陵架
今日も、事務所の黒電話はろくでもない依頼しか繋がない。
「あぁ? 浮気の調査? 悪いが他をあたってくれ」
言うなり、ダンテは受話器を無造作に放り投げた。がちゃん、と喧しい音をたて、受話器が
本体の上に乗る。
ダンテは黒壇の机に行儀悪く長い脚を放り出し、椅子の背凭れに体重を預けた。
「ちっ……何が浮気の調査だ。てめぇの旦那の手綱ぐらい、しっかり握ってろよ、くそッ」
がしがしと乱暴に頭を掻く。白に近い銀の髪が、ばさばさと乱れた。
はぁ、と溜息を吐く。ここ数日、本当にろくな仕事が回って来ない。この黒電話が繋ぐものも
だが、仲介屋を通したものすらそうなのだから、冗談でも笑えない。
そろそろ本気で懐の心配をせねば……。
以前は――――そう、双子の兄が戻って来るまでは、よく知り合いの店でツケを当てにして
長らえていたものだ。
半人半魔であるダンテは、多少絶食したぐらいで死ぬことはない。が、腹が減っては力も
出ぬし、何より空腹は神経を磨り減らす。出来れば味わいたくない感覚なのだ。
この街に越して来た時は、そう、まだ知り合いらしい知り合いもいなかった時期は、別の方法で
食い繋いでいた。それは……、
「ダンテ、」
不意に名を呼ばれ、ダンテははっとした。
「んあっ? ……あぁ、バージル、どうかしたか?」
背凭れから少し背を浮かせ、鏡映しのような兄を見上げる。鏡、と言っても、ダンテはこの
双子の兄と自分とは、全く似ていないと思っているのだが。
バージルは眉間に皺を寄せ、不審げにこちらを見下ろして言った。
「ぼうっとしていたが、大丈夫か?」
「大丈夫って、何が」
「空腹で思考回路が機能していないように見えたぞ」
「はぁ……? んなことねぇよ。普通だ」
「……そういうことにしておこう」
「なんか、納得いかねぇな、それ」
じとっと睨むが、バージルはどこ吹く風。さっさとダンテに背を向け、短く「来い」とだけ
告げられた。
「何、何だよ?」
ダンテは机から脚を下ろし、立ち上がりつつバージルの背に問い掛けた。バージルはドアの
敷居を跨いだところで足を止め、
「空腹は嫌いだろう?」
ちらとダンテに流し目をくれ、ドアを開け放ったまま廊下に消えた。後から、ダンテがすぐに
もついて来ると確信した、ごく自然な行動だ。
ダンテはバージルの思い通りになるのは癪だと思いながらも、やはり空腹には打ち勝てず。
「待てよ、バージル。何作ったんだ?」
確か、冷蔵庫にはろくな食料がなかった筈。いかにどんな食材でも器用に使い、何でも作れる
バージルでも、元がなければどうしようもない。
ダンテは首を傾げながら、のそのそとキッチンに向かった。
バージルと暮らすようになって、ダンテはほとんど食うことには困らなくなった。
仕事の選り好みの激しいダンテが、食費すらままならない状態に陥りそうになる前に、
バージルはどこからか仕事を拾って戻り、そつなく依頼をこなす。そうして得た金が、ダンテの
腹を満たしてくれるのだ。
文句は言えない。むしろ有り難く思わねばならないことだ。しかし。
ダンテには、バージルが一人で仕事を請け、片付けてしまうのが不満でならない。
悪いのは、気分と勘で仕事を選ぶダンテだ。それは充分判っている。いるが、理解は出来ても、
納得することとは別問題なのである。
いかに詰まらない仕事でも、バージルがともにいるならば、とダンテは思うのだ。
何も、一人でやることはないではないか。いや、詰まらないからこそ、二人で一緒に、と
ダンテは思う。
本質的、とでも言おうか、根本的に、バージルは兄としての意識が強い。対等でいたいダンテ
からすれば、甘やかしてくれること自体は嫌いではないのだが、少し重いのだ。信用されていない
だとか、そんなことは欠片も思わないけれど。でも。
ある意味では――――本当にある意味で、かつある部分では、だが――――バージルが戻る前の
方が、気楽だったかもしれない。
勿論、今の生活の方が断然良いし、好きだ。けれど、と。どこかでそう思ってしまう自分が
いる。
駄目だな。
ダンテは力なく首を振り、溜息を漏らした。
甘えたいと、思ってしまう。否、無意識に甘えてしまう。
こんなことでは駄目だというのに。
以前は、こんなことはなかったというのに。
一年前――――バージルがダンテの前から姿を消したあの日から、ダンテは誰に頼ることも
出来なくなった。
誰かに甘えたいという気持ちはあった。だから、かもしれない。
懐が寒くなると、ほぼ確実に誰かの家に転がり込んだ。女だったり、男だったり、相手は
その時によって変わった。金に余裕がある時にも会うことはあったが、どの相手とも、長続きと
いうものをしたことはない。
基本的に、駄目なのだ。
誰かに束縛されるという、何とも言えぬ閉塞感が。
一夜の相手以外の相手を求めたこともある。当然女だが、何故か女とは相性が悪いらしく、
決まって振られた。
言い寄って来るのは、それも理由は判らないが、男が多かった。夜中に一人で飲んでいて、
男に誘われなかったことは少ない。その中から、良いか、と思うものとは関係を持った。
付き合うだとかいうことは、一切考えたこともない。
中には執拗に言い寄って来る男もいた。一晩躰を許しただけで、恋人気取りになった勘違い
野郎もいた。他の男とはするな、だとか、下らないことを囁かれたこともある。
詰まらない毎日だった。
ただ、息をして、毎日を食い繋いでいくだけの、詰まらない日常。しかし、気楽では
あった。
毎日、何とも言えぬ寂莫を抱えてはいたが、それを癒せる人間はいないのだと判っていたから、
諦めもついた。
どうでも良い。
遠くはない未来の、半身との再会までは。
そう思って、日々を生きた。
夜、ダンテは家を抜け出して酒場へと繰り出した。バージルは仲介屋に押し付けられた仕事を
片付けに行き、今日中には戻らない。
暇を持て余したダンテは、以前にそうしていたように酒場に足を向けた。喧騒の絶えない
酒場にいると、逆に孤独を伴う寂莫は感じるのだけれど、嫌いではない。
親爺の作る独特のストロベリーサンデーが、妙に食べたい気分でもあった。
「おぅ、ダンテ。いつものアレか?」
店に入り、カウンター席に座るより早く、親爺がにやりと笑って言った。ダンテもにんまり
笑い、いつものな、と返した。
ダンテしか頼む者のいないストロベリーサンデーは、注文をしてからでなければ親爺は
作り始めない。作り方にしても、何やら素人には判らないこだわりがあるのだとか。
食べれるものなら何でも良い、のダンテには、全く理解出来ない世界らしい。
ストロベリーサンデーを待つダンテの隣に、ふと既に飲んでいた客が、テーブル席から
こちらへ移動して来た。
「調子はどうかな、ダンテ?」
皮肉ではなく、本当に親しげに話し掛けて来る男を、ダンテは横目で不審げに見た。髪に白い
ものの混じった、壮年の、しかし老いというものを全く感じさせない紳士然とした男だ。
どこで会った男だったか。見覚えはないでもないが、いかんせん全く思い出せない。
男はダンテの内心をその表情から読み取ったらしく、ちょっと苦笑した。
「私を覚えていないのかい? 初めて会ってから、まだ一年程しか経っていないというのに」
一年。ダンテはその言葉を反芻し、あぁ、と何となく合点がいった。
“あの頃”の自分と関係のある人間の一人らしい。
だからどうだと言うのか、全く興味のないダンテとは違い、男はダンテの傍らから離れる気は
ないようだ。
「……で、何の用だ?」
問うと同時に、親爺がストロベリーサンデーをダンテの前に置いた。
「はいよ、お待ちどうさん」
何気ない仕種で、親爺が壮年の男を盗み見したことに、ダンテは気付いた。何だ、こいつは。
無言で問う親爺に、ダンテは肩を竦めて見せる。さぁな、と。
「ま、ゆっくりして行きな」
呆れたように言った親爺は、傍観者に徹するつもりらしい。
ダンテはストロベリーサンデーをスプーンで掻き、ばくりと頬張った。既に隣の男は眼中に
ない。が、男は黙々と食べるダンテを見つめ、何が楽しいのか、ゆったりと微笑している。
居心地は、悪い。
「あのさ、あんた、……」
「うん?」
「何か用かって、さっき訊いたよな?」
「あぁ……」
今思い出したかのように、男は笑った。
「君が旨そうに食べているものだから、つい見惚れてしまっていた」
「はぁ……?」
どこまでも不審な男だ。
ダンテは気を紛らわすようにスプーンを動かした。口の端にクリームが付いていることに、
全く気付かずに。
男が、ふ、と目を細めた。
「ここ、付いているよ?」
男は手を伸ばし、ダンテの口端に付いたクリームを指ですくった。当然のように、
その指を舐める男に、ダンテは一瞬呆気に取られる。
「……ん? どうかしたかい?」
なんて、白々しい言葉を臆面もなく吐く男。ダンテはぐっと奥歯を噛み締め、また
ストロベリーサンデーを掻き込もうとした。しかし、やめた。また口周りを汚せば、男は
同じことをするに違いない。――――いつもバージルがしてくれることを。
スプーンを握ったままストロベリーサンデーを睨むダンテの内心を察したか、男がくすりと
笑う。
「食べないのかい、それ、好物だろうに?」
「あんた、何が目的だ」
ぎ、と鋭く睨みつけるが、男は意に介さない。度胸があるのか、それともただ鈍いだけ
なのか、判断は付け難い。
「君に興味がある。それだけだよ、ダンテ」
一年前から、ずっとね。
低められた声音。ダンテは我知らずぞくりとした。
「私のところへ戻って来ないか?」
「戻る……? あんた、何言ってんだ?」
「忘れているなら、思い出させてあげよう。優しく、ね……?」
あぁ、この、声。確かに、俺はこいつを知っている。
「……あんたは……」
それでも、男の名は、やはり思い出すことは出来なかった。