餓鬼ガキ








濃い血のにおいを不快と思うか、それとも香しいと感じるか。
少なくとも、彼はそれを快いとは思わない。己の流した緋色であれば、なおさらのこと。



死をおそろしいと感じたことはない。死神はいつのときも彼とは無縁の、遠い存在だった。 他者の目には、彼のやることなすことすべて、命を粗末にしているようにしか見えないらしい。 誰かを殺すことは厭っても、己が血を流すことにはまるで頓着しないのだから、 そう見えても仕様がないのだけれども。

生きている証がほしかった。

傷つけば人並み程度には痛いが、 己の血を見てほっとしている自身に気づいたのはいつのことだったか。





気が遠くなりかかると、男がすかさず声をかけ、痛みを与えることで彼の意識をこちらへ引き戻した。気を失った獲物を痛めつけてもおもしろくない、とでも言いたいのだろう。腹を開かれ、もうどれほどが経ったのか、まったくわからない。彼の驚異的な自己治癒力は常に彼の躰を癒そうと奮闘しているが、男の“遊び”が終わることはなく、少し傷が塞がればまた新しい傷が増えるという、いたちごっこを繰り返している。 時間の感覚はなくなって久しい。今は夜であるのか昼であるのか、無論わかるわけもない。
彼はふと考えた。バージルは何をしているだろうか、と。 彼がいつまでも帰宅しないことを不審に思っているかどうか。
いや、この生業をしていると、数日家を空けることは珍しくもない。 バージルはダンテの請けた依頼内容までは知らないものの、仕事ででかけたということは知っている。 帰りが多少遅くなったところで、奇妙だとは思わないだろう。 だから、ダンテはこの窮地を自力でどうにかせねばならないのだ。

(わかってる。そんなことはわかってるんだよ。けど、……)

四肢に力が入らない。人形のように横たわったまま、ただただ、ひとの形をした悪魔に弄ばれる。 我慢ならないほど嫌で仕方がないというのに、躰はまるでいうことを聞こうとしない。
傷の大小はともかく、あまりにも血を失いすぎたのだろう。 意識を保っているだけで精一杯で、それもともすれば消え入りそうなほどだ。 起き上がり、ひとりとはいえ悪魔相手に立ち回りができるとは、さすがの彼にも思えなかった。

どうすればこの状況を打開できるのか。それだけを、彼はずっと考えている。 しかし答えはどこを探しても見出すことはできず。
まるで暗い宇宙にひとり投げ出されたような、暗澹としたものに侵食されていくばかりだ。





「起きろ」

いつまでも寝ているな、と。冷徹そのものの声が聞こえて、ダンテは内心で首をひねった。 その声には聞き覚えがある。けれどそれは今聞こえるはずはないものだ。ならば夢か。 とうとう意識を手放して、自分に都合のいい夢を視ているとしか考えられない。
夢ならば、もう少し浸っていてもいいだろうか。
ダンテは目を瞑ったまま、自分に触れる体温に躰をすり寄せた。 背中に回された腕がぴくりと震えたが、それも一瞬のことで、 よく知った体温の持ち主は「やれやれ」とでもいうように彼を抱き寄せてくれた。 その仕種の優しさに、

(やっぱ、夢だな)

ダンテは自嘲するように笑った。あの男――バージルは生来、自身にも他者にもとても厳しい。 それはダンテも例外ではなく、だからこそ、彼はこの状況を夢と信じて疑わなかった。
バージルが息を吐くように小さく笑った気がした。同時に彼の身がふわりと浮く。 背中と膝の裏に感じる兄の腕。細身に見えてその実ダンテよりも逞しい腕に軽々と抱き上げられた彼は、 その時になって初めてうっすらと瞼を持ち上げた。暗い。 けれども見上げた先に見えたものが誰の横顔であるかはすぐにわかった。

「バ……ジ、ル、……」

彼の声は弱くかすれており、蚊の鳴くようなそれでしかなかったけれど、 バージルの耳には届いたようだ。大丈夫だ、と兄が言う。

「あとのことは俺に任せておけ」

命令口調はいつものこと。ダンテはほっと息を吐いて、今度こそ本当に意識を手放した。





ゆらり、ゆらり、

蝋燭の炎のように揺れる鳥籠の中に、ひとり。 鉄の床に尻をつき、投げ出した脚を白い綿毛に似た羽根が覆っている。
夢の中だとはっきりわかる光景に、彼は慌てることも焦ることもなく、ぼんやりと鉄格子の向こう、 灰を塗りたくったような空を見つめる。

ゆらり、ゆらり、

彼が腕を持ち上げると、掌にまとわりついた羽根がはらはらと落ちる。 何という鳥の羽根だろうか。いきものに詳しくない彼にわかるはずもない。 すぐに興味を失って、彼はひそりと目を閉じた。





奇妙な夢から目覚めると、ダンテは自宅のベッドの上にいた。 なぜ、と一瞬疑問符が飛び、すぐに思い出す。バージルだ。 兄の腕に抱き上げられた、あれは夢ではなかったのだ。

「バージル……」

つぶやくと、予期せず応えがあった。

「なんだ」

思わず肩を跳ねあげ、ダンテはがばりと躰を起こした。途端、疼痛が全身を遅い、呻いてしまう。

「急に動くからだ。ゆっくり横になれ」

起きる必要はないのだと、バージルは噛んで含ませるように言った。 子ども扱いをするな、とはダンテは言わなかった。 反感を抱くよりも驚きのほうが強かったからだ。
ダンテは兄を凝視した。室内は互いの表情が見える程度に明るい。 バージルはダンテの隣、こちらに躰を向けて寝そべっている。 空が明るくなってなおバージルがベッドにいることなど、滅多とないというのにだ。

「どうした。まだ起きるには早いぞ」

バージルが不審そうに眉をひそめる。ダンテの起床時間は遅いのが常だ。 だからバージルはまだ寝ていていいと言うのだが、 バージルにとってはすでに床を払っていておかしくない時刻のはずである。 しかしバージルもまた起きる気配を見せないとは、いったいどうしたことなのだろう。

「バージル?」 なんだ、と兄が息だけで応える。 億劫そうな声音だが、怒っているわけではないとダンテにはわかった。

(まぁ、いいか)
深く考えることをやめて、ダンテは躰をシーツに預けて目を閉じた。 バージルの懐に身を寄せると、ごく自然な動作でバージルがダンテの腰に腕を回してくる。 無論、それを拒む理由はダンテにはない。





なぜ、あのときバージルにダンテの居場所がわかったのか。
後日、ふと思い出して問うてみたダンテに、バージルはこともなげに、

「あの仲介屋に訊いた」

と教えてくれた。バージルの言う仲介屋とは、ヨハンのことだ。 ただ口頭で問いただしただけなのか、それとも実力行使に及んだのか、 バージルの言葉からは判然としなかったが、それはどちらでもいいことだ。
ヨハンとは双子のきょうだいだという悪魔はどうなったのか。 話が核心へ移ると、バージルは不快げに眉を寄せた。曰く、逃げられた、とのことだ。

バージルがダンテのもとへ駆けつけたとき、件の男はすでに彼の傍らにはいなかったのだという。 気配を辿って捜してみたが、もはやどこにも男の姿はなかった。
その話をしているバージルは、不機嫌というよりはひどく悔しがっているようにダンテには見えた。 散々にダンテの躰を傷つけた男を許せなかったのか、どうか。 しかし反対に、ダンテは男がまんまと逃げおおせたと聞いても悔しいとは感じなかった。

そうか、逃げたか。

あの悪魔の行方を追おうとは、ダンテは考えなかった。バージルも同じなのだろう。 どこにいるのかわかるならば、行って殺してやりたいのはやまやまだが、 あてもなく捜し回ることに労力を費やすなど、それこそ無駄だ。厭な夢を視た。 その程度と捉えて忘れてしまうのが一番いい。
無論、きれいさっぱり忘れ去ることなどできるはずはないけれど、記憶の奥底へ追いやって、 二度と表に出ないよう錠を下ろしておくことはできるはずだ。

ダンテはそう開き直ることにして、以降、その話を口に出すことは一度もなかった。






















『意識を失わない程度に痛めつけられ、悪魔に囚われたダンテを助ける微デレ兄』
とのことでしたが、果たしてクリアできているのかどうか…。
微じゃなくてすっかりデレてしまっているような。
ともあれ、よろしければ、リクエストくださった方のみお納めくださいませ。

今回は全編ダンテ視点で書きましたが、機会と体力があれば、
バージル視点や後日談など書きたいと考えております。。。

[14/04/03]