常闇ヤミ、後












やけに、遅い。

バージルは壁の掛け時計に視線をやり、わずかに眉をひそめた。針は午前二時を示している。
世辞にも規則正しい生活を心がけているとは言えぬバージルにとって、通常ならばこの程度の時刻を 遅いと感じることはない。が、問題は自身にはなく、弟の帰宅がまだだということだった。
弟は、仕事だ。無論、まっとうな生業ではない。弟は便利屋を自称しているけれども、荒事師と 呼ばれるならず者と、立場にさしたる違いはない。要は、どちらも表社会から爪弾きにされた 人間ということだ。
薄暗い世界でしか生きるすべのない人間は、実のところ少なくない。つまるところ、表立って 成すことのできぬ厄介事を、彼らに依頼し己の手は汚さずに済ませようという人間が少なからず いるということである。
そういった人間からの依頼は、主に仲介屋という存在を通じて荒事師らに持ち寄られる。弟にも。 そして自分にも。

バージルはまた、時計を見上げた。二時五分。どうにも落ち着かない。弟一人いないだけの ことで、屋内は異様なほど静かだ。騒音を厭うバージルにとって、この静寂は好ましく感じる はずなのだが。

簡単な仕事だと、弟は笑って出かけて行った。悪魔絡みとあたりをつけて、だからこそ請けた “胡散臭い”依頼である。そんなものを喜んで請ける理由は、バージルも知っている。弟は悪魔を 狩ることが本職のようなものだ。便利屋という肩書きは表向きのものでしかない。
バージルは、どんな依頼であれ基本的に断ることをしない。そのバージルが、今回は依頼を 突っぱねた。弟は怪訝そうに首をかしげながらも、嬉々として単独であたるという回答を 仲介屋に返した。
気が乗らなかった。できれば弟にも依頼を断らせたいところだったのだが、久方ぶりの “胡散臭い”仕事に、弟は見るからに目を輝かせており――結局、バージルが折れた。
それが間違いであったことに気付くのは、もう少しだけ先のこと。





お人好し。バージルは自身をして、そう評することはけっしてない。

暗い路地は、ぽつりぽつりと街灯に照らされてなお暗い。土地柄がそうさせているのか、単純に 街灯の明かりがそもそも暗いのか。こつこつと長靴の踵がアスファルトを咬む音が、あちこちに 反響し耳に痛い。とくに治安の悪い裏路地は、日が落ちると一切の人通りが消え、あたかも 廃墟のような静寂が満ちる。夜陰にまぎれ、小金ほしさに殺人を犯す者もいるだろう。自分の命を 守るのは自分以外にはいない。
ふと、バージルの足音が消えた。そのつもりになれば気配を断つこともたやすいが、今は何も していない。絨毯の上にでもいるかのように、音が吸い込まれている。何に。バージルの 視界には、先刻から何の代わり映えもない。薄暗い路地が、奥へ奥へとバージルを誘う ばかりだ。
眉根をしかめる。何者かの張った縄張りに、気づかず足を踏み入れたものらしい。不覚、である。 舌打ちを一つ、注意深く路地の奥を睨む。深い闇。先はまるで見えない。奇妙だ。街灯の明かり すら見えない。行き止まりではないはずだが。

(面倒事、か)

路地に横たわっているのは、悪魔に違いない。罠を張って餌を待ち構えているのか。まだ何の 変化もないところを見るに、餌が懐深く入り込んでから喰うつもりなのだろう。餌とは無論、 人間だ。
バージルの左手には、いつの間にか一振りの剣が握られている。細身の、わずかに反りの ある鞘に収まったそれは、バージルの愛刀だ。必要な時だけバージルの掌に姿を見せる、 特殊な刀である。
いつでも愛刀を抜けるよう、左手の親指で鍔を少しだけ押す。そうしながら、悪魔の懐へ歩を 進める。

少し歩いて、妙なことに気付いた。奥へ行けば行くほど、闇が濃くなることではなく。 ――脈動している、ということだ。
悪魔といえど、心臓となる核は存在する。が、それの脈動とは違うようなのだ。ざわざわと、 蠢いている。見目ではわからない。だが、確かに蠕動している。空気が。気配が。

不可解なことはそれだけではない。

(殺気が、ない……?)

餌を喰らっているなら、脈動の意味もわかる。しかしそれは、餌を殺すということでもある。 にもかかわらず、殺気を感じられないのだ。食事に夢中であるのか。それとも別の何かが そうさせているのか。
こんなところで足止めを食うとは思っていなかった。バージルは舌打ちをして、刀の鍔を弾いた。 懐にはまだ浅いが、面倒だ。
死ねと、呟く。その瞬間、闇が大きくたわんだ。アスファルトがうねり、バージルの躰を 持ち上げる。邪魔はさせぬとわめく声が聞こえるようだ。
些細な抵抗など、何ほどのこともない。バージルは闇の裾を蹴り、刀を一閃させた。
蒼白い光が一条、闇を裂く。はっと、した。闇の奥底、懐近くに銀色に輝くものを見たからだ。

「ダンテ、ッ」

顔も姿も確認したわけではないが、バージルは直感的に弟の名を口走った。声に反応して、 黒い靄のようなものがこちらへ伸びてくる。捕えようというのだろうか。それにしては緩慢な 動作だ。難なくそれを避けたバージルは、続いて四方から迫る靄を躱しながら、闇の中心へ 近づいていく。
靄は濃さを増し、己の手足の先すら見えない。視界こそ闇一色とまではいかぬが、靄はゆるゆると バージルを包囲し、その腹へ呑み込もうとうずうずしている。

バージルは刀を抜いた。同時に蒼白く闇が切り裂かれる。声ならぬ悲鳴があがった気もするが、 この靄に声帯などあるようには見えない。二度、三度と靄を斬りつける。喉の奥で呻くような声。 それに覆われ、かすかに別の声がバージルの鼓膜を震わせた。ほんの、一瞬のことだ。

「っ、」

銀色の輝きが、バージルの放つ一閃の蒼を弾いた。バージルは左肩を引くように体勢を低く取り、 鞘に収めた刀を構える。ぴくり、と。バージルの右肩が震えた。常人にはそれすらも 視認できないであろう速さで繰り出されるバージルの居合い斬りは、空間をも斬り取る。 さらにはその線上に存在する何もかもを、微塵に斬り裂くのだ。
叫び、のような呻きが路地に響き渡る。ざわざわと、靄が斬り裂かれた箇所を補うように、 中央へと収縮していく。バージルの目には、今やはっきりと弟の姿が確認されている。

端切れのように寸断された靄の中に、彼はいた。

怪我は、あるかもしれない。しかしバージルはその心配などしていなかった。傷などすぐに治る。 問題はそれではい。バージルの目は彼の表情に釘づけになっていた。

――恍惚。

よく知ったその表情の意味を、バージルは違えはしなかった。蠕動する闇の塊。靄は自らを 修復しながら、取り込んだ餌を喰らっている。殺さずに。靄が求めているのは血肉ではない。 もしくは行為を終えたのち、頭から喰らう算段をしているのかもしれないが、そんなことは どうでも良い。

「ちっ」

舌打ち。頭に血が昇るどころか、逆に冴え冴えとしているのはなぜか。弟が、形も判然とせぬ ものに犯されているというのに、なぜ。
弟の意識は、おそらくない。失神しているのではなく、心がここにないと言うべきか。抵抗もせず 犯されるがままになっているのは、この靄が彼の思考を喰らったからか、どうか。何にせよ、 バージルが成すべきは一つだ。

「好きなだけ喰え、と言ってやりたいところだが、それまでだ」

バージルの後方、後光のように円形に並んだ蒼く透けた剣が宙を滑り、靄の裾を縫い止めるように 突き刺さる。悪魔は、人間で言う心臓となる核を有する。このような靄も然り。それはおそらく、 ダンテの下肢近くで蠢くたび、濃い紫に色を変える箇所にある。
死ね、と。バージルの形の佳い唇が囁いた。蒼白く、光が射す。
パキン。かそけく響く、硝子の割れたような音。そして空気を震わせる断末魔。細切れになり、 消えていく黒。時をかけず、元の路地の景色が戻ってくる。

カツン、と靴音。革靴の底がアスファルトを咬んだのだ。すぐ足元には、ぐったりと 横たわる弟の、無惨といえる姿。
服は溶けたかのように破け、まるでぼろ布の切れ端だ。それが肩と、腿から先を申し訳程度に 覆っている。靴も片方しか履いておらず、また気に入りのブーツがだめになったと嘆くに 違いない。意識がないことは、幸いかもしれなかった。今のうちに回収して、着替えさせて やれば本人は夢とでも思って忘れるだろう。

弟の背中と膝裏に腕をかけ、抱き上げようとしたとき、バージルは不意に眉をひそめた。違和感。 眠るように目を瞑った弟の下腹が、ぴくりとわずかに動いた。呼吸のためではないと、すぐに 気付く。弟の唇からかすかにもれた吐息の、やけに甘やかなことが証拠だ。
まだ、腹の中にいる。先刻消え失せた靄とはべつのものだろうか。
弟の吐息が耳にまとわりついて気持ちが悪い。バージルは眉間の皺を深くして、彼の膝を無造作に 割り開いた。しとどに濡れた内腿の奥に、舌打ちせずにはおれない。

「淫売め」

それは、すぐに目に入った。弟自身は触れることのない秘蕾をいっぱいに拡げる格好で、黒と紫の 混じった色合いのそれは彼の中でびくびくと蠢いている。その動きに応じるように、彼の白い 内股もぴくぴくと震える。卑猥なさまだが、バージルに熱をもたらすことはない。やはり、 冷え冷えとした目で見下ろすだけである。
彼の、異物が犯しているそこへ手を伸ばした。気味の悪いものを、ためらいもなくつかみ――引く。 抵抗しようとしてか、塊が胴をうねらせた。途端に、彼の喉を嬌声がつく。バージルは塊をつかむ 腕を一気に引き寄せた。

「あ、ッん、ぅ」

ふるりと、彼の下肢が揺れ。べしゃりとアスファルトに横たわった斑の塊に、蒼く輝く幻視の剣が 深々と突き刺さる。びちびちともがくほど、傷口は開くばかりだ。
ぐったりと弛緩した弟に自分の外套をかぶせ、バージルは今度こそ腕に抱きかかえた。

悪い夢は終わりだ。早く帰って、身を浄めてやらなくては。 そうして落ち着きを取り戻したなら、その次は。

(おまえを抱く)

なかも浄めなければ――加減ができるか、どうか。バージルは美しいおもてに薄い笑みをはき、 きびすを返した。





磔にされた黒っぽい塊は間もなく息絶え塵となって消滅し、それを見届ける格好で、蒼い剣は 砕け散るように霧散した。それを目撃した者は一人もなく、まるで夢であったかのように証拠を 残すことなく、すべては風に消えた。



















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リクもの第7弾でございました。
果てしない尻切れ感と敗北感…!
もっとうねうねでアレコレを期待されていたに違いないのに。

このような仕上がりではありますが、もしよろしければ、
リクくださった方のみお持ち帰りくださいませ。

[10/03/02]