熱病ネツビョウ・後











雨が降って来た。首を捻って窓の外を見ることは出来ないが、音だけは耳に届く。

バスタブで気を失ったダンテは、現在は意識も戻りリビングのソファーに座っている。 座らされている、というのが正しいだろう。気付いたときにはすでにこの位置だった。
風呂に入れられた際もそうだったように、やはり躰は尋常ではなく固まったまま動かない。 自分の意思では動かせないのだが、他からの力が加われば腕も脚も難なく曲がる。意識も目も 耳もはっきりしているというのに、口は利けないし躰は動かないではどうしようもなかった。

何故、こんなことになっているのか。

ダンテに判るわけもない。飲み過ぎて、足許が覚束なくなったところで悪魔と一戦やらかした。 その後バージルがやってきて……どこに“こう”なる原因があったのだろう。酒が過ぎて躰が 動かなくなるなど、聞いたことがない。

キッチンにいたバージルが、グラスに水を満たしてこちらに来た。辛うじて眼球だけは動くので、 リビングの中は一応見渡せる。と言っても、自分の前面に限られるのだけれども。
じっとバージルの手許を見つめる。喉が渇いているのかどうかはよく判らないが、飲みたいと いう気はする。それに気付いたのか、バージルがグラスをダンテにかざして見せた。

「飲みたいか?」

ダンテが声を出せないことを、バージルは気付いているのだろうか。瞬きを一つ、肯首に 代える。

「そうか」

淡々とした声。バージルがグラスをダンテの唇にあて、傾ける。唇すら上手く動かせないと いうのに、これで飲むなど絶対に無理だ。案の定、ぼたぼたと水がこぼれ、盛大に シャツを濡らした。バージルが眉をしかめる。

「こぼすな」

無茶を言うな、と文句を言うことも出来ない。反論もしない――――出来ない――――ダンテに、 バージルはいっそう眉間の皺を深くする。俺の所為じゃない、と訴えることはダンテには出来ず、 苛立ったバージルが次に何をするのか、見ていることしか出来ないのがもどかしい。

ふん、とバージルが鼻を鳴らした。バージルはグラスをダンテから離し、くいと自分が水を口に 含む。ダンテの顎に指を添えて上向かせ、唇を重ねてきた。重なったそこから水が流し込まれて、 ダンテは苦しいながら嚥下するしかない。
ごく、と喉が上下し、バージルが離れる。ダンテの口端に一筋垂れた水滴を親指の腹で拭って、 バージルが問う。

「まだ、要るか?」

触れるな、と言ったのはバージルだった。しかしバージルから触れるぶんには、全く問題に ならないらしい。風呂に入れられたときもそうだったが、この兄は何故こうも身勝手なのだろう。 そしてダンテは、こんな兄を享受している自身を笑いたくなる。

ダンテは目を左右に振り、いらない、と示した。バージルがグラスをテーブルに置き、ダンテの 隣に腰掛ける――――のかと思いきや、そうではなかった。バージルは冷ややかにダンテを 見下ろし、片眉を上げた。それだけで、何を言うわけでもないのだから、不気味だ。
先刻、ダンテがバスタブに浸かったまま意識を失った後、バージルはダンテに人工呼吸を施した らしい。その際、ダンテはほとんど記憶していないが、ふっと意識が戻ったときにバージルの顔を 間近に見たことは覚えている。しかし目を開けたダンテを見て、バージルがほっと息を吐いたこと まではダンテは知らない。

バージルに“落とされた”のは一度や二度ではない。その度に放っておかれるか蘇生されるか するのだが、慣れるものではなければ慣れたいものでもない。やめろといつも言うのだけれど、 聞くような相手ではないことも確かだ。

バージルはおもむろに、ダンテの不可抗力によって濡れたシャツを脱がしにかかった。そのまま 放っておくのはバージルの性格が許さないのだろう。開襟シャツは脱がしやすくて良いからか、 あえてバージルのシャツを着せられていることにダンテは今になって気が付いた。
濡れたシャツを剥がして床に放り――――この辺りは何故か雑だ――――、バージルが指の背で ダンテの鎖骨の辺りをなぞった。意図した愛撫では当然ないが、ダンテは我知らずぞくりと 躰を震わせてしまう。自由意思で動く躰ではないのだから、まさしく制御不能な状態だ。

バージルはダンテに触れた指を見、次いでダンテを見やって口端を上げた。

「感じた、か? 触れただけで」

くつりと笑われ、ダンテは頬が熱くなるのを感じた。実際に顔は赤い筈だ。バージルが妙に 楽しそうにしているのが嫌だが、機嫌をそこねるのとどちらがましかと言えば……五十歩百歩かも しれない。
バージルはダンテのシャツを剥ぐだけ剥いで、新しいものを着せるわけでもなく、向かい側の ソファーに座った。何がしたいのか、長い脚を見せつけるように組み、こちらをじっと見つめる だけだ。

(何だよ……)

ひどくいたたまれない。しかしダンテは身動ぎ一つ取れず、声も紡げないのだ。バージルはそれを 判っていて、こんな見世物のように眺めているのだろうか。もしそうならたちが悪すぎる。

どれ程の時間が経ったか。雨の音は先刻よりも強くなり始めた。ふと、バージルが立ち上がる。 ようやくバージルの視線が逸れ、ダンテは息を吐いた。バージルの眼は嫌いではないが、多少 鋭すぎる感があって困る。
席を立ったバージルはダンテのそばに近寄り、腰を屈めてダンテの腕を取った。かと思うと 突然。

「ッ!?」

腕をぐいと引かれ、気付いたときにはバージルの肩の上。軽々担がれている状況にダンテは 唖然とした。バージルにこうやって担がれるのも、今が初めてというわけではない。しかしいつも いつも前触れなしに担ぎ上げられては、ダンテとて驚かずにはおれぬというものだ。

担いだからには、バージルは別の部屋に移動するつもりなのだろう。意図など判るわけもなく、 どちらにしろダンテはなすがままだ。

リビングを出、バージルが向かったのは二階だった。全く同じ体格の人間を担いで平然と階段を 上るバージルに、ダンテはそんな場合ではないがさすがと思ってしまう。
膂力ではダンテよりもバージルの方が勝る。膂力ばかりでなく、その他の能力にしてもたいてい、 バージルはダンテを凌ぐのだ。

カチャ、と軽い音をさせてバージルが開けたのは、バージルの自室のドア。ものの少ない部屋は 整然よりも閑散として、いっそ殺風景だ。あるのはデスクにベッド、クロゼットとあとは本を 納める為の書棚だけで、ダンテの部屋のように衣類が床を覆っているということもない。
その殺風景なバージルの部屋の、それだけを切り抜けばダンテの部屋と同じであるベッドに、 ダンテは下ろされた。ちょんとベッドの端に座る形にされ、やはりなすがまま、座っている しかない。

風呂に入って眠気は覚めた。違う意味で眠りそうにはなったが、それはそれだ。時刻も時刻で あろうし、ベッドにいると思うとなりを潜めていた睡魔が顔を出す。ベッドに横になることは 出来ないのだが、動けないということはこのまま眠ってしまっても床側に倒れることはないのでは ないか。

(眠い……)

起きていても寝ていても、動けぬ話せぬでは代わり映えしないだろう。ならば眠ってしまった とて、バージルの機嫌にはさほど影響しない筈だ。むしろこうして意識だけがはっきりしている 状態では、バージルの無言の圧迫が膚に突き刺さるようでつらい。それならばいっそ、眠ったほうが 良いに決まっている。
結論付けて、ダンテはバージルの視線を感じながらも睡魔に我が身を委ねるべく瞼を閉じた。





ダンテが眠ったらしい。随分酔っていたようだが、その所為もあったのだろう。ベッドに 腰掛けた姿勢で微動だにせず眠るさまは異様で、ちょっと目を閉じているだけにしか見えない。 しかし無音の部屋に響く寝息は深く、ダンテがすっかり眠りこんでいることが窺える。
時刻は、すっかり日付の変わった午前三時。毎日昼にならなければ起きないダンテは、今 この時刻から寝ても充分寝すぎと言える。バージルの睡眠時間を標準にするなら、誰も彼もが 寝過ぎになってしまうのだが。

眠るダンテを、バージルは横抱きの要領で膝に抱え上げた。無、と表現出来るダンテの寝顔は 静かで、ダンテにはそぐわないように見える。

(たまには、良い)

いつもが煩すぎるのだ。口を開けば喧しく、何をしていても落ち着きがない。だから時折、 一切の身動きを奪ってやりたいと思うのは当然だ。――――バージルはそう思っている。

膝の上のダンテはアンティーク・ドールのように膚が白く、そして慎ましい。
バージルはダンテを持ち上げてベッドに上がり、枕許に腰を下ろした。横になっても良いが、 どうせならいかにも人形らしく膝に抱いていたい。

妙に拘るバージルの右手――――サイドボードの上に、掌に納まる程度の小さな薬瓶が一つ、 鎮座している。中身は半分程。硝子の蓋はきっちり閉められており、使った形跡は――――判然と しない。



















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なんとか異常事態を回避した気がしないでもないです。
こうゆう終わり方を狙ってたわけでもないんだけどなぁ…。