塔――――X
半魔、という存在が悪魔としての力を覚醒させる為に必要な手段が何であるか、知るものは
誰一人いない。それは当然のことで、そもそも悪魔の血を引く人間、という特殊な個体がほとんど
存在しないからだ。
ひどく甘美な高揚だとダンテは思った。いや、実際にはその感覚をじっくり味わう余裕はなく、
怒りという他の感情を消し去るそれに心を支配されていたのだ。
大量の血を流した所為か、しばしの間気を失っていたらしい。目覚めたときには最早、兄の姿は
塔の頂上のどこにもなかった。
飛び降りるところは、失神する寸前に見届けており、すぐにダンテも塔からその身を投じた。
一度目の接触では兄を、止めることは出来なかった。ならば、次だ。
おそろしく高い塔からの跳躍。ダンテに恐れはない。躊躇いも、また。
紅い鳥のような恰好のガーゴイルが、無数に群れてこちらを狙っている。ダンテの頬には笑み。
知らぬうちに躰を魔力が駆け巡っており、満ち満ちているのが己でも判る。
魔力――――耳慣れぬ言葉がすんなりと脳裏に浮かぶ程度に、今にダンテは人から悪魔に
近しいものになっているようだった。それが喜ばしいことであるのかどうか、ダンテには判断の
仕様がない。ただ、母がこれを知ったならどう思うだろうかと、空を漂う巨大な魚(竜?)の
あぎとに飲み込まれながら、ぼんやりと思った。
儚げな微笑。優しい声音。
母を思い出すとき、ダンテはいつも幼い子どもだった。
生臭い。魚臭い、とでも言うべきか。
シャワーを浴びたいところではあるが、ダンテは先を急いでいるのだ。せめてどこかに水が
あれば、などとおどけるように思うだけで我慢しておく。
実際、夕刻(昨日のことだったのか、今日のことなのか、時間の感覚がまるでない)に塔が
現れてからというもの、ろくなことがなかったとしみじみ思う。でなければ、どうして今、
こんな色気の欠片もないところで、いきものか何かも判らない物質に背後から襲われなくては
ならないのか。あぁ、頭がぼうっとする。
それは気配もなくダンテの四肢を絡め取り、あっという間もなくダンテを宙に吊り上げて
しまったのだ。どうにか自由になる首を廻らせ、見えたものは紫色の靄のような何か。
それが背後から羽交い絞めをすつようにダンテを戒め、吊り上げているのだと判りはしたが、
問題はどのようにしてこの状況を打破するかであった。
靄のくせをして、ダンテが懇親の力を振り絞ってもその戒めを解くことが出来ないのだ。
およそ尋常な力ではない。どういった種の悪魔なのか。たちが悪いことだけは確かだ。
「っそ……!」
藻掻きつつ、どうにかして剣の柄を掴もうとするが、そう感嘆にはゆかず。焦りばかりが募る
ダンテの思考は、既に霞みつつあった。
腕から、全身から力が抜けていく。何故か、回らぬ頭では、すぐにも判りそうなことですら
容易に解答を導き出してはくれない。ただ、息があがる。どうにかせねば。しかし、どうやって。
反芻するダンテを嘲笑うように、それは違う行動を取り始めた。
戒めるだけであったそれの手足(触手?)が、ダンテの躰の上を這い始めたのだ。
何をするつもりなのか、ダンテは判らず狼狽した。
「ぁ、う……やめろ……っ」
背後から、気色の悪い金切り声のようなものがする。それが確かに声であることに、ダンテは
気付く余裕もなく。躰を這うものが明らかに性的な意図を持っていると察して、ダンテは
蒼白になった。こんなところで、こんなわけの判らぬものに犯されるなど、誰も望みはしない。
いかに鉄の肝を持ち合わせていると噂されるダンテであろうと、その例外ではないのだ。
しかしそれの取る行動をダンテに止める手立てはない。
袋小路に追い詰められたねずみの気分だ。まことに以て本意ではないが。
それが茶の革パンツの中に、ずりりと無理矢理入り込んで来る。やけに動きが鈍いのは、それが
思いの外太さのあるものだからだろう。
甚だ、気持ちが悪い。間違っても快い感触だとは思うまい。下肢がねっとりと濡れていく。
無論ダンテの中心が滲ませた体液などではない。下着をも掻い潜って侵入を果たしたそれが、
何かしらの粘液を纏っているのだ。気持ちが悪くて当たり前だ。
嫌だ、やめろ、と唇だけで叫ぶ。既に声すら、かすれた吐息のようなものしか出せなくなっている。
喉がからからに渇いて、ひりつくのがまた気持ち悪い。
「ッ……は……ぃ……やだ……」
首をゆるく左右に振る、ただそれだけで酷い眩暈に見舞われ、吐き気がした。ぐったりと全身を
背後のものに任せてしまいたいという、有り得ぬ欲求に駆られそうになるのを、どうにか抑えて
拳を硬く握り締める。それも、さして力は込められていないのかもしれなかった。
下肢に絡んだそれが、ダンテの秘蕾を探り当て窄まったそこを小突くようにする。激しい嫌悪感に、
ダンテの喉から短い悲鳴が上がった。
「ひっ……や、め……ぁ……!」
何故、こんなところで。こんなものに。瞑った瞼の裏がちかちかする。嫌だ。嫌だ。
けれど、どうしようもない。
熱を持たぬそれが、ず、っとダンテの肉に押し入った。ダンテは目を見開く。
「あぁッ――!」
背中ががくがくと震える。それは人間の陰茎とは違い、一個の生物のように内部で蠢いている。
今し方の眩暈とは桁の違う吐き気が、喉の底からせり上がってきて、ダンテはただ呻くしかない。
それが気味悪く蠢くたびに、視界が狭く、暗くなっていくようだった。が、それも当然かも
しれない、とダンテは思った。
人間は己によほど悪いことが起こったとき、精神がその負荷に耐え切れず半強制的に意識を
飛ばしてしまうことがある。おそらくこれもそれと同じようなものに違いないと、ダンテは
朦朧とした思考で結論付けたわけであるが、事実は全く異なっていた。
ダンテが狭い視野の中で視認した紫の靄――――これは実態のない霧状の悪魔である。
獲物の背後から音もなく近付き、捕獲する瞬間に実体化を果たす。そして捕らえた獲物の
生気を、四肢のような触手で持って吸い取り糧とするのだ。
たちが悪い、といえば確かにそうだ。
実体化した悪魔は、己が捕獲した獲物の生気を貪ることに没頭していた。いつもは塔に迷い込んだ
小動物の生気を食らっていたその悪魔だが、今日捕まえた獲物の生気は、それらとは比べ物に
ならぬ程に美味であり、しかもとてつもなく濃い。この獲物を逃しては、次にいつこれと同じ
甘美を味わえるか判らない。だから、無我夢中で食らった。貪った。
邪魔をするものはない。その油断が、この悪魔の最期の思考であった。
「ぅあっ……!」
体内を気儘に犯していた塊がびくんとうねり、ダンテは背をしならせた。同時に、ひどく
耳障りな金属の擦れ合うような音が鼓膜を揺るがす。それが断末魔であったことを認識する間も
なく、宙に浮かんでいた躰がぐらりと傾き、床へ――――叩きつけられることはなかった。
何かが、ダンテが床に衝突する寸前にその躰を受け止めたのだ。
床よりはましな、しかし固い何か。それが腕であると認識したダンテが、朦朧としていた頭を
振りつつ目を開けると、そこには自分以外の何ものの姿もなく。
「、あ、え……?」
意味のない喘ぎのような声が喉をつく。どこを見回してみても、やはりダンテ以外には誰の影
すらもなかった。では、今自分を抱き留めてくれた腕は誰のものだったのか。考え込むけれど、
答えが出る筈もない。ダンテはしばらく座り込んだまま、じっと四肢の痺れが取れるのを待った。
乱れてしまった革パンツとコートを直し、やはり思いを廻らせることといえば、先程の腕だ。
あの妙なものも、もはやどこにもいない。今し方の腕の持ち主が殺したのかもしれない。
そういえば、気味の悪い絶叫を聞いた記憶がうっすらとある。
ならばダンテは、自分を助けてくれたのだろう何か(誰か)に礼を言わねばならぬようだ。が、
その対象となるべきものはこの場にはおらず、ダンテは顔すら見ていないときている。礼など、
言いようがないのは誰の目にも明らかだった。
(気持ち悪ぃな……)
嫌なものに体内を犯されたことが、ではなく。礼を言うべき相手が誰であるかも判らぬことが。
しかし名も告げず消えるくらいだ、礼など、端から求めてはいないに違いなかった。
ようよう通常に戻りつつある躰を、ダンテはよっと掛け声を上げて起こした。まだ気分は優れない
が、それは躰の不調が及ぼすものばかりではないことは、ダンテ自身が最もよく判っている。
「……急がねぇと、な」
誰にともなく呟き、胸の辺りを押さえる。それは完全に無意識の行動であり、拳をあてがった
そこには、掻き毟ったような爪の痕が生々しく残っていた。もちろんそれは、今ついた傷では
ないけれども。
急がねば。兄には躊躇いというものがないのだ。自分が止めねば、本当に取り返しのつかない
ことになる。
間違っても、英雄を気取るつもりはダンテにはない。
ただ己の信念のために兄と対峙する。何度でも、剣を交える覚悟がダンテにはあった。
刺し違える気は、ないのだけれど。
先を急ぐダンテの背中で、意志ある双剣が何ごとか囁いたようたったが、
甲高く響くブーツの音にかき消され、ダンテの耳に届くことはなかった。