崩壊
灼けつくような想いを、どうしていいかが判らない。
一言。ただそれだけを言えば良いのだと、判ってはいる。けれど一言が。
言葉に、ならない。
それさえ言葉にしてしまえば、総てが上手くいく筈なのに。
崩れいくばかりの砂礫の山に、ただ立ち尽くして。
誰もいなくなった世界を、嗤う。
紅いコートを翻し、異形へとその身を変じながら、バージルは一つの高層マンションを
その視界に捉えていた。
双子の弟を攫ったものが、そこに住んでいるということをバージルは知らない。しかし
バージルは真っ直ぐに、脇目も振らずそのマンションを目指している。
細い糸を手繰り寄せるように。慎重に、ということはなく。
マンションを見上げ、バージルはふと口角を上げた。目には見えぬ糸が、ふつりと途切れて
いる。そこか、と呟き、マンションのエントランスへ足を踏み入れる。オートロック式のドアは、
閻魔刀の一閃で破った。強化硝子などバージルにとっては紙と同じだ。
エレベーターはあったがバージルはあえて使わずに階段を昇った。一段、一段。ゆっくりと、
確実に。
今のうちだ。弟を攫ったものに、宣告をする。
そう、今こうしてゆっくりとしてやっている、この間だけ。弟を好きにさせてやる。だが
辿り着いてしまえば、終わりだ。
束の間、溺れているが良い。
バージルは最後の一段を昇り切り、見回すように首を巡らせた。部屋を捜しているのでは、
無論ない。これから死に到らしめるものへの、最後の猶予だ。
「……死ね……」
邪魔をするものは、総て。
低く呟き、バージルは閻魔刀を抜いた。
結界は完璧なものではなかった。わざとそういう作りにしてあったのだろう。侵入者を易々と
通した後、綻びはぴたりと閉じ、外界の一切を遮断した。
結界を張ったものは、捜すことなくあちらから姿を現した。が、双子の弟の姿はない。男が
出て来た部屋のドアに視線をやれば、男は柔らかな笑みを湛えて言った。
「あの子なら眠っているよ。眠らせた、が正しいのだけれどね」
これから殺されると知っているのだろうか、男は多弁だった。黙れ、と制止しようとする
こちらを逆に押しとどめ、聞きたまえ、と諭される。柔らかな表情、声、仕種。総てが
不快だった。
「貴様の下らぬ話を聞く気はない。一瞬で死ね」
しなやかに反った刀身を突き付けるが、男は恐怖というものを抱いた様子はない。
「私を殺しても、もう元のようには戻れないよ?」
何が、どう元に戻らぬとは、男は口にはしない。しかし、判らない筈がなかった。
「これから死ぬ貴様には、関係ない」
「確かに。だが私には口を出さねばならない理由がある。あの子をこのまま君に渡してしまう
わけにはいかないのだよ」
「あれは私のものだ。貴様に預けてやるのは、これが最後だ」
冷たい刃の切っ先が、男の喉元に添う。やはり、男は恐れるふうもない。だからと言って
こちらが怖じる必要も理由もなく、
「死ね」
男への宣告は、しかし実行されることはなかった。背後から襲いかかるものを、反射的に刃を
反転させて斬り裂いた。それの倒れ臥したそこに、血溜まりが出来る。
刀に血振りをくれ再び男に対する。男は声をたてて笑った。
「お見事。だが、もう少し慎重になるべきだったね?」
不審な言葉に、何、と眉を吊り上げる。男はくつくつと笑い、言う。
後ろを見てごらん?
言うなりになるのは癪だったが、嫌な予感に煽られるように背後を見やった。そこに、
あってはならないものを見る。
「……馬鹿な、……」
血溜まりに俯せに浮かぶ、銀の髪、白い肢体。
「喉を斬り裂いただけで、死んでしまうあの子ではない」
違うかい? と男は悪戯っぽく笑う。確かにそうだ。たとえ心臓を貫いても、自分たちは
死なない。悪魔の血が、彼らから死を遠いものにする。
それを凝視したまま動けずにいると、男がまた何ごとか言った。
「私の知らない間に、あの子は相当無理をしたようだね」
ここにあるものを“あの子”と呼ぶ、その違和感にようやく気付く。
「これは、あいつの“影”か」
「その通り。しかし知っているかな? それはただの分身とは違う。あの子の本当の
意味での影だ」
合図を受けたかのように、血溜まりに沈んだそれが全身を黒く染め、溶けるように消えた。
男は一段落が着いたとでもいうように、革張りのソファーに腰を下ろした。どこかの貴族の
ような動作で脚を組み、首を傾げるようにしてこちらを見上げる。
「今の君は冷静ではない。それはあの子にも言えることだ」
「――――、何が言いたい」
「君は危険だ。君のそれは、いずれあの子を死なせてしまう」
だから、君にあの子は返してやれない。告げる、男のおもてには最早笑みはなく。
「止めさせて貰う。これは古い友人との約束でもあるのでね」
ざわり、と。空気がざわめき膚を刺す。無論、既に人の膚はなく、この場の空気の変化を
気配で感じるだけだ。
それは強い闇の気配。
ソファーに微かに映された男の影が、不自然に波打つ。何かが暴れているかのように、
ソファーがぼこぼこと盛り上がっている。
全身に何かが伸し掛かったような圧迫感に、舌打ちする。
「ようやく正体を現したか」
侮蔑を込めた呟きに、男は片目を眇める。
「私は“正体”とやらを隠していたつもりはないのだけれどね?」
「ならば何故、あれが貴様に……」
言いさした言葉を、寸前で噛み殺した。しかし察した男が楽しげに、殺した言葉を拾って
しまう。
「あの子が何故、私懐くか不思議かい?」
不快な笑みは、いっそ禍々しく映る。
「君は判っている筈だ。あの子が私に懐くのか……君に戒められた記憶を封じてまで、
再会した私に躰を許したのか」
闇の気配がまた、濃くなった。ここが最早魔界の入口であるかのような錯覚に、ともすれば
陥りそうになる。
閻魔刀を握る手に、汗が滲んだ。しかしそれを不快と感じることはなく。
「……記憶を、封じた?」
「君は、私とこうして話をしていて、何か感じることがあるのではないかな? その何かをあの子は
君より強く感じ、そして素直に惹かれた」
その、何かとは、なに?
男は知っているのだ。自分が本当に求めている“力”の意味を。物理的な意味も勿論ある。
母を、そして弟を殺されたことが引き金となり、自身の無力を呪い、悪魔としての力を手に
入れようとした。
弟を再び何ものかに殺され、また、母が生き返らせる光景をこの手で止めようとした。
しかし、その“力”を、父のそれに求めたのは何故か。
確かに父は強大な悪魔だった。その血を受け継いでいるのだから、自分には父が封じた力を
己のものとする権利がある。そう思い、あの剃髪の男の話に乗り、塔を復活させた。総ては
“父の力”を手に入れる為――――そう、父の、総ての悪魔を裏切った父の力でなくては
ならなかったのだ。
それ以外の力では、足りなかった。
腕力や魔力の強さではない。
本当に、欲しかったものは。
「……私は……」
閻魔刀の柄を額に押し付けて、言葉を失った。そういえば、何故自身をして「私」などと
言っているのだろう。――――いや、おかしくはない。おかしくは、ないのだ。
ぬるり、ぬるりと、男の影から生まれた黒い胎児が床を這う。一つ、また一つ、生まれ出でては
床を這いずり、取り囲む。この空間にあって、異物と言うべき半魔の存在を。悪魔にもなれず、
人にもなれず、そして何よりも理想とするものにもなれずにいる、中途半端な虚ろなるものを。
「君は、求める“力”の在処を間違えたのだよ。君が行方を眩ませた一年前、あの子がどんな
生活をしていたか、君は知らぬのだろう……?」
ずるり。脚に、絡む。黒いものがじわじわと肉を食らう。閻魔刀を、父の遺物をひとつ、
振るった。
金物じみた悲鳴が上がり、黒いものが真二つになって床に転がる。しかし闇は確実に増え、
いつく斬ろうと減りはしない。
男は闇の中心にあって、ただ静かに見つめるばかり。
一閃が走り、爛れた闇を斬り裂いた。
「私はあれを、……あれを取り戻すまでは……っ」
血を吐くように叫び、幾重もの幻視の刃を男に向かって放つ。が、
「結局、何ものにもなれなかったか……」
男の呟きは、遠く。
「……ダ、ン……テ……」
闇が、総てを覆った。
父のようになりたかった。強く、優しかった父のように。
そうすれば、きっと。
父のように、あれは、
自分を、愛してくれる。
そう、信じて。
彼はタオル地のクッションを腕に抱き、傍らに腰掛けた男を見つめ、しかしその瞳には何をも
映してはおらず。
男はダンテの、白く褪せた髪を梳き、紅く染まった首筋に触れ、
「……済まない」
呟いた。
首を傾げ、子供のようにきょとんとするダンテの、空を切り取った瞳は最早。
何も、映すことはない。
自身の想いと兄の想いに耐え兼ね、己を壊してしまった憐れな子を抱き締め、男はただ、
済まないと繰り返すより他になかった。