常闇ヤミ、前












“それ”はどこからともなく現われて、彼の四肢に絡み付く。辺りは闇。己の姿すら見えぬ、 深い闇が満ちている。だから“それ”が何であるのか、失明したも同然の今の彼にはまるで わからない。が、わかることがただ一つ、ある。“それ”が命を持つものだということだ。
意思をもって、彼の四肢をことごとく拘束している。触覚、嗅覚、聴覚を頼りに、彼は“それ”の 正体を暴こうと躍起になる。冷静であれと自身に命じ、己の置かれた状況を認識しようと 試みる。
混乱は、している。だからこそ、冷静であれと自身に言い聞かせねばならぬのだ。わめき、 暴れることはこちらの不利につながる。ただでさえ、四肢に絡むものの感触はひどい不快を 彼にもたらしているのだ。わめきたい。暴れたい。その願望をいつまで押さえ込んでいることは、 彼にはひどく困難に思えた。

――だれか。

たすけて、とは、もっとも叫びたくない言葉。








頬を打たれて、ダンテははっと目を覚ました。目の前には兄の秀麗なおもて。眉間に刻まれた 縦皺がなければ、と思うことは多い。

「……ぁ、……ジル、?」

どうして起こされたのか、身に覚えのないダンテは茫然と兄を見つめ返すばかりだ。呟いた 兄の名は、寝起きで喉が渇いているという理由以上にかすれていたようだけれども。
バージルの片眉が器用に持ち上がる。覚えていないのか、と訊くバージルに、ダンテは首を かしげるしかなかった。

「うなされていた」

だから、軽く頬をぶって、無理にも起こしたのだと言う。あえて肩を揺すって起こさぬあたりが、 この兄らしいではないか。
兄の顔しか見えぬ視界に、兄の手らしきものがちらと映った。額に指先が触れる。前髪を払って くれているらしい。ひどい汗だ、とバージルが独り言のように呟いた。あせ、と舌足らずに 繰り返したのは、当然ながらダンテである。よほど、悪い夢を視たのだろう。まるで記憶には ないけれども。
ため息を吐くと、バージルの掌が額を覆った。いつもながら冷たいが、今はそれが心地よい。 うっとりと、瞼が落ちる。そこへ、バージルの唇が触れた。啄むような、優しいキス。何と 珍しいこともある。ダンテはくすくす笑った。なんだ、と鉄面皮に似合いの鋼の声音。しかし、 何ものにも厳しいこの兄が、唯一自分にだけは甘くできているということを、ダンテは昔から 知っている。

「たまには悪夢も悪かねぇ……かも」

悪戯っぽく嘯けば、その唇に兄のそれが重なった。兄も笑っている。そうとわかるのは、 世界広しといえども双子の弟であるダンテただ一人だ。



ベッドから出た頃には、陽は南を通り過ぎて西へ向かう最中のことだった。躰を起こすことすら 億劫がるダンテの、身繕い一切をバージルがしてくれた。ベッドから出たくないとは、ダンテも 言わなかったのでバージルのされるがままになっていた。
バージルにかまってもらうのは、素直に嬉しい。恥ずかしいので言葉にこそせぬけれども、 バージルはわかっているに違いない。ダンテが甘えたいと思うとき、バージルはダンテを よく甘やかしてくれる。言葉にしなくとも伝わるものが、彼らには確かにあるのだ。
無論、伝わらぬこともままあるが。

「立て」

兄の口調は、これが常だ。癖、だろう。バージルは幼いころからこうだった。ダンテも すっかり慣れている。
腰がしゃんとしてくれぬので、一人で立ち上がるには多少難がある。ダンテがまごついていると、 無言のまま兄がダンテの二の腕を掴んだ。ひょい、とさしたる力も反動もつけずにダンテの腰が 浮き、一瞬の間にバージルの腕の中にすっぽりと収まっていた。顎を兄の肩に乗せ、ぎゅっと しがみつけば背中をぽんぽんとあやすようにされる。
バージルとダンテは双子で、背格好は全く同じなのだが、バージルは常にダンテを子どものように 扱う。兄としての意識が強いせいだろう。ダンテはいつでも、いつまでも幼い弟の域を出ない。 いくつになっても、ダンテから甘え癖が抜けぬのはこれのせいだ。そう、ダンテは決めてかかって いる。

「飯はどうする」

バージルが耳に囁いた。息がかかってこそばゆい。身動ぎながら、どうって、と問い返す。 すでに昼食の時間すら軽く回っている。残すは夕食だが――時間的にまだ早い。しかし、だ。

「腹、減った」

ぐぅ、と絶妙な合いの手が入る。バージルがくすりと笑うのがわかった。しかし馬鹿にされて いるとは思わないのは、バージルの声音に優しいものを感じたからだ。

「何か作ってやる」

言った、兄の口調はひどくやわらかかった。





情報屋を自称する馴染みの仲介屋から仕事の話が舞い込んだのは、雪も降ろうかというほど寒さの 増した夜のことだった。場所は荒事師らのたまり場とも言える、見掛けは今にも 潰れそうな――古ぼけた酒場。聞くなりバージルは渋面を作り、ダンテは猫のように目をきらりと 輝かせた。
ダンテが二つ返事で請け負う仕事はただ一つ。悪魔絡みのそれのみだ。人の言うところの うさん臭い仕事を、ダンテは喜んで――報酬額の高低にかかわらず――請ける。それで変人扱いを されていることは、ダンテも知っているが気にならない。
便利屋――ダンテは自身をして荒事師とは呼ばわらぬ――として自ら社会の爪弾き者になった 時点で、“普通”とされる枠から外れている。誰も彼も、ダンテのことを笑える立場では ないのだ。

他者の囀りなどつまらぬ些事でしかない。

ダンテはその仕事を請けた。バージルは相変わらず渋面で、断る、と呟いたが、ダンテは 自分一人で足りると言って、半ば強引に承諾を得た。実際のところ、悪魔絡みの依頼を喜ぶのは ダンテに限ったことであって、一方のバージルは基本的に選り好みをしない。しないが、ダンテが 乗り気である依頼に限って、渋ることがままあった。何が気に食わぬのかと聞いても、 物言いたげな冷ややかな目でにらむばかりで、何も言ってはくれぬのだ。
いつものこと、と言ってしまえばそれまでだ。バージルはダンテのやることなすこと、すべてが 気に入らぬのに違いない。それでダンテが反発するのだが――無論、それこそバージルの 気に召さぬことは間違いないだろう。

あれこれ推論したとて無意味だ。バージルはバージルでありダンテはダンテ以外の何者にも なれはしないのだから。そうして頭の片隅に追いやっては、時折発作のように引っ張り出しては 持て余すのだけれども。

ダンテはただ、兄と対等でありたいだけ――





何もかもが寝静まった夜更けに、スラム街をするすると滑っていく影がある。足運びは速く、 あっという間路地を駈けていく。息遣いは荒い。何かに追われているか、闇を振り切るように 駈けながらも、時折背後を窺うような素振りを見せるのが奇妙である。
闇は深い。月は猫の目に似て痩せ細り、地上をいくらも照らしてくれない。路地には街灯が まばらに佇んでいはするが、どれも息を潜めるように仄暗い光をたたえており、明るさという 言葉を拒絶している。
薄い影はすぐに闇に食われ、コートの裾であろう布に今にも食らつきそうだ。そうはさせじと 駈けている――大袈裟な表現であるが、事実彼は何かしらから逃れるために一心不乱に駈けて いるのだった。

なぜこんなことになったのか、彼自身にもわからない。いや、彼自身がもっともその理由を 知りたいと思っているほど、混乱していた。とにかく今は駈けることしか頭にない。考えるのは それから――これが最良の選択かどうかを判断する思考すら、今の彼には欠けている。
簡単な仕事だった。過去形で語るからには、もはや終わった話であることは明白だ。ならば、 今現在の状況は何であるのか。――仕事の内容は、彼にとっては何の変哲もない、問題など あるべくもないものだった。たとえ、依頼を持ち込んだ仲介屋が“胡散臭い”と眉をひそめた ものだとしても。
始めから終わりまで、彼が苦戦を強いられた瞬間は一度たりともなかった。それほどに、 安い仕事だったのだ。

仲介屋への文句を吐きながら引き返そうとしたとき、彼はそれに気付いた。

腕か、手か。

何かが闇からぬらりと這い出し、彼の足に絡もうとしている。やめろ。駆ける足を止めずに放った 声音は荒い。自らの喘鳴ほどの雑音はなく、また、なぜこうも焦っているのかわからなくも あった。
足を止め、振り返って闇夜からこちらを狙う何かと対峙すれば、何よりも早い解決となるはずだ。 わかっていながら、そうしない。焦りだけが大きくなっていくようだった。望みもしないと いうのに。
兄は、自宅で待機している。一人で事足りる。そう言って、彼は一人、愛用の剣と双銃を供に家を 出た。もし兄がいたならば――そう考えると、後悔もあるが安堵の気持ちが勝るかもしれない。 兄の、自分を嘲笑う姿がありありと目に浮かぶからだ。

しかしそうも言ってはおれぬのが現状である。

“何か”は、確実に彼との距離を縮めているようだ。気配がいっそう濃くなった。というのに、 正体はいまだ判別できぬというから不可思議でならない。悪魔。には違いないはずなの だけれど。

(なんなんだ)

「Shit……!」

罵りも、今は虚しく闇に呑まれるばかり。残響すら耳には届かない。しゅる、と。不意に何かが 足に巻きついたような気がした。深々を茂った草むらに踏み込んだ、そんな感触に、思わず下方を 見やった。その瞬間。

「ッ……!」

声を上げることもできずに、彼の躰はアスファルトに投げ出されていた。受け身を取ったのは 無意識でのこと。腕で頭をかばいつつ手でアスファルトをつかみ、躰が叩きつけられる前に 体勢を立て直そうと躰をよじる。が、

「うぁっ!?」

思わぬことが起こった。足のみならず、他の四肢にまで“それ”が絡みつき、彼の自由を 一切奪ったのである。中途半端に躰をひねった状態であった彼は、硬い地面に背中を強打した。 痛みには慣れているが、不意の打撃は思いのほか痛む。思わず顔をしかめた。

「って……ぇあッ?」

奇妙に間の抜けた声音がもれたのは、四肢に絡んだものがそわそわと彼の肩から胸へ、腿から 下腹部へその先端を伸ばしてきたからだ。何が目的であるのか。しかし意志あるもののように、 それはしゅるりしゅるりと彼の躰を絡めとっていく。身動きは、もはや指先をぴくりと できるだけになってしまっている。

剣は背に。銃は腰の後ろに。それぞれ、ひっそりと控えている。腕一本、伸ばせば彼らは確かな 強さでもって敵を退ける。わかっているのだ、そんなことは。しかし指先をひくつかせるで 精一杯の彼に、今や何ができるというのか。
歯噛み、する。自身を罵る。呪う。恨む。

彼の躰は、もはや完全に闇に呑み込まれ――視界は黒に染まっていく。四肢を戒め、躰を這う “何か”の感触だけが、奇妙なほどはっきりとわかった。



















次。
戻。


すみません、続きます。

[10/03/02]