餓鬼ガキ








躰のそこかしこが軋むように痛む。怪我を負い、それが治癒されようとしているとき、 こんな痛みを感じることがある。自分はどこか怪我をしていたのだろうか。 記憶はやはり、霞がかったように茫洋としている。 怪我をしたならば、そのときの痛みくらい憶えていそうなものだが、 それさえも不思議なほど思い出すことはできない。
この闇の中はおかしなことばかりだ。目が一向に慣れないことも、おかしいといえばおかしかった。
彼は身体能力だけでなく、五感もまた常人とは比較になないほど優れている。 その視力をもってしても、何も見えないのだ。
完全な闇に、彼はなぜ放り込まれているのか。怪我をしたことと関係があるのかどうか。

謎ばかりが渦巻いて、何の解決策も見出すことができない。

彼は上体を起こし、考えることをやめた。 ここがどこであるのかがわかれば、何かしら思い出すだろうと思ったのだ。 そしてそのためには、まず辺りを調べねばならない。
ぎしりと背中が嫌な音をたてて痛んだ。が、彼は気にしなかった。痛みは間もなく消える。 悪魔の血が流れるこの躰は、当人が思う以上に死から遠ざけられている。 心臓を貫かれてさえ死ぬことがないのだ、この程度の痛みで命が危ぶまれることはまずありえない。 そういう意味では、便利な躰と言える。ひとよりも悪魔に近い。 その事実をよくわかっているからこそ、彼はひとであろうとするのだった。

ベッドらしきものの上からゆっくりとおりると、ひやりとしたものが足の裏にあたった。 床はコンクリートか何かであるのか、冷気が足を媒介して全身へ駆け巡るようだ。 それでも彼は怯むことなく、膝に体重を乗せて立ち上がった。じくじくと頭が痛む。 こちらはおそらく、外傷が原因ではないだろう。長く眠ったあとの疼痛に似ている。

彼はそろりと足を踏み出した。爪先に触れるものはない。 ひとつ、ふたつ、数えながら少しずつ前進する。 ゆっくりとしか進むことができないのはもどかしいが、盲目状態とあっては致し方ない。 何かしら音が拾えぬものかと、耳を澄ましているがこちらも今のところ役には立っていなかった。

(なんでこんなことになったんだ?)

それさえわかれば、もっと効率的なやり方というものがあるのだけれども。 敵が近くにいるのかどうか、それさえもわからぬのだから、下手に声を上げることもできない。
もどかしさばかりが募り、苛立ってくる。
こんなとき、兄ならばどうするだろうかと考えて、彼はふと足を止めた。

(バージルは?)

彼の周囲に兄の気配はない。彼は正しくひとりだ。少なくとも、 彼が何かしら負傷し、この闇へ放り込まれたとき、兄は一緒ではなかったらしい。
兄は自分を捜しているだろうか。彼にはわからない。いや、きっと捜してなどいまい。 兄は生来、己にも他者にも厳しい性質の男だ。弟の行方が知れない程度のことで、 慌てふためくことはもちろん、捜し回ることもしないに違いない。

(べつに、頼ろうなんて思っちゃいねぇ)

誰かへ言い訳をするように喉の奥でつぶやき、彼はまたひとつ足を前へ運んだ。
十ほども数えたあたりで、躰の前に突き出していた手が何かに触れた。 冷たいそれは、おそらく壁であろう。掌をぺたりとつけ、彼は右、左、と交互に視線をやった。 無論、何も見えるものはなく、埒が明かない。
くそ、と内心で悪態をついたとき、小さな、ほんのかすかな音が耳朶をかすめた。 彼は弾かれたように躰ごとそちらを向いた。

それは一粒の、雨の雫ほどの小さな何かだ。

不審に眉をひそめる彼の目に、それがぶるりと震えたように見えた。 瞬間、その粒がばちんと爆ぜて閃光が疾る。

「なっ……!?」

意表を突かれたことと同時に、そのあまりの眩しさに驚いて、彼は思わず目を瞑った。

「驚かせるつもりはなかったのだけれどねぇ」

おどけたような声が響いたのは、彼が閉じた瞼をそうっと持ち上げようとしたときだ。 誰だ、と誰何しようとして、彼ははたと気づいた。この声――

「あんたは、」

目を開けると、知った男がひとり、すでに見慣れてしまった笑みを浮かべてそこにいた。





バージルはふだん、感情を吐露することがない。 そう思っているのは、バージルのことをさほどあまり知らない人間だ。
実際には、バージルはとても短気で、小言は多いし、理不尽なところが多分にある。 こんな傍若無人な男と自分が、同じ母から生まれ、同じように育てられたというのだから、 甚だ不思議だとダンテは思う。
彼らは双子だ。顔立ちこそ似ているが、中身はまったくの正反対。 社交的なダンテに対して、バージルは他者と友好的な関係を築こうという意志はない。 なぜかといえば、バージルにとって他者とは不必要なものだからだ。

生まれたときからともに生きてきたせいか、 バージルの奇妙なこだわり(あるいは無関心)をダンテはよく知っている。 が、何年ともに暮らしていても、 バージルの考えていることはダンテの理解の埒外にあることは変わらない。
変、なのだ。一言でまとめてしまうならば、バージルはとにかく変わった男なのである。

悪魔とひととの間に生まれた彼らは、見目は完全にひとのそれだが、 身体能力などは悪魔の血が勝っていると言える。 ダンテは自分をひとだと思っているが、バージルは違うのではないかと、時折思うことがある。 だから、結局のところバージルのことを理解できないのかもしれなかった。 根本的に違ういきものなのだと思えば、理解できない理由もわからぬではない。
それでも、バージルはダンテのきょうだいであり、 たったひとりの同胞はらからだ。 理解できずとも、彼らは結局、彼らしか同種がいない。 互いに頼るということこそしないが、ある種の依存は互いの間に存在している。

まったく似たところのない、正反対の双子であるけれども、双子ゆえか、 どちらかが欠けることはあってはないないとダンテは思う。 文句の一つや二つ、いや、それ以上にあるけれど、ダンテにとってバージルは確かに必要な存在なのだ。 なぜと訊かれても明確な答えなど持ち合わせてはいないが、漠然と、 失くしてはならないものと思っている。
もっとも、バージルのほうはダンテについてどう考えているのか、ダンテに知る由もないが。

バージルは情の薄い男だ。その辺りもダンテとは違う。心の在りどころが違うのだろう。 そのバージルが、執着に似たものを見せることが、時折ある。ダンテが関わることだ。

出来のいい兄は、自分を莫迦な弟の監督者とでも思っているのかもしれない。 彼らは肉体の関係を持つようになって長いが、恋人同士などという浮ついた名前のつく関係ではない。 愛の言葉を交わしたことさえないのだから。 とは言えど、バージルはダンテを文字通り自分のもの、と思っているのだろう。 だからダンテが莫迦なことをしでかすと、地獄の悪魔も震え上がるのではないかと思うほど、 おそろしいことが起こる。曰く、勝手なことをするな、と。

束縛されているとは思わない。 バージルがまれに見せる執着心を、ダンテは重いと感じたこともなかった。 むしろ、心地好いとさえ思う。

縛られるのは嫌いだが、情の薄いバージルの、 ほんの少しの執着心が自分に向いているとわかる瞬間はとても貴重だ。 その反面、ダンテの胸には小さくはない寂寞が生まれることもまた、事実であった。





「仕事、する気はないかい?」

ヨハンは世間話のようにそんなことを言い出したのは、ダンテがひとりで呑んでいた夜のことだ。 場所は通い慣れた酒場。ちょうど、親爺がバックヤードへ引っ込んでいるときだったように思う。 エンツォの顔も、その日は見なかった。あらゆるタイミングを計ったかのように、 ヨハンはダンテへ何かしらの依頼を託そうとしている。

「仕事? なんで」

ダンテは不審げに眉を寄せた。この仲介屋はあれ以来度々この酒場へ顔を出しているが、 その間、一度も仕事の話などしたことがなかった。縄張りを拡げるつもりはない、 という言葉は本当だったのだと妙なところで感心していた矢先である。
ヨハンは肩を竦めてため息をもらした。

「いや、本当はよそうと思ってたんだけれどねぇ。それじゃどうにも収まらなくて」

依頼主がごねたらしい、とダンテは察したが、その辺りの話は自分には関係のない話だ。

「で、押し切られたってわけか」

「まぁ、そうなるね」

面目ない、とヨハンは眉尻を垂れさせて詫びの言葉を口にした。

「君の噂を聞いて興味を持ったらしくて……どうしてもと言って聞かないもんだから」

「……で?」

ダンテはジン・トニックを一口含み、ヨハンをじとりと睨んだ。 いやその、とヨハンが口の中でごにょごにょと何か言う。

「無理強いをするつもりはないんだ。依頼主へはうまいこと言って断るから、心配しないで」

当然だ、とダンテは頷いた。それでも、

「一応、どんな仕事かだけ聞いてやるよ」

と笑って見せたのは、ダンテにしてみればただの愛想のつもりでしかなかったのだけれど。



















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本題に入るまでが長くてすみません。
この先もオリキャラが出張りますが、もうしばらくお付き合いくださいませ。

[14/04/02]