崩落
その一言を告げれば総ては収まるのだと、気付いていながら無視をする。
告げてはならない。
口にしてはならない。
想うばかりに留めおいて、そうしてずっと、側にいる。
愛を言葉にして確かめる必要など、ないと思っていた。
伝わらない。そんなことが起こるとは、思ってもみず。
総てが、音を立てて崩れていく。
それはある高層マンションの一室。結界に守られたその部屋は、人の目には一切映ることは
なく、ドアはあれど壁が続いているようにしか見えない。ドアを探し入ることが叶うのは、結界を
張ったものか、それとも術士以上の魔力を持つもののみだ。
内部は至ってありふれた、何の変哲もない部屋。勿論一室ごとの広さは通常のマンションの
それよりも広く、一人住まいをするには空間が余りすぎる程である。
風呂も、広い。
ちゃぷん、と浴槽に張った湯が跳ねた。浸かっているのは、すぎる程に膚の白い痩身の青年。
ほとんど白に見える髪は銀。虚ろな瞳は蒼く、薄く開いた唇は紅い。痩せてなお滑らかな膚を、
透明な雫がするりと撫でる。
青年はもうしばらく、こうして湯に浸かっていた。ぱしゃりぱしゃりと湯を指先で弾き、
すくったりして遊んでいる。意味があるわけでは、無論ない。彼には最早、思考というもの自体が
欠落しているのだ。
浴室のドアが不意に開いた。彼はそちらを見やり、笑う。子供のような笑みはしかし、虚ろで
しかない。
「ダンテ、そろそろ上がった方が良い」
茹ってしまう、と浴室に現れた男は言う。ダンテと呼ばれた青年はことりと首を傾げ、男を
見上げるばかり。
男は困ったように笑い、浴槽に近寄った。ちゃぷん。逃げるように、ダンテが浴槽の隅に
移動する。
「おいで、」
男が手招けば、ダンテはふるふると首を左右にし。
「遊ぼ?」
にっこりと、笑う。男は肩を竦め、苦笑した。
「仕様のない子だ」
ちゃぷん、と湯が跳ねる。
「あんっ……」
高い嬌声が、音の反響しやすい浴室によく響く。ダンテは浴槽の縁を掴み、立った状態で
後ろから男を受け入れていた。
「ひっ、ぅん……っ」
尻を突き出すような恰好で蹂躙される。思考など元よりないのだが、馴れた躰は男を離すまいと
甘く絡み付く。
男が、彼を突き上げながらその耳朶を甘噛みした。
「もっと腰を振ってごらん……?」
従順な躰は男の淫らな要求にすぐさま反応する。ゆるゆると揺れ始めた柳腰は、その白さが
相俟って酷くいやらしい。
男は目を細め、揺れる細っそりとした腰を掴み激しく突き上げた。肉体的には壮年の半ばに
ある男は、勿論気が逸って彼より先に達してしまうことはない。激しいが、しかし余裕のある
挿出は彼を何度も絶頂に導いた。
「あぅっ、ふぁ……ぁあん……!」
白濁がぱたぱたと湯に落ち、混じっては消える。性器に纏わりつき、白い腿を精液が伝うさまは
娼婦に勝る淫靡さだ。
肩で息をしながら、まだ腰を揺らしている彼に男は薄く笑い、彼を後ろから抱き竦めるように
して浴槽に腰を下ろした。男は着衣のままだったが、気にはならない。体位が変わった
ことで自重によって男をより深く銜えこまされた彼は、びくびくと無意識に躰を痙攣させる。
「んぅ……、あ、あっ……」
男は彼の腿を後ろからすくうように掴み、脚を大きく開かせる。射精したばかりの性器は、
今の衝撃でまた立ち上がり始めている。
「ふふ……可愛いよ、ダンテ」
揶揄を、理解出来るだけの意思は彼にはないと、男は判っている。いるが、男は彼を壊れ物の
ように扱う気はなかった。
出来ることは、ただひたすらに愛してやることだけ。この、哀しい魂を。
きゅう、と締め付けられ、男は彼の中に精を注いだ。内壁を直接襲う奔流に、彼が男の膝の上で
躰を捩って悶える。
「ひんっ……あ、つい、よぅ……」
熱い、と訴える彼の髪を、男は宥めるように梳く。彼はそうされるのが何より好きだった。
「ダンテ、」
名を呼んだ、その時、彼が不意に顔を上げ、虚ろな瞳で窓を見上げた。後ろにいる男には、
彼が何を見つめているのか判らない。が、
「ばーじる」
彼の唇が紡いだ名に、来たか、と待ち侘びたように呟いた。
浴室には、マンションには珍しく窓がある。スチールの格子が施されたその窓が、みしり、と
軋んだ。次いで、硝子にぴしりと亀裂が入る。
腕の中で、彼が喜々として窓に向かって腕を伸ばした。まるで、彼が窓の向こうにいるものを
呼び寄せたかのように。いや、それはあながち間違いではない。彼は実際、呼んだのだ。
「ばぁじる」
彼の、兄を。
窓硝子が割れ、砕けた破片が雪の結晶のように浴室に散る。男は彼の内に身を沈めたまま、
割れた窓からゆらりと現れたものを見つめた。動かぬのは、驚愕による硬直の所為ではない。
浴室の床に足をつけたそれは、確かに彼の兄であろう。しかし、その容貌は人ではなかった。
体躯は人。紅いコートを纏い、二足での立ち姿も人。しかしコートに隠れずあらわになった
箇所は明らかに人のそれではない。
膚は昆虫を思わせる装甲に包まれ、爪は猛禽のそれのように曲がり。
瞳は、紫に似た、緋。
不完全な、生まれたばかりの悪魔のような。
様々な遺伝子の混濁を形にしたものに、男はある種の畏怖すら感じていた。
「……久しぶりだね」
口火を切ったのは男。無論、親しげな返答を求めてのことではない。
不完全な悪魔は尖った歯の隙間から、しかし滑らかな言葉を発する。
「貴様は退け」
恐ろしく冷たい声が命じる。紅い瞳は、湯の中で今だ犯される彼を見つめている。
邪魔だ、と呟くように言う緋色のバージルに、男はくすりと笑う。
「確かに私は邪魔だろう。私がいては、君はこの子を完全には支配出来ない」
「……黙れ」
「いや、言わせて貰う。君は幼い頃からそうだったね。この子を縛り付けて、あたかもそれが
当然であるかのように刷り込んだ。……この子は疑問など抱かなかっただろう。今までは」
彼がきょとんとして、バージルを見上げる。伸ばされた腕を、男はそっと下ろさせた。
「不憫な子だ。世界が二人きりで閉じていると、本当に思ってしまったのだね」
男の言葉は、果たしてどちらに向けてのものだろう。彼の腕を湯の中に戻し、濡れた髪を梳いて
やる仕種は慈愛に満ちている。
「それに、触れるな」
じゃり、とバージルの足の下で硝子の破片が不快な音を奏でる。
「私には、この子に触れる理由がある」
「何だと?」
「触れていてやらねば、この子は壊れてしまう。君のしたことだ。自覚はある筈だが、
知らぬふりをするのかね?」
バージルを射抜く、男の双眸は鋭くも柔らかい。それはバージルに、いつかの、彼ら双子の父を
彷彿とさせた。
一歩、また一歩とバージルがゆるい歩調で浴槽に近付く。その心は様々なものが渦巻いている
のだろうが、中心に弟を据えていることは男にも判りすぎる程判った。
「囚われてはならない。君とこの子は双子……何があろうと対等な存在ではないか」
「……貴様が言いたいのは、それだけか?」
バージルの、人の形を保っていた顔立ちが少しずつ変じていく。ひび割れた頬の下からは、
手のそれと同じ装甲が現れ覆ってゆき。確実に悪魔へとその身を変えるバージルを見上げ、男は
彼の銀糸を指に巻き付けた。一本、ぷつり、と根元から切れて指に絡む。小さな痛みに、彼が男を
肩越しに振り返った。
「ダンテ、」
済まない。形の良い額に口付け、男は笑う。
「どうやら最後の約束は果たせそうにないようだ。……赦してくれ、エヴァ」
君とよく似たこの子に懺悔をしても仕方がないけれど、きっと君に届くと信じているよ。
不可視の刃が男に襲いかかる。それでも男は笑みを絶やすことはない。
「愛しているよ、ダンテ」
蒼白く輝く幾重もの刃が、男の全身を貫いた。湯が真っ赤に染まり、生臭い血臭が満ちる。
「来い」
バージルは無造作に、ぼんやりとしている彼の腕を掴んで強く引いた。彼の躰から男のものが
抜け、ところどころ骨の浮いた痩身がバージルの胸に倒れ込む。
「…………」
彼の唇が何ごとか呟いた。無意識なのだろうそれに、バージルは不快げに眉を寄せて彼の頬を
打った。
彼は赤くなった頬を押さえるでもなく、バージルを見つめる。
「……ばぁ、じる……」
朱に染まった彼を、バージルは軽々と抱き上げる。彼の瞳が自分だけを映していることを
確かめ、おもむろに床を蹴る。
暗い空に、影が浮かぶ。
生きるもののなくなった浴室で、紅い肉の塊が。
嗤った。
仕合わせに。
どうか、子供達が仕合わせでありますように。
願いを込めた約束は、遠く儚い夢の欠片。