餓鬼
妙だ、とは、初めから気づいていた。それでも引き返そうと思わなかったのは、
危機感以上に強い好奇心が彼の足を踏みとどまらせたからだった。
幽霊の出る、いわゆる心霊スポットというものは世界に数多く存在する。
そのうちいくつが本物なのかは誰も知らない。要は娯楽のひとつなのだ。
科学的に突き止めようとする人間もいるにはいるが、所詮、
人々にとっては真偽のほどなどどちらであっても構わないのである。
ダンテが訪れた場所もまた、ひとつの心霊スポットだった。
閑静な住宅街の外れに存在する、一軒の大きな館。
数年前に最後の居住者が出て行ったきり、売りに出されたまま今だに買い手がつかないという。
何の曰くがあってこの館が幽霊の住処と言われるようになったのか、ダンテは知らないし興味もない。
ただ、ダンテの目には、それは何の変哲もないただの館にしか見えなかった。
当然ひとのいる気配はないが、それ以外のものが潜んでいる様子も見受けられない。
担がれたか、とダンテは片目を眇めた。
ヨハンが「自分が断りを入れる」と言った依頼内容というのが、
どうもダンテの好むもののように聞こえたのだ。
エンツォは「胡散臭い仕事ばかり選り好みするな」と渋面を浮かべるが、ヨハンの反応は逆だった。
依頼主からの信頼を維持することができたことも含めてだろうが、
喜び勇んでダンテに礼など言ったものである。
(次、顔を見せたらどうしてやろうか)
何の怪異も起こりそうにない館を見上げつつ、ダンテは肩を竦めて不穏なことを考えた。
断ってくれていいと言うヨハンの言葉を押して、依頼をあえて引き受けたのはダンテ自身だ。
ヨハンに非はない。わかっていても、ついつい恨みがましく思ってしまうのは仕方がないことだ。
苛立つまま、ダンテは館の門扉を右足で蹴りつけた。
錠が無惨にひしゃげ、蝶番が悲鳴に似たいやな軋み音をあげる。
「何か出て来てくれねぇかなぁ」
せめて、とダンテは諦め半分祈りながら、自分が蹴ったために歪んでしまった門扉をくぐり、
敷地内へ足を踏み入れた。
そのとき、時刻はおおよそ午後八時。
依頼内容を信用するならば、この館に怪異が起こるのはこれからであるはずだ。
(時間にきっちりした幽霊なんて、いるのかよ)
よくよく、嘘くさい。誰がこの館を心霊スポットに仕立て上げたのかなど知らないか、
時間を厳守する律儀な幽霊などいるものか。もし本当にここに何かがいるのならば、
昼夜を問わず怪奇現象が起こっているのがふつうではないのか。
固定観念というものは、意外なほどひとの深層心理に根付いているものだ。
もしかすれば幽霊になってもその固定観念が消えないのかもしれない。
阿呆らしい。ダンテは自分自身につっこんだ。この館に幽霊がいるかいないかなどどうでもいいことだ。
ダンテの狙いはただひとつ。悪魔を殺すこと、それだけだ。
もっとも、その唯一の目的さえも果たされそうもないからこそ、
幽霊についての考察などという馬鹿馬鹿しいことを初めてしまったわけだが。
館の内部はひっそりと静まり返っており、外から見たとおり、何ものの気配も感じられない。
玄関、廊下、リビングらしき部屋と、その続きになったキッチン――
ダンテのブーツがごつごつと床を咬む音が大きく響く。
広い館は一階部分を見て回るだけでも時間がかかる。
何ものか、できれば悪魔の一匹でも襲ってきてくれれば気が紛れるというものだが、
そんなことは一切起こらなかった。廃屋というには少しばかりきれいな空き家を、
暇人がうろうろと見物している。いかにもシュールな光景だ。
ダンテ自身がその暇人でなければ、大いに馬鹿にしていたことだろう。
他人事ならよかった。心底思うが、後悔先に立たず。
ここに至ってなお、何か起こらないかと淡い期待を抱いているのだから、
己の旺盛な好奇心が恨めしくもある。
一階の探索に見切りをつけて、ダンテは二階へ上がることにした。
こちらも収穫はないだろうとは、はなからわかっているのだけれども。
依頼主はなぜ、この館の調査を荒事師ないし便利屋に託そうと考えたのか。
ダンテにはそこが不思議でならない。この館はただの空き家だ。
わざわざ夜を待って訪れたというのに、幽霊はもちろん、依頼主の言う怪奇現象にさえ遭遇しない。
そもそも依頼主は、なぜこの館のことを知っているのか。
元住人とは聞かなかったので、その知人か友人とでも考えるのが妥当なのだろうが、
それでも疑問は残る。
(なんで、この時間に何か起こると知ってるんだ? 噂になってるなら、
何かいてもおかしくないだろうに)
火のないところに煙は立たないと言うけれども、根も葉もない噂にしては凝りすぎてはいないか。
根拠のない噂ごときに、千ドルなどという破格の報酬を払う物好きがどこにいる。
悪戯にしては、あまりにもたちが悪い。
ダンテは二階の長い廊下を歩きながら、ふとある一点に目をとめた。壁に絵が飾ってある。
額縁は簡素な木枠のもののようだが、飾ったまま残されているということは、
絵画としての価値はないのかもしれない。人物画であれば、夜中に目が動くだとか、
絵の中から抜け出すかするのがホラーの定番といったところか。
ぼんやりとした月明かりの中で観察するに、この絵は果物か何かの静物画だ。
林檎が動き出してひとを襲う――それはある意味こわいが、間違いなくコメディである。
肩を竦めて、ダンテは絵画から視線を剥がした。
それからいくつか部屋を見て回ったが、本当に何もないし、何も起こらない。
もはや呆れてしまって、ヨハンへの文句さえ出てこない状態に陥ったダンテは、
どうしたものかと考えながら廊下の突き当たりに位置する部屋のドアノブに手をかけた。
二階はこの部屋で最後だ。ということは、ここで何もなければあとは帰路に就くしかない。
どうせ何もないに決まっている。
ダンテは拗ねたように唇を尖らせ、投げやりにドアを開け放った。
ヨハン。
そうだ、意識が途切れる寸前に見たものは、
ダンテにくだらない仕事を持ちかけたあの男の顔に間違いなかった。
「どういうことだ」
きつく睨むが、男は飄々とした表情を崩さない。
「どう、とは?」
などと、質問に対して質問で答える男に、ダンテはいっそう苛立った。
「どうもこうもあるか。何が目的なのかって訊いてんだよ」
ダンテの命が目当てであるなら、彼はすでに死んでいるだろう。
事実、ダンテはまったく油断していたのだから、命を奪う機会はいくらでもあったはずである。
だが、男はあえてそれを実行しなかった。なにかしら理由がなければ説明がつかない。
男はにこやかに笑みを浮かべたまま、
「あぁ、そういうことか」
ようやく得心がいったとばかりに頷いた。
「君を殺さない理由なら簡単だ。興味がある。それだけだよ」
説明など必要ないとでも言いたいのか、男はにこにこ笑うだけて口を閉ざしてしまう。
「何が興味だ。それだけでわかるわけねぇだろ」
恫喝するように声を低めて問いただすダンテに、男はひょいと肩をすくめた。
「興味は興味さ。あいつも言っていただろう?」
「あいつ?」
ダンテは片目を眇め、そこでふと、奇妙なことに気がついた。
浮かんだ疑問を、そのまま口に出してみる。
「……誰だ、あんた」
男はくつくつと笑った。光の塊が灯火のようにゆらりと揺れる。
それは先刻、ダンテの目を眩ませた閃光だ。
散らばった粒が再び集まり、男とダンテを照らしている。
「私が誰であるか、君は知っているが、知らないだろう」
謎かけめいた言葉に、ダンテは眉間に皺を寄せた。
意味を問うより先に、ヨハンと同じ顔をした男が言葉を紡いだ。
「君には兄がいるだろう? 双子の兄弟が」
「……それが何だってんだ」
「そんなこわい顔をしないでくれよ。我々も同じだと言いたいだけなんだから」
おどけたふうに、男は笑う。
けれどもダンテの眉間に刻まれた皺は消えるどころかいっそう深くなった。
「同じ?」
そう、と男は大仰に頷いた。
「厳密に言えば少し違うけれど、我々もまた、悪魔とひととの間に生まれた混血だ」
本人が言うのだから、この話は本当のことなのだろう。だが、ダンテは腑に落ちないものを感じていた。
何かが引っかかるような、釈然としないものが胃の腑に残る。
ヨハンという男を何度思い出してみても、ダンテはあの男が自身と同じ、半人半魔であるとは思えない。
違和感があるといえば、目の前の男についてもそうだ。
この男は見た目こそヨハンとまったく酷似しているため人間だと思い込んでしまったが、
一度認識してしまえば、人間の形をした何かだとしか表現のしようがない。
「……あいつは人間だろ」
ヨハン悪魔の血を継いでいるとは、ダンテにはどうしても思えなかった。
すると男は、ひどくあっさり頷いて見せたではないか。
「そう、あれはひとだ。間違いなく、ね」
ますますわからない。悪魔から人間が生まれることなどあるのだろうか。
「君の疑問にすべて答えるには、私の持つ語彙ではあまりに頼りない。
悪魔とひととの間に生まれはしたが、誰の悪戯か、私は見てのとおり悪魔に、
ヨハンはひととして生まれ落ちた」
燭台のない灯火が、ゆらゆらと不安定に震えている。
「母の胎内で、我々は君たちとは違う意味できれいに半分に分離したわけだ。
が、我々は別段、不幸ではない。むしろ好都合だ」
ダンテは無意識に身構えた。男の目が、笑んでいるにもかかわらず獰猛な獣のように光ったからだ。
「さすがに、鋭い。けれど、無駄だよ」
男は笑っている。ダンテは珍しくぞっとした。おぞましいいきものが目の前にいるということに、
恐怖とはべつの、生理的な嫌悪が込み上げたためだ。
同時に、逃げなければと思った。今のダンテはまったくの丸腰だ。
無論、素手でも戦うことはできる。が、分が悪い、とダンテは直感していた。
(こいつ、なんかわからねぇけど、まずい)
この男から離れなければと思う一方、臆していると気取られまいとして、
ダンテはともすれば後退りしようとする自身の足を、ぐっと踏ん張ることで律した。
「あんたの悪趣味に付き合ってるほど、暇じゃねぇんだよ」
軽口を叩くのは、何も虚栄を張ってのことではない。
いついかなる場面に遭遇しても、ダンテの舌は滑らかだ。
「思ったとおり、愉しめそうだ」
男が唇を歪めると、中空に浮かんだ灯火がぐにゃりと形を変えた。
ひとの頭ほどの球体になったかと思えば、
「……ッ!?」
肩に衝撃が走り、次いで激痛がダンテを襲った。
光の塊が槍のように伸び、ダンテの右肩を貫いたのだ。
一瞬だった。避けることさえできなかった。
ダンテは痛みに顔を歪めはしたが、それを言葉に出すことはしない。
急所を狙わず、ただ痛みを与えようとする輩にとって、標的が苦痛に悶える姿を眺めることこそ、
最大の愉悦と感じるものだ。
悪趣味な遊びに乗ってやるほど、ダンテは物好きではない。
「うめき声ひとつ漏らさないか。さっきもそうだったけれど、さすがだねぇ」
どこか嬉しそうに男が言う。さっき、という言葉にダンテの頬がぴくりと引きつった。
ダンテが光の槍に貫かれたのは、これが初めてではない。無意識に、ダンテは自身の腹に手をやった。
意識を失うほどの痛みを、なぜ今の今まで忘れていたのか不思議でならないが、
先刻目を覚ました際に感じた躰の違和感は、腹に大きな風穴を開けられたからだったのだ。
その時も、男は今のように喜色を隠そうともせず、こちらの癇に障る笑み浮かべていた。
「趣味悪ぃ……俺を痛めつけて、どうしよってんだ?」
ダンテに興味があると男は言ったが、結局のところ、その先にあるはずの目的は明かさぬままだ。
言外の意図を察して当然、とでも思っているのならば、思い違いも甚だしい。
「……私は好奇心が強くてね。
興味のあるものは手に取ってじっくり観察しないと気が済まない性分なんだ」
だから。男がつぶやくと、光の塊がまたしても形状を変化させた。
槍に似た形ではあるが、太さがまるで違う。細長い矢に似たそれは十数本もあるだろうか。
それらがダンテめがけて、一斉に降り注いでくる。
ダンテは咄嗟に横へ跳んだ。前転をするように転がったダンテの背を、
矢の雨が弧を描きつつ追尾してくる。銃も剣さえも持たないダンテには、
これらをすべて避けることしか血を流さずに済む方法はない。だが、矢の反応はあまりにも疾い。
しかも一つ一つ違った動作ができるらしい、とダンテが気づいたのは、
群れからはぐれた一本が腿をかすめたときだった。左脚。
よりにもよって、後ろへ跳ぶための軸足にしたほうだった。
「くっ……」
痛みは大したことはない。けれどダンテはバランスを崩し、うまく着地することができなかった。
ぐらりと上半身が傾いだところへ、矢は無情にも襲いかかる。
「っ、う……!」
顔を庇った腕に、肩に、腹に、腿に、いくつもの矢が突き刺さる。
表皮をかすめるだけのものもあったが、数など数えている余裕はない。
自身の肉に深く食らいついたそれらに、ダンテは鋭く舌打ちした。
いつもならば、この程度の攻撃を躱すことなど容易いはずだ。
しかし今、ダンテは我が身に重い枷がかけられているような感覚を味わっていた。
躰が思うように動かない。
なぜ。自問するダンテに、思わぬところから答えがあった。
「人間の躰は不便だね。血を少し失っただけで動けなくなるのだから」
血。ダンテは自身の肩へ視線をやった。
槍に貫かれたそこは、高い自己治癒力によってすでに新しい肉が形成されつつあり、
わずかに血が滲んでいる程度だ。
血を流したというには、ダンテにとっては小さな傷でしかなかったはずだ。
いったい、なぜ。けれどもわからない。
思考能力さえ急速に衰えていくようで、ダンテは頭を左右に振った。
頭上から、男の声が文字通り降ってくる。
「君の血は実に甘いね」
陶酔したような、うっとりとした声音だ。
「何を……」
うめき、ダンテは腕に刺さったままの矢に目を落とした。
白く発光していたそれが、どことなく黒っぽくくすんでいるように見える。
訝しげに凝視して、ダンテははたと気づいた。血――
「これ、は」
「私は悪魔だ。悪魔の糧は人間と相場が決まっているだろう?
だから君の血と肉を、少しばかり分けてもらっているのだよ」
愉しげな、弾んだ声。
みちり、矢が刺さった箇所が軋むような悲鳴を上げた。肉が喰われている。
唐突にダンテは悟った。形態を思いのままに変化させる光の塊。
これは男の牙であり、舌なのだ。血を吸い、肉を喰らい、標的が動けなくなるのを待つ。
どうにも、趣味が悪いどころの話ではないらしい。
「気持ち悪い野郎だな」
加虐趣味。男は人間を糧として喰うだけでは飽き足らず、苦しむさまを娯楽にしている。
そしてその餌食に、ダンテが選ばれた。
ダンテの罵倒にも、男は笑みを崩すことはない。
男の嗜虐心に余計な火をつけただけかもしれなかった。
「君がどの程度血を失えば死に至るのか、興味がわいてきたな」
不吉なことを言って、男は猛禽のような目でダンテを見る。
「でも、殺すには惜しい。愉しみは長く続くほうがいいからね」
身勝手な言葉を、ダンテはぼんやりと聞いた。
彼の躰に刺さった矢は、獲物の血を吸って今や黒く変色している。
心臓を貫いてさえ死ぬことのなかったこの躰が、まさか失血死することはないだろうけれども。
ぐらりと傾いた躰が、重力に引き寄せられるまま床に倒れこむ。ふふ、と笑う声は男のものだろう。
ダンテのかたわらに膝をつき、彼の肩を掴んで床から剥がした。
「さっきのように眠らせてはあげないよ。もっと遊ぼう?」
子どものような無邪気な声だ。それゆえにたちの悪さは相当なものだが、男に自覚はないのだろう。
無理矢理躰を起こされたダンテは、男を睨めつけ舌打ちした。男はくすくす笑う。
「やっぱり、私の見立てに間違いなかった。
ヨハンが尻込みしなければ、もっと早くこうできていたのに」
言葉ほど悔しいという素振りは見せず、男は言った。
ヨハンはダンテがこの男の毒牙にかかることをよしとはしていなかったらしい。
だが、押し切られた。ヨハンは人間で、男は悪魔だ。力でねじ伏せられれば、抗うことはできない。
男は上機嫌にダンテを見下ろし、何を考えているのか。
ダンテが意識を失わないように、じわじわといたぶる算段でもしているのだろう。
性格と趣味の悪さは、バージルに通じるものがあるとダンテは思った。
彼の兄は、根がサディストだ。自覚のあるなしはダンテにはわからないが、
少なくともダンテは兄以上の嗜虐趣向の持ち主に出会ったことがない。
そういう意味では、バージルとこの男はよく似ている。ダンテの血を好むあたりも、そうだ。
男は床に尻をつけ、後ろから抱きしめるようにダンテの腰に腕を絡めた。
ダンテの躰に刺さっていた矢がひとつ、またひとつ霧のように消える。
徐々にまた、もとの闇に戻っていく。しかし最後の一本、腿に突き立った矢だけが消えずに残り、
ぼんやりとふたりを照らす。
「火は、好きかい?」
唐突に男がそんなことを訊いた。何の思惑があってか、ダンテにわかるわけもない。
「……さぁな」
答える義理も義務もないが、ダンテは投げやりに言った。
男にとって、ダンテの答えなど何でも構わなかったのだろう。
「姿形こそヨハンと瓜二つに生まれはしたけれど、自分が人間ではないと気づいたのは、
物心ついてすぐだったよ」
ダンテの目の前、何もないところから、突然火の塊が現れた。
男が操っているのだと知った後なので、さほど驚きはしない。
「気づけばこうして、火で遊んでいた。
ヨハンは驚いたけれど、すぐに慣れて一緒になって遊んだものさ」
火が風に吹かれたように揺らめいて、鳥に姿を変えた。
「人間ではないなら何なのか、母親に訊いてみたことがある。
明瞭な答えはもらえなかったものの、下手な誤魔化しが答えのようなものだったよ」
それでも母親は、彼らを慈しんだという。バージルとダンテがそうだったように。
ダンテがじっと話に聞き入っていることに、男は気づいたのかどうか。
ふふ、と笑った声はどこか自嘲めいた響きを含み、ダンテの耳朶をなぞった。
「詰まらない昔話はやめだ。せっかく君といるんだから、もっと愉しまないとね」
余計な世話だとダンテは思ったが、口を開くことはできなかった。
男が彼の首筋に顔を埋め、戯れのように口づけたそこへ尖った犬歯を突き立てたからだ。
彼は無意識に、声を上げるまいとして奥歯を噛み締めた。
肉に食い込む歯(牙と言ったほうが正しいだろうか)の厭な感覚を、ダンテは眉をしかめて耐えた。
バージルも同じことをダンテにするときがあるが、不思議なもので、
相手が兄というだけで不快とは感じたことがない。
じゅるり、舌舐めずりをするような音が耳に響いた。無論、ダンテではない。
けれど男はいまだ、ダンテの首筋に食らいついたままだ。
何の音だったのか、察するのにさしたる時間はかからなかった。やはり、男だ。
じゅる、と音をたててダンテの血を啜っている。
名残惜しむようにダンテの首筋に舌を這わせ、皮膚に滲んだ血を舐め取りながら、
男は「あまい」とうっとりとつぶやいた。
「直に味わうと、また違って感じる……。不思議だな。
君以外では、こんなふうに思ったことがない」
まるでありがたいとは思えないことを、男はダンテの耳に吹き込んだ。
陶酔したような、夢に片足を突っ込んだような、声だとダンテは思った。
男の手が、不意にダンテの腹に伸びた。不自然に破れた服の下には、今はすっかり塞がっているが、
大きな穴が空いていたはずである。というのも、ダンテはその穴を自分の目で見たわけではないので、
あくまで推測でしかないからだ。
傷の痕跡さえ見えない腹部に、男の指先が触れる。
壊れやすい硝子細工を愛でるようにそっとなぞられて、ダンテの膚が粟立った。
男はダンテの引き締まった筋肉をひとつひとつ確かめるように膚を滑る。
繊細と言っても過言ではない触れ方に、ダンテは不快だと感じない自分に半ば愕然とした。
ともすれば熱っぽい吐息がこぼれそうになるのを、唇をきっと引き結んで噛み殺す。
「我慢は躰によくないよ?」
男が笑う。いっそ嘲弄してくれたほうがいいと、ダンテは思った。
好きでこんな躰になったのではない。誰への言い訳かわからないことを脳裏で唱えながら、
奥歯を噛み締めた。今し方血を失いすぎたせいか、躰が思うように動いてくれない。
たとえ動いたとしても、先刻のようにやり込められるのかもしれないが、
黙って男の好きにさせておくよりはましだ。
ぎり、と奥歯が軋む。男の唇が痩せた月のような笑みをかたどったが、ダンテは気づかない。
「っ……」
不意に、ぴりりとした痛みが走った。疑問を抱くまでもなく、男の仕業であるとすぐにわかった。
鋭い爪が、ダンテの皮膚を裂いたのだ。
じわりと血が滲み、男の爪を赤く染めていくのが奇妙なほどよくわかる。
男は鼻歌など唄いながら己の指先を口許へ運び、ちろりと舌で舐めた。
そうしてどんな表情を浮かべたのか、ダンテに知る由もない。ろくなそれではないのだろうとは、
この上なく上機嫌であることを鑑みれば嫌でも察せられるが。
ダンテがおとなしいのをいいことに、男はダンテの膚を好き勝手にいじる。
そしてそれがとても愉しいと、隠しもせずにダンテに報告してくるものだから辟易してしまう。
命を奪わぬ程度に皮膚を裂き、血を流させ、肉をあらわにする。
指や爪ですくった血を舐めるだけでは物足りなくなったのか、男はダンテの躰を床へ横たわらせると、
敬虔な信者のように跪き、とうとう直接彼の膚に吸いついた。
ぢゅるり、厭な音をたてて男は彼の命のかけらを口内へ導く。
悪魔の糧は人間だ。男はダンテを喰らおうとしているのか。
いや、根底にある目的はそうであるかもしれないが、
男は今すぐにダンテを殺そうとは考えていないようだ。なぜかなど、ダンテは知らない。
はぁ、と彼はため息をついた。嘆息でも、感嘆でもない。
自分の吐息の持つ熱を自覚したダンテは、驚愕に目を見開いた。陶然。
得体の知れぬ男に膚を舐められ、血を吸われることに、ダンテは確かに快楽を得ているのだ。
好き者。罵る声は兄のそれだ。ダンテはきつく目を閉じ、違う、と否定した。
何も違わないとは、ダンテ自身にもわかっている。けれど、肯定してしまうわけにはいかなかった。
「快楽主義者、というだけのことはある」
男がつぶやいた。
「てめぇには言われたくねぇ」
毒づくダンテに、男はくすくすと笑う。
「その減らず口も悪くない」
何をしても、どんなに口汚く罵っても、男はすべて好意的に受け取ってしまう。
黙っていればいいかといえば、それはそれで好いように思われるのだから、
打つ手もなければつける薬もありはしない。
男は気に入りの人形でも愛でるかのように、ダンテの腹の傷をいじっている。
じくじくとした痛みが長く続くことは苦痛でしかないが、
ダンテは努めて涼しい表情でやり過ごした。
急にダンテの反応がなくなったためか、男の手がふと止まった。
しかし次の瞬間、男は思わぬ行動に出た。いや、予想はできたはずだ。
けれどもダンテは、飽いた男が自分を解放するかもしれないと期待してしまったのだ。
男はその鋭い爪を、ダンテの傷に深く食い込ませた。
それだけでは飽き足らず、傷を拡げ、肉をえぐり、掻き回す。ダンテは堪らず苦悶の声をもらした。
粘ついたいやな音が耳を打ち、血のにおいがいっそう強く鼻をつく。
「ぅ、う……っ」
すすり泣くような声だと、ダンテは思った。
実際には涙など流していないけれども、それでも情けないと思わずにはおれなかった。
男の指が肉を掻き分けるように彼の内部へ入り込み、臓腑に触れると、それを撫でた。
そこにあるのが何という内臓であるかなどダンテにはわからないが、
直接触れられて快く感じないことは確かだ。
「痛みには慣れているようだねぇ……」
男がうっそりと囁いた。話しかけているふうではないので、独り言なのだろう。
が、内容はダンテのことに違いない。男は彼に苦痛を与えたいのか、
それとも彼の血肉を喰らいたいだけなのか、やはり目的が判然としない。
「まぁ、いいさ。時間はたっぷりあるからね」
不穏な囁きに、彼は嫌悪を覚えた。
このゆるゆるとした責め苦に終わりが見えないことに、少しばかりの絶望を感じながら。
オリキャラが調子に乗って申し訳ない限りです。
あとすこし、続きます。
[14/04/03]