熱病・前
つん、と髪を引く。強くはないが皮膚の引かれる感覚は存外に気になるもので、ダンテは
ふっと目を覚ました。
飲み過ぎた。酒は弱くもなく、豪語出来る程強くもないダンテがうなだれる程度に、今日は
確かに飲み過ぎだった。
普段は楽しめる程度にしか飲まない酒を、今日は何故か調子に乗って何杯も空けた。いくら
飲んでも顔色にあまり変化の出ない体質であるだけに、周りはダンテが杯を空けるたびに
どんどん飲めと注いでくるのだ。むろん、ダンテが全く飲めないたちであっても彼らは同じように
するのだろう。
ある意味地獄だ。
そしてダンテは地獄にはまり、ようやく抜け出した頃にはすっかり足許がおぼつかない状態に
陥っていたというわけだ。
はぁ、とため息だか何だか判らぬ息を吐き出し、ダンテは帰路をとぼとぼと歩く。
時折勘違いをした輩がダンテを物陰に連れ込もうと手を引くが、ダンテはそのことごとくを
殴り倒した。これ程酔っていなければ、殴ることはせず軽くいなす程度に躱しただろう。しかし
今のダンテにはいかんせん余裕というものがない。そうでなくとも、自宅まで保つかどうかすら
怪しいのだ。
足を止めればもう動けなくなる。それが判っているからこそ、ダンテは黙々と帰路を行く。
(まず、い、なぁ)
口の中で呟く言葉すら呂律が怪しい。ぼんやりとぼやけた視界はこれでもかとばかりに歪み、
ダンテは気持ち悪さを押し殺してひたすらに歩いた。今日に限って通い慣れた酒場ではなかった
ことが、今更ながら恨めしい。いつもの酒場は自宅からさほど遠くなく、酒場を切り盛りしている
親爺とも気心が知れているだけに融通も利く。双子の兄はダンテの帰りが遅かろうが心配など
するたちではないが、それでもダンテの気持ちとしては楽なのだ。
(バージ、ルど、してるか、な)
どうも何も、いつものように本を読み耽っているのだろう。それ以外に時間を過ごしている
姿など、料理をこしらえているくらいしかダンテは思い付かない。しかし単純なようで、バージルが
実際には何を考えているのか、ダンテは全く想像することすら出来ない。未知。まさにそうだ。
(…………)
早く帰ろう。ダンテはふらふらとコンクリートの壁を伝いつつ歩きながら、衝動的に思った。
早く。帰って、そうしてもう寝ているかもしれないバージルに甘えたい。
対等でありたいとは思いながら、ダンテは何年経っても甘え癖が抜けない。癖というよりは
習慣かもしれないが、ともかくダンテはバージルに甘え、そして甘やかされるのが好きだ。
バージルは絵に描いたような厳格な性格をしているし、何かにつけてダンテを叱るが、
その反面ダンテを甘やかす時はとことん甘くなる。もっとも他者から見ればほとんど代わり映えは
ないように見えるかもしれないが、生まれた時からバージルとともに育ったダンテには判る。
だから、嬉しくもなるというもの。
早く、と急く気持ちを嘲笑うかのように、脚が萎えようとしているのが判る。たかだか飲み
過ぎた程度でこれは、少々不審だ。だが薬の類は効きにくい体質であるし、酒場で何かを
盛った人間がいたとしても、よほどでなければダンテをどうこう出来るものではない。
ダンテはため息を吐き、つい、足を止めてしまった。疲れたとか、そういうことではない。
よりにもよって、見つけてしまったからだ。路地の闇に紛れて人を襲おうとする悪魔の影を。
舌打ちして、ダンテは銃を引き抜いた――――剣は事務所に置いてきている。鎌を振り上げる
悪魔の肩に一発撃ち込み、悪魔が怯んだところへ頭へもう一発。
「逃げろっ、――――」
ダンテは腰を抜かしている男の襟首を掴んで立ち上がらせ、尻を蹴って追い立てた。
ぐずぐずしている暇はない。この類の悪魔は群れて人を襲う。一体一体の力こそ弱く、群れた
ところでダンテの敵ではないのだが、今は状況が悪かった。人を守りながら戦うには、ダンテは
あまりにも不調にすぎる。
悪魔はダンテを獲物と据えたらしい。じたばたと手足を動かしながら逃げていく男を追う悪魔が
一体いたが、それはダンテが銃弾一つで除いた。
「さぁて、初めようか?」
おどけて肩を竦めるダンテだが、口先程に余裕はない。それでも悪魔を狩ることはダンテの
テンションを否が応にも昂ぶらせる。銃と体術を駆使しつつ、ダンテは吐き気と戦いながら亡者に
似た悪魔を次々に狩っていく。すでに限界など超えているのだが、本能がダンテに引き金を
引かせた。
「簡単すぎて、詰まらねぇな」
最後の一体に鉛玉を撃ち込み、ダンテはすぐそばの壁に凭れかかった。腕をつくだけでは、
体重を支え切れそうにもない。
気持ち悪いだけだった筈が、中途半端に悪魔を狩った所為で内から何かが滾るように込み上げて
くる。ひどい熱に、もはや動けそうもなくダンテはずるずると地面にへたりこんだ。酔いが
回ったのとは違う。血が騒ぐようなあの感覚とも違う。ただ、熱い。
どれくらいそうして座り込んでいたのか、ダンテには判らない。こつ、こつ。よく響く静かな
足音に、ダンテははっとして顔を上げた。
闇に浮かぶ青みを帯びた銀髪、真っ青なコート。バージルだ。ダンテは熱に浮かされた頭で
それだけを認識した。
「……ぁ、ジ……」
舌が絡むのがもどかしい。ダンテが立ち上がることも出来ずにいると、バージルは変わらぬ
無表情でダンテを見下ろし、二の腕を掴んで無造作に引き上げた。バージルはさして力をこめた
ふうもないのだが、ダンテを軽々と立たせてしまう。触れられたそこからじわりと染みる
バージルの低い体温。ダンテは壁に背中を押しつけた。
「バぁジ、ル、」
少し肉厚の唇からもれた自身の声が濡れていることに、ダンテは気付かない。酒と熱に潤んだ
瞳には明らかな情慾。ダンテを壁に押さえ込む形になっているバージルが、ダンテの様子に
気付かぬ筈もなく。侮蔑に似た色を宿した双眸がダンテを射抜いた。
「帰るぞ」
冷たい声。ダンテは離れようとするバージルを引き止めようとして、しかし出来なかった。
バージルがダンテの頬を指の背で張ったのだ。
「――――触るな」
汚いものを見るような、眼が。ダンテはぞくりと全身を竦ませ、踵を返したバージルの非情な
背中を見つめた。離れていく背と靴音に、慌ててあとを追いかける。
待って。ずっと追って来た背中は、こんな時ですら遠い。
待ってくれよ、バージル。声は届かず、ダンテはどうしてもバージルに追いつけない。
「まって……待ってよ……」
バージルにとっては自分なんてどうでも良いのかもしれないけれど、でも、ダンテには
バージルを追うことしか出来なくて。甘やかしてくれる優しさが嘘のような――――この差が、
ダンテの精神を揺さぶってならない。
「バージルっ……」
熱に掠れた声はほとんど音になってはおらず。ダンテはほろほろとまろぶようにバージルを
追い。そして事務所と自宅を兼ねている建物が見えた時、不意にバージルが足を止め、ダンテを
振り返った。黙れと言われたにも関わらず、ずっとバージルの名を呼ばわっていたことに
気付く。
バージルの双眸はやはり冷たく、それと同じかいっそう冷たい指で首に巻いているスカーフを
引き抜いた。ひらりと長い指を舞わせ、一度、二度とスカーフの真ん中に結び目を作る。
ぼんやりと眺めていたダンテに、バージルが結び目の出来たスカーフをすいと近付けた。
柔らかなスカーフが口や頬を覆う。丁度結び目が口に嵌まる形になり、息苦しい。バージルは
ダンテの後頭部でスカーフを結び、また離れていく。
「喚くな。次は容赦はせん」
これは容赦とやらをしてくれた、らしい。思考の足りぬダンテはスカーフをちょっと噛み、
うん、と緩く頷いた。
思った以上に話が長くなりそうなので、いったん切りました。