幽宮 / 1
DoLL――――心ある、命無きもの。姿はひと。もの想う人形。
知能高く、己をひとと思い込み、やがて所持者の支配を拒む。
命無き己を嘆き、命有るひとを羨み、憧れ、憎悪する。憎しみは増大を重ね、爆発し、そして
人形は暴挙に到る。即ち、命有るものを襲いその命を我がものにすべし、と。
詰まらない仕事だった。二十歳になるかならぬかという若い青年が、紅い長外套の裾をぞんざいに
払いながら舌打ちをした。
期待した展開など一つも起こらず、彼の実力の半分も発揮することなく終わってしまったのだ。
消化不良、不完全燃焼。ともかく、詰まらない。
「あー……くそッ」
口汚なく悪態を吐き、青年は軽く首を回した。こきりと小気味良い音がする。中途半端に期待が
大きかっただけに、落胆も並大抵ではなかった。下手に燻った火を消すことが難しいように、
彼の昂揚した躰もまた宥めるのに苦労が要るのだ。
彼は濁った曇天を見上げ、もう一つ、舌打ちをした。鼻先に小さな水滴が落ちる。雨が降り
始めたらしい。
雨は嫌いだ。しかしこの世界では日を空けず雨が降るときているから、皮肉としか思えない。
雨か、曇天か。青空など、数える程も見たことがなかった。
世界が三つの大陸を残して海に没したのは、今からおよそ百年前のこと。それまで繁栄に繁栄を
重ね、増え続けた人口は、大地の六割が沈没するに到った半世紀のうちに、三分の一以下に
減ったという。現在はそこから、倍とは言わぬが数を持ち直したとはいえ、人々は狭い生活範囲の
中で細々と生き長らえることを強要されている。
かつては百以上もの国が存在していた世界が、一つに統一され世界政府なるものが成立したのは、
大地が海に沈むより以前、現在から換算しておよそ百五十年前だ。つまりその当時から、世界は
徐々に海に浸蝕され始めていたということになる。
海は何も、自ら肥大を図ったわけではない。陸地と海との比率は元より海に偏っていたが、
それがいっそう偏る根本の原因を作ったのは人間に他ならなかった。
技術の飛躍的な向上による新技術の開発、そして人口の爆発的な増加――――何か一つを原因に
挙げるとすれば、人間といういきものの存在そのものがそれに当たるだろう。
温暖化はとどまることを知らず、南北の果てを覆う氷が解け、海は肥大し人々を脅かした。
小さな島は次々に姿を消し、そこに住む人間は皆先を争ってより大きな島への避難を試みた。
大変な混乱だったと、当時の記録にはそう記されている。歴史を紐解く趣味のある者は、文字を
繰っては人間の愚かさを罵り嘆いた。が、過ぎてしまった時間は取り戻せるわけもなく、
こぼれた水は返らない。過去の人間がしたことの批判など、したところで現在の何が変わる
わけでもないのだ。
すべては後の祭り。後悔とは、先んじて出来るものではない。
彼には、歴史を繰るなどという瀟洒な(と彼は思う)趣味は持ち合わせていない。いわゆる
歴史研究家とは、それを生業に出来る程恵まれた環境に生まれ育った人間であり、彼とは
そもそも人種が違う。この世の中を生きる人間の大半は、毎日の糧にすら事欠いているのだ。
一度に大枚を稼ぐ手立てのある彼は、まだましと言えるかもしれない。
荒廃と繁栄とが合わさったような、倒錯に満ちた街に彼は生まれた。親の顔は知っているが
(子を産み捨てることの多い現代では、これすら幸福なことだ)、今彼に肉親と呼べる者は
いない。父は彼が幼い頃に行方を眩まし、母は三年前に死んだ。独り残された彼は、それから
泥の中を這いずるようにして生きねばならなかった。
幸いであったのは、彼がけっして自殺志願者たる精神を持ち合わせなかったことと、現在の生業に
就く為の素質を大いに有していたことだった。加えるならば、その生業が公でこそないけれども、
この社会において必要な一機関であったことも、彼にとっては幸いと言えた。己の信念を貫き、
かつ自由に稼ぐ手立てなどめったにはない。
貧困街の入口に、その酒場はある。安い酒を気前良く提供してくれる酒場はいくつもあるが
(それだけ、人々の心は疲弊し廃れている)、この酒場は少しばかり毛色が違う。と言って、
裕福な人間が通う瀟洒なバーでは断じてない。そこは、表裏一体の社会を象徴する輩の溜まり場の
ような場所なのだ。
類は友を呼ぶと言うが、その酒場はまさにそれである。愛想のない主人は元が荒事師と呼ばれる
生業にあった者で、三十をいくつか超えたときにきっぱり足を洗い酒場を始めたという。元が元で
あるからか、客は当初から荒事師が多く、今となっては一般人などまったく見掛けなくなって
いる。
つまりその一種異様な酒場に通う人間は荒事師かそれに準ずる生業の者であり、彼もまた、
例外ではないということだ。
「よぅ、景気はどうだい?」
お決まりの文句を飽きもせず口にし、隣に腰を下ろした男へ彼はちろりと意識だけ向けた。
「親爺、いつものな」
カウンター席には彼とその男以外いない。五つ程しかないカウンター席と、他はテーブル席が
六つ。客の大半は仲間内でテーブル席に陣取っており、カウンターでグラスを傾けているのは
彼ひとりだ。
「悪かねぇが、良くもねぇ」
ぼそっと不機嫌そうにぼやいた彼に、男は器用に片方の眉を吊り上げた。
「何だ、やけにご機嫌ななめじゃねぇか」
無愛想な主人がやはり言葉もなく注いだ酒で喉を湿らせ、男はきれいに剃髪された頭をぺたりと
撫でた。耳の後ろから側頭部にかけて彫り込まれた刺青の、鮮やかな紅色が毒々しく見える。
蛇足だが、男は腕にも刺青を入れている。背中もだ、と笑って聞かされたことはまだ忘れていない。
彼はじとりと男を睨んだ。
「てめぇの所為で、前回の仕事はとんだ期待外れだったからな」
舌打ちすれば、男は全く身に覚えがないとばかりに首を傾げる。
「あぁ? そうだったんか?」
「白々しいんだよ、おっさん。次はもうちょっと裏取ってから回せよ」
唇を尖らせる彼へ、男は軽く笑って見せた。(けして彼を侮った類の笑いではない。どちらかと
いえば、腕白盛りの息子のわがままに苦笑するような笑みだろうか。)
「ありゃあ、なぁ、トニー? 俺が裏取る前に、お前さんが逸って突っ走っちまうからだろが」
困ったふうでもなく、男が言う。青年――――トニーはちぇっと舌を打った。忌々しげに、
ではない。しかしトニーは自身が子どもが拗ねたような表情をしているとは自覚しておらず、
それ故男が目を細めた理由も判らなかった。
男は肩を竦め、にやりとする。何か企むような顔をした男を、トニーは上目遣いで見やった。
その顔はよせ、と男がよく判らぬことを言う。
「次はお前のお待ち兼ねだぜ」
「またガセじゃねぇだろうな?」
疑わしげに鼻の頭に皺を寄せたダンテの目の前で、男は人差し指を左右に振って見せた。
「そう言うだろうと思って、下調べは済ませてあんだよ。今度は間違いねぇ」
「期待損ってこたねぇんだな?」
「俺を信じろ、久々の人形狩りだ。愉しんで来いや」
トニーは己の双眸がぎらつくのが判った。人形とはDoLLのことで、トニーはこれを狩ることを
本業としている。しかしDoLLはそもそもの個体数が多くない為、その合間の稼ぎとして便利屋など
という仕事を副業にしている。
便利屋は荒事師とは一線を画す、というのがトニーの論だ。一般人から見れば二つの違いは
判らぬだろうし、荒事師の中にはダンテを嘲り侮る者も多い。しかしトニーは他者の理解など
求めてはおらず、いかに侮蔑されようと意にも留めない。そのあたり、トニーはまったく図太い
性格をしているのだ。
「場所は後から端末に送ってやる。あァ、それから。今回のはちっと手強いそうでな、報酬は
いつもの倍だとよ」
人形狩りの報酬は、およそ一律で値が決まっている。その倍となれば、一般人が十年以上も
かかってようよう稼ぐ程に相当する。DoLLは人間が造った、まったくの人型をした
人形であり、その能力(身体、精神双方)は人間のそれを
はるかに上回る。それが人間を襲うのだ。ほとんどの人間は、抵抗空しく命を狩り取られる
しかない。故にその報酬は破格も破格となっているのだ。
人形による被害は他の犯罪に比べれば格段に少なく、警察が本腰を入れて人形狩りに乗り出した
ことはなかった。彼らが動くのは、富裕層に被害が広まったときのみだ。今のところ、人形に
よる被害は貧困層に集中している。であるからこそ、トニーのような生業の人間に駆除の話が
舞い込むのである。付け加えれば、人形と渡り合える荒事師はごく限られている。
荒事師や便利屋といった生業は、一度に手に入る報酬にかなりのばらつきがあり、その上下は
リスクの高低に比例する。つまりハイリスクハイリターンというやつで、リスクの高い仕事を
こなせばそれに見合うだけ大金が手に入るわけだが、その為に命を賭けることが出来るか否かが
問題となる。
荒事師などになろうという人間の大半は、社会から爪弾にされたいわゆる社会不適合者だ。
行く場を無くして野たれ死にをするか、命を張った賭けに乗るか。後者を選ぶ者は後を絶たず、
しかしその八割は名が売れる前に死んでいく。たいていは家族のない天涯孤独な人間であるから、
誰も供養などしようとはしない。墓もない。それが嫌ならば腕を磨き生き延びるしかないのだ。
トニーのように――――
とはいえ、トニーは母を亡くし自棄になってこの生業に走ったわけではなく、その点からも、
彼と他の荒事師らとは別な存在なのである。
彼には目的がある。目的を達成する為ならば、どんな危険も顧みることはしない。
報酬が倍と聞いても、トニーの意気が上がるかと言えばそうではない。だからこそ、男も報酬の
話を取って付けたように付け加えたのだ。
「ふぅん」
と、いつものように報酬額などには興味も示さないトニーに、男はやれやれと肩を竦める。
「ったく、他の奴等なら目の色変えるっつうのに……」
しょうがねぇ坊やだ、と。苦笑混じりに口の中で呟かれた言葉は、彼の耳には届かない。
「メール、今くれたって良いんだぜ」
などとせっつくトニーに、男はまた苦笑した。そして再び何かに気付いたように、あ、と声を
上げる。
「あいつとは連絡がつくんだろうな? 今日はいねぇみたいだが」
トニーは頷き、グラスに残る中身を一気に飲み干した。唇を湿らせておいて、おどけるように
片目を瞑って見せる。顔立ちが整っているだけに、その仕種も表情も実に絵になる。しかし実際の
ところ、トニーは何故か女に振られることのほうが多いのだから奇妙だった。
「ご心配には及びません、ってな」
「相変わらず、人形狩りはあいつと一緒じゃねぇと駄目なのか?」
息子がたちの良くない友人との交遊を厭う父親のような表情、とはトニーは思わなかったけれど、
ゆるく笑みを湛えてうなじを掻いた。
「駄目ってわけじゃねぇけど……まぁ、そんなとこかな」
それ以上に語る言葉をトニーは持ってはいない。愚図愚図理由をごねるなど彼の好みでは
ないし、件の人物についてはただ、必要だ、という一言に尽きるからだ。
「そうかい。ま、よろしく言っといてくれや」
諦めたかのように、男が言う。度数の高い酒を一口含み、嚥下した。何か言いたい言葉もともに
飲み込んだようだったが、トニーはそれを追求したりはしない。この、長く情報屋をしていると
いう男が、どうも根がお節介焼きであるらしいことは気付いている。だから、程々の付き合い
だけで収めておかねばと思うのだ。
人と付き合うことを、厭うわけではないのだけれども。
「飲むのは良いけどな、飲まれて管巻くんじゃねぇぞ、エンツォ」
「俺がいつ管巻いたってんだよ、ん?」
この、聡い情報屋との距離は常に計っておかねばならないと、トニーは無意識に思っている。
またしても勢いで初めてしまいましたが…。
続けてもいいものなのか…;
[08/07/05]