侵入して
来たのだ。
それは真紅のコートを翻す、異形のもの。
ベッドからずり落ち、床を這っていた彼を視界に映すなり、彼に近寄り片手で軽々と
持ち上げた。異形のもののもう一方の手には、見慣れた剣が一振り。
しかしその目印というべきものがなかろうと、彼にはそれが何ものか判っていた。
「ばぁじる」
舌っ足らずな声で呼べば、それは変貌したおもてをダンテに近寄せ、無造作に口付けた。
重なる唇は固い。当たり前のように入り込んだ舌は、まるで蛇か蜥蜴のように長く。喉の
奥まで犯される感覚に、彼は喘いだ。
「っん……ぅ、ふ……っ」
あらわになった膚を這う、硬質の感触。人ではないものに犯されようとしていることに、
彼はしかし、ある種の陶然としたものを感じていた。
兄は、自分を棄てはしなかったのだ。
その思いだけが、彼を支配する。
「はっぁ……ば、じ……る……」
もっと、もっと触れて。もうどこへも行かないように、深く深く繋がって。
ねだるさまは浅ましく。
蕩けたおもては、恋い溺れた愚かな娼婦。
「バージル……」
呼ばわる、その声が最早音として発せられていないことに、彼は気付いてはいない。
鱗のようなものの感触に、ぞくりとした。
キースの声を聞いた気がしたが、彼は確かめることなく意識を閉じた。
目が、覚めた。そこは暗く狭い、閉じた空間。緩衝材が敷き詰められている為に、息苦しさは
言葉では表すことが出来ない。
しかし、その苦しさは彼にとって、むしろ心地好くすらあった。
狭く暗い匣は、兄が出掛ける際に蓋を閉じて行く。丁寧に釘を打つ音は、兄の執心。いくつも
打ち付けられた釘は、兄の狂気。それを向けた先にあるものが自分だということが、震える程に
嬉しいのだ。
きっと、ここにいれば。
兄は自分を棄てることはない。
ぎちぎちと、バールで釘を引き抜く音がする。兄が帰宅したのだ。
今日はどんなふうに抱いてくれるだろう。どんなふうに、犯してくれるだろう。
壊れた頭で、夢想する。
最後の釘が抜かれ、開いた蓋の隙間から射し込む明かりが目に痛い。しかし、明かりを遮る兄の
おもてを見てしまえば、苦しさなど忘れてしまう。
兄がもののように彼を匣から出した。痩せすぎた躰が匣の縁に当たり、柔い膚が簡単にすり
剥ける。彼を抱き上げ、そのままソファーに腰掛けた兄が、彼の赤くなった膚に舌を這わせた。
唾液が染みてぴりりとした痛みが走る。
兄は、一言もない。彼もまた、何を言うこともない。
彼はこの時、ほんの少しだけ不安を覚える。以前は言葉を交わさずとも、互いの思うところが
何となく判ったものだが、今はそうではない。判らないのだ。まるで。何を考えているのか。
何を思っているのか、何一つ。
だから、不安になる。
けれどもそれを、口に出すことは出来なくて。
口にしてしまえば、終わる。そう、無言で脅迫されているかのように。
最良の選択は、今このままを、ひたすらに続けること。
バージル。
一年と少し前、自分を棄てた双子の兄。高い塔の上、雨の中で再会した兄。魔界を望み、
自ら堕ちようとした兄。
堕ちていく兄を、自分は無理矢理引き上げた。喚き、泣き、縋って。
兄が求める“力”が何だったのか、ダンテは終に判らなかった。父の力に固執する理由も、
そうする必要も、何もかも。
変わってしまった。
何も、かも。
けれど、彼は今、ようやくの仕合わせを手に入れたのだ。
狂った瞳に兄だけを映し。
淫らな肢体を兄だけに拓き。
兄の名だけを、口にして。
心に伸し掛かっていた重みはもう、感じない。
首に提げたアミュレットの、禍々しい緋色がどこか哀しげに輝いた。