象牙
ずっと、夢を見ていたような気がする。
頭がぼうっとしていた。あまりにも寝過ぎた翌日などにはよくある、言ってしまえば贅沢な
頭痛もする。目が腫れぼったいように思うのは、やはり眠り過ぎが原因であるに違いない。
ダンテはまだ半覚醒の状態で、そう自身を診断した。
目の前にはバージルの顔がある。横顔だ。どうやらバージルの膝に横向きに座る恰好で、
見た目よりもはるかに分厚い胸板を枕に眠っていたようだ。この姿――十四、五歳の姿になって
から、バージルはよくダンテをこのように抱いてソファーに座る。が、今はどうも、リビングに
いるのではないらしい。
ふと、バージルの視線がこちらを向いた。ダンテのそれと、結び付くように絡む。
「ダンテ、」
兄の声はやけに久し振りのように響いて、ダンテはその意味が判らなかったものの、心がひどく
躍っていることは事実だった。バージルの自分の名を呼ばわるそれが、どこか驚いたような声で
あったことは、気にならない。バージル。心のまま、兄の名を呼んだ。不思議なことに、自分の
名を呼ばれることは久々と感じたダンテであるが、自分が呼ばわるぶんには全くそれを感じ
なかった。
「躰はどうもないか?」
寝過ぎたことを遠回しに揶揄されているのだと、ダンテは勝手に解釈して首を左右にした。
「頭はなんか、ぼうっとしてるけど」
頭痛もほとんど感じなくなっているので、それは省いた。問題ないものを取り立てて説明する
意味はないだろう。それよりも、バージルが何か、いつになく眉を顰めているのが気になった。
機嫌の悪さを示すものではない。だからこそ気になって仕様がないのだ。
「なぁ、バージル?」
呼ばわるのと、バージルによって抱きすくめられるのとはほぼ同時だった。ダンテは目を丸く
する。バージルの言動は、ときにひどく唐突で脈絡がない。今が良い例であった。
「バージル?」
多少の苦しさを感じるほどきつく抱き締められて、ダンテは兄の脇腹あたりのシャツをきゅっと
引っ張った。言葉にはせずとも訴えは伝わった筈である。が、バージルの腕は緩むことがない。
根底に独裁者じみた精神を持ち合わせているバージルのこと、ダンテの要求をすんなり飲んで
くれたことはほとんどない。であるだけに、ダンテは「またか」程度にしか思わなかった。
ダンテ、と。呼ばわる兄の声音には、いつもはない何かが含まれているようにダンテは感じた。
しかしそれが何であるか分析するには、ダンテの脳はいまだ覚醒しきってはおらず。深く考え
ないという結論を、ダンテは出した。バージルが何も言わぬのなら、ダンテから訊いたとて
無駄なことだ。
被支配者じみた思考を自然巡らせている自身に、ダンテは気付いていない。
「バージル、なぁ……喉渇いたんだけど」
離してほしいと暗に訴えれば、バージルは寸の間を置いてソファーから立ち上がった。ダンテを
横抱きにして。
先刻、バージルが電話で話していたのはエンツォだった。依頼の話で、蹴ろうとしていたところで
ダンテが目を覚まし、話は一旦保留となった。エンツォがそうしてくれと懇願し、バージルが
どうでも良いことのように諾と答えたのだ。
その後、リビングへ移動した。ダンテは目覚めてから一度も、床に足をつけていない。バージルの
腕の中からまだ、抜け出すことが叶っていないからだ。
バージルはダンテをひょいと抱え直し、左腕にダンテの尻を乗せる形で右手を自由にさせた。
普通ならば左腕が痺れそうなものだが、バージルは普通ではないから大丈夫かと、ダンテは
ずれた納得のしようをした。
冷蔵庫から取り出されたのは、よく冷えたトマトジュースの缶。寝覚めにこれかとダンテは
思ったが、不平は言わない。トマトジュースはダンテの好物の一つだ。
これで良いかと訊きもせず、バージルは缶のプルトップを開けた。(ダンテを片腕に抱えたままで、
なのだから、器用なことだ。)軽やかな音が耳に心地好い。喉の渇きが増した気がして、
早く飲みたくて缶へ手を伸ばした。ちょうだい、と。言わないがはっきり判る行動だ。しかし
バージルは、ダンテに缶を渡してはくれず。
「飲め」
傲慢に言って、缶の飲み口をダンテの唇へ運んだのだ。
「じ、自分で飲めるって」
いささか慌てて缶を持とうとすると、何故かバージルにそれを叱られてしまう。
「動くな。そのまま飲めるだろう」
何故、とは言う前に唇に缶を押し当てられる。そうなれば無理にでも飲むしかない。なんという
横暴かと、ダンテは眉をしかめながらも流れ込んでくるトマトジュースを喉に通した。
当たり前だが、飲みにくい。しかしバージルはお構いなしだ。喉を鳴らして飲まねばならぬ
ダンテのことなど、全く気遣ってはくれない。
まぁ、いかにもバージルらしいと言えば、それで終わってしまうのだけれども。
「ん、っ……」
一瞬でも気が逸れたのがいけなかったようだ。ダンテはバージルの手ごと缶を押し退け、
激しくむせ返った。バージルが不快そうに眉を顰めたことなど、見えていようはずがない。
「げほっ、ごほっ」
気管に少し入り込んだらしく、すぐには咳が治まらない。目には涙すら滲んで、苦しいこと
この上なかった。しかも、
「ッんん……!?」
咳が出てたまらないというのに、バージルが唇を重ねて来たのだ。噛み付くようなキスは、
しかしただのキスではなく。
「ん、ん゛っ……!」
トマトジュースだ。バージルが口に含んだものを、そのままこちらに流し込まれている。ダンテは
拒もうと腕を突っ張ったが、無駄だった。抵抗する前に嚥下してしまっているのだから、意味が
ない。
「くはっ……、にすんだよッ」
唇を解放され、ダンテは噛み付くように兄を睨んだ。バージルは当然(と言い切ってしまえるのが
妙に腹立たしいが)、平然としている。顔を赤くしたダンテに、しれっと言った。
「治まっただろう」
え、とダンテ。何がと一瞬考えて、はたと、自分が咳をしていないことに思い至った。あ、と
間の抜けた声が上がる。
バージルはダンテを横目で見つつ、缶に口をつけた。また同じことをされるのかと、無意識に
身構えたダンテを嗤うように、ごくりと含んだものを飲み込んだ。
「期待したか?」
などと、にやりとして意地の悪いことを言う兄の首に、ダンテはがばりと抱き付いた。尖らせ
かかった唇を、兄のそれに押し付ける。性的な意味合いなど考えてもいない、ただの接触。
腹癒せだ。しかしバージルは、そうとは納得しなかった。いや、ダンテの行動の意味など
気付いているに違いない。そこがバージルの性格の悪いところだ。
「んんっ」
唇を舌でつつかれる。口を開けという意味だ。ダンテは拒んだ。しかしそれも、ものの数秒しか
保たなかった。
バージルはダンテの唇を無理矢理こじあけ、自ら作り出した隙間から舌を侵入させた。
そこからは、もはや兄の独壇場だ。ダンテはただ、兄のなすがままに翻弄されるよりない。
「んぅ、っふ、ん……」
鼻に抜ける吐息は、我ながら甘くて嫌になる。バージルがそれを厭わずにいてくれることが救い
だった。ただし、ダンテがあまり乱れてしまえば話は別で、バージルは淫らに快楽を貪るダンテを
嫌悪すらしている。意識が溶けるほどの快楽をダンテに与えるのは、バージル本人に違いないと
いうのにだ。
くちゅくちゅという、舌と唾液の絡むいやらしい水音に、ダンテは耳を塞ぎたくなる。それは
理性が求める行動であり、本心は――もっと、何もかも奪うようなキスを求めている。
(へん、だ。なんか)
吐息をもらしながら、ダンテは薄く瞼を持ち上げた。ぼやけた視界にはバージルの白皙の美貌。
先刻、名を呼ばれたときに感じた奇妙な感覚を、ダンテはまた感じていた。バージルとのキスが、
やけに久し振りのもののように思えるのだ。そんなわけはないのだけれども、何故か――だから、
足りないと、思う。もっと、して欲しくてたまらない。おかしなこと、なのだけれども。
ダンテの考えていることが判るのか(そうかもしれない)、バージルはいつにも増して長く唇を
合わせてくる。絡む舌も、今日はやけに熱心なように思えて、ダンテは身の内が疼くのを
感じずにはおれなかった。
いつでも淡々とした言動の兄が、ダンテの肉を貫く以外の愛撫にこれだけ熱心になることは、
実はかなり珍しい。何が兄をこうさせているのか、判らないというのがどうにも歯痒いけれど、
知らなくても構わないとも、思う。
バージルがダンテの唇を吸うことに夢中になる。それだけで、ダンテの中心は反応してしまう。
心底慕っている者に求められて、嫌がる人間などいはしまい。
「んぅ……、ば、じる……」
甘えるような声。バージルはダンテに直截的な言葉を紡がせることを好むが、自らそうするには
恥ずかしさが勝ちすぎる。名を呼ぶことで羞恥を誤魔化したダンテの、薄くなってしまった胸に
バージルがふと手をあてた。するりと移動させ、腹へ。下腹を覆うように手をあてるバージルを、
ダンテは訝った。バージルが、何をか考えるような表情をしているからだ。
「? ……ぁ、ッ……」
どうしたのかと問うのを遮るように、バージルが耳朶に噛み付いた。がり、と鈍い音がする。
小さく痛みを訴えるダンテなど無視して、今度は耳の裏に唇で触れてくる。そして同じように、
歯を立てられた。
「いっ、ッ……」
びくりと跳ねるダンテの肩を、腹にあてられていた手が掴んで押さえる。動くなという、低い声。
いつもの命令口調に、しかしダンテは反撥を覚えなかった。むしろバージルの声が聞けたことに
対する安堵のほうが先に立って、ダンテはほぅと無意識に息を吐いていた。
バージルに、それが判ってしまったのかもしれない。
「ダンテ、」
呼ばわる声がやけに優しげであることに、ダンテは不審には思ったがそれ以上にやはり安堵を
得た。バージルの声。名を呼んでくれる、低い声音。
「バージル……」
首筋の、頸動脈のあたりに唇を乗せたバージルを促すように、ダンテは首をのけ反らせた。
バージルはダンテの膚を吸うことよりも、その下に流れるものを吸うことを好む。
ぶつりと、音。びりっと痛みが走り肩が強張るが、ダンテは目を瞑ることでやりすごした。
痛みの先にある快楽を、ダンテはすぎるほどに知っている。それに流され、乱れてしまうこと
こそを恐れているのだけれども。
ぢゅ、と吸われる感覚に、ダンテは僅かに眉を寄せた。ややあって、痛みが痺れに変わり、
そうして陶酔感へと移りゆく。
「っ、は……ぁ……あ……ん、」
まったく、どうしてこんな声が出るのだろう。嫌になる。すごく、嫌だ。けれど、けれども、
だ。
「ダンテ、嫌とは言わんな?」
断定的な声に、ダンテはもちろん、こくりと頷く。自分でもどうかしていると思うけれど。
(はやく、)
バージルがほしくてたまらない。
キッチンのシンクに座る恰好で、一度。全く満足出来ず(気持ちの良さはいつもの比では
なかったが)、もっととねだってソファーで二度、した。バージルは疲れも衰えも知らぬ絶倫だ。
最後にはやはり、ダンテのほうが音を上げた。
ぐったりと四肢を投げ出すダンテを、ソファーに座ったバージルが後ろから抱き締めることで
支えている。寝転ぶ恰好にさせてもらえなかったことに対する疑問は、意識を取り戻してこちら、
抱きはしても口には出さずにいる。これはこれで、心地好くあるからだ。
ぷらぷらと脚を振る。と、バージルがふっと耳に息を吹き掛けてきた。ひゃっと肩を跳ね上げる。
次いでくつくつと笑う声。
「笑うな!」
「いや、……相変わらず敏感なことだな」
放っとけ。唇を尖らせて言い、ダンテはバージルの肩に後頭部を押しつけた。背中は既に、
バージルの胸と密着している。
「なぁ、バージル」
目を瞑ると、そのまま眠れそうなほどに睡魔がすぐそばまで攻め寄せている。
「何だ」
「ん……何かさ、さっき、」
言い淀むと、早く話せと短気なバージルが言う。
「……さっき、なんか、アンタの子ども産む夢見たよ」
腹に回されたバージルの腕が、ぴくりと動いたような気がした。しかし、そうか、と応じる声音に
変化はない。気のせいだろうと、自己完結する。
「男の俺がガキ産むとか有り得ねぇけどさ、なんて言うか」
だらりと伸ばしていた腕を、腹に巻き付く兄のそれに重ねる。
「なんか、嬉しかった」
「……そうか」
淡々とした声は、しかしどこか優しくて。
バージルはダンテの手と自分の手を重ね、指を絡め。
「良かったな」
「……、うん」
微笑んで、睡魔にその身を委ねた。背中には兄の体温。よく眠れることは、まず間違いない。
意識が黒に塗り込められる間際、そういえば、と思った。
(一回も、)
床に足をつけていない。だがそれは些細なことでしかなく、ダンテはすぐに、眠りに落ちた。
夢は夢。
孕んだいのちも生み落とされたいのちも、
すべては、夢の中。
なんとなく納得がいかないかもしれませんが、完結です。
これまでお付き合い下さりありがとうございました。
こんなふうに仕上がりましたが、いかがだったでしょうか?
[08/09/03]